STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~

四谷軒

文字の大きさ
上 下
37 / 39
急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

37 敗者と勝者と

しおりを挟む
「……てなわけで、逃げることした。皆の衆も、逃げやあ」

 勝竜寺城内。
 明智光秀は北門の方からひょこひょことやって来て、斎藤利三ら、麾下の将兵七百にそう告げた。
 当然ながら利三は反対する。
 一戦すべし。
 まだ戦える。
 負けるにしても……。

「負けるにしても……何や?」

 その一言に、場は水を打ったように静かになる。
 それだけの迫力をたたえた一言だった。

「利三」

「はい」

「負けたら七百の将兵こいつらはどうなる?」

「……死にますな」

「せやろ」

 光秀はいつもの軽口を聞くような、そんな言葉である。
 だが、利三は理解した。
 光秀は、七百の将兵を逃がし、死ぬよりもまだ生きる可能性のある道を示したのだ。
 選んだのだ。

「しかし殿」

「何や」

「逃げるにしても、生き延びられるとは限りませんぞ」

 利三こいつは本当に良臣だな、と光秀は感心した。
 利三は、生きる可能性はあくまでも可能性であり、死なないという保証はない、と七百の将兵に告げているのだ。
 その上で、逃げる奴は逃げろ、と暗に言っているのだ。

「……ほんなら、わい、いの一番に逃げるわ」

 光秀はそそくさと城を出るようなしぐさをする。
 それを見た将兵はどっと笑った。
 この十日間、狂熱に浮かされたような明智軍だったが、ここに来て初めて、「まともな明智軍」に戻ったような気がした。



 羽柴秀吉とねねは逃げることを提案というか、そそのかしてきたが、野伏のぶせりやその辺が逃がしてくれるとは限らない。
 そこまでの保証はしない。
 それでも、逃げられる限りは、逃げるとしよう。
 そうやって、懸命に。
 逃げて逃げて逃げまくることにより……。

「この城の七百の将兵だけでなく、御曹司の光慶みつよしさまにも示すためですな」

「……利三」

「逃げる、否、生きる姿勢を」

「お前はホンマに良臣や」

 光秀は利三の肩をぽんぽんとたたいた。
 そして利三は最後まで城に残るらしい。

殿しんがり、ご苦労やで」

「痛み入ります」

 光秀はそれ以上言わない。
 利三もそれ以上言わない。
 長年の主従ならではの、無言のやり取りがあった。
 胸に迫る、積年の戦友同士の、想いがあった。
 光秀はもう一度、利三の肩をたたき、そして、行った。

 ……それから先の、光秀の行方はようとして知れない。
 小栗栖おぐるすという地の藪の中で、野伏せりに討たれたとも、あるいは生き延びて南光坊天海になったとも伝えられるが、定かではない。
 一方の斎藤利三は、山崎から落ち延びることには成功するが、近江堅田にて潜伏中に見つかり、捕らえられ、処刑された。しかし利三の最後まで生きようとする姿勢はその娘である福に伝わって――春日局としてのその後の彼女の人生に、大きく影響を与えたが、それはまた別の話である。



 翌日。
 空っぽとなった勝竜寺城に羽柴秀吉は入城した。
 正室であるねねを伴って。

「おみゃあのおかげじゃ、ねね」

「たまたまうまくいった。それだけ」

 謙遜ではなく、ねねはそう評価していた。
 たまたま、本能寺の変の渦中にたたき込まれ。
 たまたま、難を逃れての逃避行のうちに、算段をつけて。
 それがたまたま、うまくいっただけだ。
 特に最後の光秀へのお返しストライク・バックなど、光秀自身が拒否すれば、どうなっていたか。

「……それでもじゃ。それでも、ねね、おみゃあがいたから、勝てた。勝ったわしが言うから、間違い無い!」

 この人たらしめが。
 そう思うが、ねねは悪い気はしない。
 うしろでは、福島正則がくすくすと笑っている。
 さらにそのうしろでは、羽柴秀長が藤堂高虎と、やはり笑い合っている。

「……ですがまだこれから。信長さまと帰蝶さま、そして信忠さまの仕返しはしました。光秀はすべてを失った。逃げた。けど……」

「そっから先は、わしに任せい、ねね」

 秀吉はかたわらにひかえた黒田官兵衛に目配せする。
 官兵衛は得たりかしこしとうなずく。

「お方さまのおかげをもちまして、われら、ここまでやって来られた。そして、ここまでやって来た以上、

 何を狙うか、についてはまだ明言しない官兵衛である。
 それでも、わかる人にはわかるその物言いに、たとえば石田三成などは気を引き締めていた。

「光秀どのは言ってましたよ」

 ──これからずっと、ずうっと天下に睨みぃかせるんやったら、相応の覚悟が要るでぇ。それに、寄る年波やと、体にこたえる。

 思えば、織田信長もまた、その「覚悟」や「寄る年並」をかんがみ、次期当主・織田信忠にすべてを任せようとしていた。
 そして明智光秀もまた、嫡子・明智光慶にすべてを渡そうと考えていたゆえに、本能寺の変は起こった。

「……そうじゃのう。わしはどこまでやれるかわからん。間違えるかもしれん。だから、ねね」

 おみゃあが正してくれや、と言いかけて秀吉は飲み込んだ。
 ねねが、凄い目で睨んでいたからである。

「そういうの、自分でまず間違えないようにすべき」

「い、いや、そうかもしれんが」

「でも」

 ねねは宙空を見つめた。
 そこにまるで、誰かがいるような、そんな目をしていた。

「信長さまと……帰蝶さまに免じて、最後の最後は、その間違いがあったら、何とかしてもいい」

「…………」

 こういうこと、言いたくなかった。
 こういうことを言ったら、必ず、秀吉は図に乗る。調子に乗る。
 ほら。
 案の定。

「ねね。おみゃあは、天下一の女房じゃあ!」

 ねねはみんなが見ている中にもかかわらず、秀吉に抱きかかえられた。
 ……だが、悪い気はしなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―

馳月基矢
歴史・時代
徳川幕府をやり込めた勢いに乗じ、北進する新政府軍。 新撰組は会津藩と共に、牙を剥く新政府軍を迎え撃つ。 武士の時代、刀の時代は終わりを告げる。 ならば、刀を執る己はどこで滅ぶべきか。 否、ここで滅ぶわけにはいかない。 士魂は花と咲き、決して散らない。 冷徹な戦略眼で時流を見定める新撰組局長、土方歳三。 あやかし狩りの力を持ち、無敵の剣を謳われる斎藤一。 schedule 公開:2019.4.1 連載:2019.4.19-5.1 ( 6:30 & 18:30 )

夏目仁兵衛という男(短編)

和田光軍
SF
時は天正10年、有名な戦国武将、織田信長が表舞台から姿を消すことになる事件が起こった年。 21世紀を迎えた今でも謎が残る出来事に、ある武将が立ち会っていた。 その男の名前は夏目仁兵衛(なつめ じんべえ)、素性は尾張の農民の三男坊、幼い時からの付き合いで織田信長に仕えている軍師である。 しかし、どの歴史書を読んでも彼の名前は出てくることはない。 なぜなら彼は、本来農民のまま人生を終えるはずだったからである。 夏目仁兵衛、またの名を夏目仁。 彼はいたって普通の男子高校生だった。 夏休みに入る前日に目が醒めると、知らない天井、知らない人、そして自由に動かない身体の自分がいた。 軽度のオタクでもある彼は即座に理解した、ここは異世界であると。 そして落胆した、ここは異世界ではなく過去の日本であると。 そんな彼と織田信長の別れの事件を描いたものである。 この小説は「小説家になろう」でも掲載しています。 そのほか短編小説と書いてますので是非ご覧ください。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

待庵(たいあん)

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 千宗易(後の利休)は、山崎の戦いに臨む羽柴秀吉から、二畳の茶室を作るよう命じられる。この時代、茶室は三畳半ぐらいが常識だった。それよりも狭い茶室を作れと言われ、宗易はいろいろと考える。そして、秀吉の弟・羽柴秀長や、秀吉の正室・ねねに会い、語り、宗易はやがて茶室について「作ったる」と明言する。言葉どおり完成した茶室で、宗易は茶を点て、客を待つ。やって来た客は……。 【表紙画像】 「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

処理中です...