STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~

四谷軒

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急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

34 決戦

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「かかれえ!」

 ねねと福島正則、そして藤堂高虎が先陣を切り、池田恒興の隊は今、円明寺川を渡河し、対岸の明智軍・津田信春の陣へと突撃する。
 一方の津田信春は、明智光秀から「中央へ行け。攻めよ」との命を受けて動き出した直後である。

「なっ、なんだと!」

 津田信春は案の定、動揺した。
 しかも麾下の将兵は中央へ向かって動き出そうとしており、つまり硬直している状態である。
 そんな機に。

「渡河するだと! 攻めるだと! こっ、こんな!」

 あえなく津田信春とその将兵は総崩れとなり、それが明智軍全軍へと波及していくのに、そう時間はかからなかった。

 円明寺川渡河による特攻。
 それこそが、ねねによる策である。
 ねね自身が事前に明智軍に潜入し、脱出を期して、藤堂高虎と福島正則に円明寺川の渡河可能地点を調べさせておいたことを奇貨とした、奇襲作戦であった。



 羽柴軍本陣。
 羽柴秀吉は、近侍の石田三成から「池田隊、突進」の報を聞いた。

「でかした!」

 その秀吉の言葉は、ねねに向けてか、池田恒興に対するものか、あるいは三成に与えたものなのかは判じかねた。
 もしかしたら、それらすべてを包含ほうがんしたひとことだったのかもしれない。

「出るぞ」

 秀吉はすでに馬上の人となっていた。
 三成はあわてて千成瓢箪せんなりびょうたんの馬印をささげ持ち、「出る! 御大将おんたいしょう、出る!」と声をらして叫んだ。
 この声に織田信孝、丹羽長秀らも反応し、今や、羽柴軍はまるでひとつの生き物のように、前へ、前へといずり出ていった。



 池田恒興の奇襲、ならびに羽柴秀吉の軍全体の前進により、息を吹き返したのは、まず最前線の中川清秀と高山右近、そして堀秀政である。

「今ぞ!」

 ただひと声。
 中川清秀のただひと声であるが、そのひと声こそが、羽柴軍前線で戦う者たちの心境を象徴していた。

デウスよ!」

 高山右近はおのれの信仰こそがこの逆転を招いたと言いたげに槍を振るう。
 それを見た堀秀政は苦笑しながらも、麾下の将兵に「前へ」と命じた。
 名人久太郎と称される秀政は、今や復讐的に狂奔する中川、高山両隊を巧みに援護し、そのおかげもあってか、斎藤利三と伊勢貞興の隊は、次第に次第に押し返されていく。

機也きなり

 天王山上、それを見ていた羽柴秀長は、全軍に突撃を命じる。
 この突撃に、秀長と交戦中だった明智軍・松田政近は討ち死に、並河易家は死を免れたものの、総崩れとなっていった。

「このまま突っ込め!」

 これは黒田官兵衛の言葉である。その言葉に秀長はうなずく。そして叫んだ。

ぞ!」

 秀長は自ら先頭に立って、天王山を駆け下る。
 そうすることにより、秀長・官兵衛の軍は、戦場中央を左から急襲するかたちとなる。
 つまり、明智軍中央の斎藤利三と伊勢貞興を、羽柴軍中央の中川清秀・高山右近・堀秀政と、羽柴軍のの羽柴秀長と黒田官兵衛がで攻撃するかたちとなった。

「かかれ!」

 斎藤利三と伊勢貞興からすると、自分たちがやるはずであったを、逆にしかけられてしまい、それが痛撃となった。

「くっ」

「おのれ!」

 前と右からの同時攻撃を食らい、みるみるうちに将兵が討ち取られていく。
 これは負ける。
 利三も貞興も歴戦の勇将である。
 その感覚は、誰よりも研ぎ澄まされていた。
 逆に言うと、そういう感覚を持っているからこそ、これまで生き延びることができた。
 だが。

「もはや……これまでか」

 貞興はいつの間にか背中合わせになっていた利三につぶやく。
 利三は無念そうに首を振った。

「だから、京のではなく、の近江にと……いや、今は詮無せんなきこと」

 貞興は同僚をいたわるように微笑むと、「逃げよ」と言った。

「逃げよ、と?」

「そうだ。おれはここで死ぬ。貴君は逃げよ」

「そんな」

 勝手を言うな。
 そう言おうとした利三の乗る馬を、貞興は蹴った。
 利三の馬がいななき、後方へ下がる。

「悪いがこの死に場所は貰った。貴君は他へ行け」

 それだけ言って、貞興は前へ向かって行った。
 それが、斎藤利三の見た、伊勢貞興の最後の姿だった。
 伊勢貞興。
 幕府名門・伊勢家に生まれ、長じて足利義昭に仕えたが、義昭の追放により、明智光秀に仕えることになった。幕府の文官としての才能と、知勇兼備の将器をそなえ、何より、謀臣としての能力を買われ、光秀に大いに気に入られたという。
 その光秀の知遇にこたえ、ここまで光秀の「決起」につき合い、支え、そして散った。
 享年、二十歳。
 まだ過去よりも未来に多くを持つ年齢であった。



 伊勢貞興が討ち死にし、斎藤利三が撤退を余儀なくされたこと。
 それが、明智軍に敗北を決定づけた。
 明智光秀は自軍の誇る双璧が散ったことを知り、特に悔しがるでもなく、「さよか」と小さくつぶやいた。

「わがこと、終わんぬ」

 これまで、必死に戦ってきた。
 誇るべきではないことに手を染めたこともある。
 あるいは、本能寺の変という主殺しゅうごろしこそ、その最たるものかもしれないが。

「わいは懸命に駆けた、懸命に」

 心残りはないと言えば嘘になるが、それでも、全力で戦って、そして敗れたのだという、奇妙な満足感があった。

「ほンなら、逃げや」

 こうなると大将の役割というのは、味方の将兵を逃がすことにある。
 光秀は勝竜寺城に撤退するように命を下し、自身は殿しんがりを務めた。
 ところが御牧兼顕という光秀の直属の部隊の長が「代わりましょうぞ」と言って、光秀が止める間もなく、迫り来る羽柴軍に突進していった。

めが」

 光秀は泣いた。
 身も世もなく泣いた。
 歳を取ると、どうも涙もろくなって困ると言いながら。
 それでも敗兵を取りまとめ、どうにか、勝竜寺城へと撤退していった。
 この時、明智軍の死者は万を数え、さらに、逃亡する者が相次ぎ、ついには七百しか残らなかったという。
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