33 / 39
急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──
33 乱戦
しおりを挟む
「むざむざと、敵を通すまいぞ!」
羽柴秀長は槍をしごいて吶喊する。
山崎。
天王山。
秀長は、その山のすそを駆け抜けようとする明智軍左翼、松田政近と並河易家を視界に捉えた。
この時、松田と並河に与えられた任務は、戦場の中央で戦う伊勢貞興と斎藤利三を支援すること。
つまり、伊勢と斎藤が相手している、羽柴軍の中川清秀と高山右近をはさみ撃ちにすることだ。
「邪魔立てするな! この、猿面冠者の腰巾着が!」
せっかくのはさみ撃ちを妨害されて、松田政近が吠えた。
これには、吠えられた当人の秀長よりも、あとから追いついてきた黒田官兵衛の方がぎょっとした。
猿面冠者とは、言わずもがな、秀長の兄・羽柴秀吉のことである。
その腰巾着とは、すなわち羽柴秀長のことである。
「……なら、その腰巾着を追っ払ってみるがいい!」
秀長はそのまま政近に躍りかかった。
だがその槍さばきは冷静そのもので、それを見た官兵衛は、秀長が当初の「圧をかける」に徹していることを知り、感心した。
「では、この官兵衛は並河の方を相手するか」
素早く弓射の隊に命じて、こっそりと中央に向かおうとしていた並河易家に、矢を射かけさせた。
「さあ、ここが黒田の名の上げどころぞ! 彼奴等を止めろ! それが羽柴の勝利!」
……こうして、山崎という戦場の中央と、そして天王山で激戦が展開されていく。
*
その時ねねは、秀吉の本陣から出て、池田恒興の隊に加わっていた。
ねねは、両脇に福島正則と藤堂高虎を従え、恒興の隊の先頭にいた。
その時、池田隊は円明寺川を横目に、葦原の中を隠れながら、北上していた。
「……おふくろさま、大丈夫かのう」
正則は「ちょっと行って来る」と言って、対岸の明智軍の左、津田信春の兵をうかがって来た。
戻ると、明智軍の兵に「落ち着きがない」と報告した。
「たぶん、対岸の兵は、何らかの命を受けている。それが、落ち着かせない」
ねねのその言葉は、正則に対する返事である。
それを聞いた正則は手を打った。
「……そうか、中央でぶつかり合い、天王山でせめぎ合い、この円明寺川で」
「化かし合い」
高虎はもう思いついていたらしい。
その諧謔に、正則どころかねねまで笑った。
「凄いことを考える。これは、ねねさまの?」
「……いえ、わたしはこれからやることだけです。あとは、秀吉と……官兵衛どのでしょう」
一刻ほど葦原を北上すると、明智軍に変化があった。
ざわめいたかと思うと、中央に向かって動こうとしているのだ。
「よし、行こう」
ねねはもう渡河を始めていた。
あわてて正則がついていく。
高虎は、後方の池田恒興に向かって合図をする。
「も、もう行くんか? おふくろさま!?」
「明智軍の左が動揺している。おそらく明智軍は、羽柴軍の中央の中川さまと高山右近を、最終的には中央、右、左の三方から叩こうと思っていた。で、明智軍中央つまり斎藤利三と伊勢貞興を繰り出し、また天王山の右すなわち松田政近と並河易家を繰り出した……でも、それを止められた」
明智光秀は、羽柴軍の中央、中川清秀と高山右近を徹底的に撃破するつもりでいる。
なぜなら、中川と高山が一番生きが良く、摂津の地理に詳しい、厄介な相手だからである。
加えて、中川・高山を破れば、あとは「中国大返しで疲れた兵」しかいない。
そこで光秀は、天王山の羽柴秀長と黒田官兵衛の軍は「どうせ攻めないやろ」と思い、自軍の右の松田政近、並河易家も出した。
天王山の羽柴軍は「圧をかける」のみと断じたからだ。
ところが、松田政近、並河易家が天王山を横切ろうとしたところ、黒田官兵衛の判断により、天王山の羽柴軍が攻めかかってきた……。
「官兵衛どのは、さぞや罠に嵌めたと喜んでいることでしょう……でも苦戦しているはず」
ねねは容赦ないが、それでも官兵衛の「援護射撃」の効果は十二分に認めていた。
なぜなら。
「なぜなら……そうなると明智光秀は、今、残った一方、つまり明智軍の左の、あの津田信春の兵を出そうとしている」
一刻ほど「出す」決断に時間がかかったのは、おそらく、天王山の戦いが――羽柴秀長と黒田官兵衛相手の戦いが、「中国大返しで疲れた兵」しかいないので、押し切れば勝てると思っていたからであろう。
中央の戦いも同様である。
「ところが、秀長どのと官兵衛どのは粘った。一方で、中央の戦いも、羽柴から名人久太郎(堀秀政のこと)どのが加わり、やはり粘っている……そして今、一刻ほど経った」
ここで明智光秀は決断した。
予定どおり、明智軍の左である津田信春を投入し、勝負を決しよう、と。
明智軍の左、すなわち羽柴軍の右には、円明寺川が両軍を分け隔てている。
渡河して攻めるのには、危険が伴う。
兵法の上で、それは不利。
「だから津田信春を動かしても大丈夫……と判じた。しかし、やはり止めるかもしれない。円明寺川を羽柴軍が渡ることに気づいて、危険だ、と。戦場でのこと、いくらでも変えていかないと、負ける」
明智光秀は、その「変えていく」ことができる、貴重な将帥である。
だとすると、津田信春が動き出したこの瞬間こそが、最大の好機である。
それに。
「こちらの中川さま、高山さまは、おそらくもう保つまい。名人久太郎(堀秀政のこと)どのが後詰めについたが、それももう限界。天王山の方も、せめぎ合いがせいぜい」
光秀が「変えていく」をしなかったとしても、下手に津田隊が中央に出現したら、それが羽柴軍の敗北のきっかけとなる。
将は良くても、兵が動揺する。
そしていくさとは、そういう機が勝敗を決するのだ。
「今。津田が動き出した今。津田が振り返る暇を与えず、討ちましょう……そうですね、池田さま」
「応!」
いつの間にか追いついていた池田恒興は、馬上、元気よく槍を振った。
奇襲。
敵の虚を突いて。
それこそが、恒興が乳兄弟・織田信長との青年時代の忘れえぬ思い出、輝かしき戦いである――
「桶狭間のようじゃ!」
恒興につづいて、その子の元助もつづく。他にも加藤光泰の隊が追いついてきていて、吶喊していった。
羽柴秀長は槍をしごいて吶喊する。
山崎。
天王山。
秀長は、その山のすそを駆け抜けようとする明智軍左翼、松田政近と並河易家を視界に捉えた。
この時、松田と並河に与えられた任務は、戦場の中央で戦う伊勢貞興と斎藤利三を支援すること。
つまり、伊勢と斎藤が相手している、羽柴軍の中川清秀と高山右近をはさみ撃ちにすることだ。
「邪魔立てするな! この、猿面冠者の腰巾着が!」
せっかくのはさみ撃ちを妨害されて、松田政近が吠えた。
これには、吠えられた当人の秀長よりも、あとから追いついてきた黒田官兵衛の方がぎょっとした。
猿面冠者とは、言わずもがな、秀長の兄・羽柴秀吉のことである。
その腰巾着とは、すなわち羽柴秀長のことである。
「……なら、その腰巾着を追っ払ってみるがいい!」
秀長はそのまま政近に躍りかかった。
だがその槍さばきは冷静そのもので、それを見た官兵衛は、秀長が当初の「圧をかける」に徹していることを知り、感心した。
「では、この官兵衛は並河の方を相手するか」
素早く弓射の隊に命じて、こっそりと中央に向かおうとしていた並河易家に、矢を射かけさせた。
「さあ、ここが黒田の名の上げどころぞ! 彼奴等を止めろ! それが羽柴の勝利!」
……こうして、山崎という戦場の中央と、そして天王山で激戦が展開されていく。
*
その時ねねは、秀吉の本陣から出て、池田恒興の隊に加わっていた。
ねねは、両脇に福島正則と藤堂高虎を従え、恒興の隊の先頭にいた。
その時、池田隊は円明寺川を横目に、葦原の中を隠れながら、北上していた。
「……おふくろさま、大丈夫かのう」
正則は「ちょっと行って来る」と言って、対岸の明智軍の左、津田信春の兵をうかがって来た。
戻ると、明智軍の兵に「落ち着きがない」と報告した。
「たぶん、対岸の兵は、何らかの命を受けている。それが、落ち着かせない」
ねねのその言葉は、正則に対する返事である。
それを聞いた正則は手を打った。
「……そうか、中央でぶつかり合い、天王山でせめぎ合い、この円明寺川で」
「化かし合い」
高虎はもう思いついていたらしい。
その諧謔に、正則どころかねねまで笑った。
「凄いことを考える。これは、ねねさまの?」
「……いえ、わたしはこれからやることだけです。あとは、秀吉と……官兵衛どのでしょう」
一刻ほど葦原を北上すると、明智軍に変化があった。
ざわめいたかと思うと、中央に向かって動こうとしているのだ。
「よし、行こう」
ねねはもう渡河を始めていた。
あわてて正則がついていく。
高虎は、後方の池田恒興に向かって合図をする。
「も、もう行くんか? おふくろさま!?」
「明智軍の左が動揺している。おそらく明智軍は、羽柴軍の中央の中川さまと高山右近を、最終的には中央、右、左の三方から叩こうと思っていた。で、明智軍中央つまり斎藤利三と伊勢貞興を繰り出し、また天王山の右すなわち松田政近と並河易家を繰り出した……でも、それを止められた」
明智光秀は、羽柴軍の中央、中川清秀と高山右近を徹底的に撃破するつもりでいる。
なぜなら、中川と高山が一番生きが良く、摂津の地理に詳しい、厄介な相手だからである。
加えて、中川・高山を破れば、あとは「中国大返しで疲れた兵」しかいない。
そこで光秀は、天王山の羽柴秀長と黒田官兵衛の軍は「どうせ攻めないやろ」と思い、自軍の右の松田政近、並河易家も出した。
天王山の羽柴軍は「圧をかける」のみと断じたからだ。
ところが、松田政近、並河易家が天王山を横切ろうとしたところ、黒田官兵衛の判断により、天王山の羽柴軍が攻めかかってきた……。
「官兵衛どのは、さぞや罠に嵌めたと喜んでいることでしょう……でも苦戦しているはず」
ねねは容赦ないが、それでも官兵衛の「援護射撃」の効果は十二分に認めていた。
なぜなら。
「なぜなら……そうなると明智光秀は、今、残った一方、つまり明智軍の左の、あの津田信春の兵を出そうとしている」
一刻ほど「出す」決断に時間がかかったのは、おそらく、天王山の戦いが――羽柴秀長と黒田官兵衛相手の戦いが、「中国大返しで疲れた兵」しかいないので、押し切れば勝てると思っていたからであろう。
中央の戦いも同様である。
「ところが、秀長どのと官兵衛どのは粘った。一方で、中央の戦いも、羽柴から名人久太郎(堀秀政のこと)どのが加わり、やはり粘っている……そして今、一刻ほど経った」
ここで明智光秀は決断した。
予定どおり、明智軍の左である津田信春を投入し、勝負を決しよう、と。
明智軍の左、すなわち羽柴軍の右には、円明寺川が両軍を分け隔てている。
渡河して攻めるのには、危険が伴う。
兵法の上で、それは不利。
「だから津田信春を動かしても大丈夫……と判じた。しかし、やはり止めるかもしれない。円明寺川を羽柴軍が渡ることに気づいて、危険だ、と。戦場でのこと、いくらでも変えていかないと、負ける」
明智光秀は、その「変えていく」ことができる、貴重な将帥である。
だとすると、津田信春が動き出したこの瞬間こそが、最大の好機である。
それに。
「こちらの中川さま、高山さまは、おそらくもう保つまい。名人久太郎(堀秀政のこと)どのが後詰めについたが、それももう限界。天王山の方も、せめぎ合いがせいぜい」
光秀が「変えていく」をしなかったとしても、下手に津田隊が中央に出現したら、それが羽柴軍の敗北のきっかけとなる。
将は良くても、兵が動揺する。
そしていくさとは、そういう機が勝敗を決するのだ。
「今。津田が動き出した今。津田が振り返る暇を与えず、討ちましょう……そうですね、池田さま」
「応!」
いつの間にか追いついていた池田恒興は、馬上、元気よく槍を振った。
奇襲。
敵の虚を突いて。
それこそが、恒興が乳兄弟・織田信長との青年時代の忘れえぬ思い出、輝かしき戦いである――
「桶狭間のようじゃ!」
恒興につづいて、その子の元助もつづく。他にも加藤光泰の隊が追いついてきていて、吶喊していった。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
前夜 ~敵は本能寺にあり~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。
【表紙画像・挿絵画像】
「きまぐれアフター」様より
こじき若殿
四谷軒
歴史・時代
父に死なれ、兄は主君と共に京(みやこ)へ――。
継母と共に、亡父の隠居の城に残された若殿は、受け継ぐはずのその城を、家臣に乗っ取られてしまう。
家臣の専横は、兄の不在によるもの――そう信じて、兄の帰郷を待つ若殿。
しかし、兄は一向に京から帰らず、若殿は食うに困り、物を恵んでもらって暮らす日々を送っていた。
いつしか「こじき若殿」と蔑み呼ばれていた若殿。
「兄さえ帰れば」――その希望を胸に抱き、過ごす若殿が、ある日、旅の老僧と出会う。
※表紙画像は「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
待庵(たいあん)
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
千宗易(後の利休)は、山崎の戦いに臨む羽柴秀吉から、二畳の茶室を作るよう命じられる。この時代、茶室は三畳半ぐらいが常識だった。それよりも狭い茶室を作れと言われ、宗易はいろいろと考える。そして、秀吉の弟・羽柴秀長や、秀吉の正室・ねねに会い、語り、宗易はやがて茶室について「作ったる」と明言する。言葉どおり完成した茶室で、宗易は茶を点て、客を待つ。やって来た客は……。
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
実はこれ実話なんですよ
tomoharu
恋愛
え?こんな話絶対ありえない!作り話でしょと思うような話からあるある話まで幅広い範囲で物語を考えました!ぜひ読んでみてください!1年後には大ヒット間違いなし!!
作品情報【マーライオン】【愛学両道】【やりすぎ智伝説&夢物語】【トモレオ突破椿】など
・【やりすぎ智久伝説&夢物語】とは、その話はさすがに言いすぎでしょと言われているほぼ実話ストーリーです。
小さい頃から今まで主人公である【智久】はどのような体験をしたのかがわかります。ぜひよんでくださいね!
・【トモレオ突破椿】は、公務員試験合格なおかつ様々な問題を解決させる話です。
頭の悪かった人でも公務員になれることを証明させる話でもあるので、ぜひ読んでみてください!
特別記念として実話を元に作った【呪われし◯◯シリーズ】も公開します!
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい 〜貞盛と将門〜
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
天慶三年、平貞盛と平将門は坂東において、最後の決戦に臨んでいた。「北山の決戦」といわれるその戦いの最中、貞盛は将門との「これまで」を思い出す。そしてその思い出を振り切るように戦い、矢を放ち……。
【登場人物】
平貞盛:武士。父・平国香を将門に討たれるも、将門に非は無いとして、融和の道を探るが……。
平将門:武士。坂東において武士の楽土を築こうと奮闘する。
藤原秀郷:貞盛の叔父。貞盛に助力して、将門と戦う。
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
織田家の人々 ~太陽と月~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
(第一章 太陽の音を忘れない ~神戸信孝一代記~)
神戸信孝は織田信長の三男として知られる。彼は、庶子でありながら、嫡出である信忠・信雄についだ格付けを得るまでにのし上がっていた。
その最たるものが四国征伐であり、信孝はその将として、今、まさに四国への渡海を目前としており、その成功は約束されていた――本能寺の変が、起こるまでは。
(第二章 月を飛ぶ蝶のように ~有楽~)
織田有楽、あるいは織田有楽斎として知られる人物は、織田信長の弟として生まれた。信行という兄の死を知り、信忠という甥と死に別れ、そして淀君という姪の最期を……晩年に京にしつらえた茶室、如庵にて有楽は何を想い、感じるのか。それはさながら月を飛ぶ蝶のような、己の生涯か。
【表紙画像】
歌川国芳, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる