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急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

33 乱戦

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「むざむざと、敵を通すまいぞ!」

 羽柴秀長は槍をしごいて吶喊とっかんする。
 山崎。
 天王山。
 秀長は、その山のすそを駆け抜けようとする明智軍左翼、松田政近まつだまさちか並河易家なびかやすいえを視界に捉えた。
 この時、松田と並河に与えられた任務は、戦場の中央で戦う伊勢貞興と斎藤利三を支援すること。
 つまり、伊勢と斎藤が相手している、羽柴軍の中川清秀と高山右近をはさみ撃ちにすることだ。

「邪魔立てするな! この、猿面冠者さるめんかじゃ腰巾着こしぎんちゃくが!」

 せっかくのはさみ撃ちを妨害されて、松田政近が吠えた。
 これには、吠えられた当人の秀長よりも、あとから追いついてきた黒田官兵衛の方がぎょっとした。
 猿面冠者とは、言わずもがな、秀長の兄・羽柴秀吉のことである。
 その腰巾着とは、すなわち羽柴秀長のことである。

「……なら、その腰巾着を追っ払ってみるがいい!」

 秀長はそのまま政近に躍りかかった。
 だがその槍さばきは冷静そのもので、それを見た官兵衛は、秀長が当初の「圧をかける」に徹していることを知り、感心した。

「では、この官兵衛は並河の方を相手するか」

 素早く弓射の隊に命じて、こっそりと中央に向かおうとしていた並河易家に、矢を射かけさせた。

「さあ、ここが黒田の名の上げどころぞ! 彼奴等きゃつらを止めろ! それが羽柴の勝利!」

 ……こうして、山崎という戦場の中央と、そして天王山で激戦が展開されていく。



 その時ねねは、秀吉の本陣から出て、池田恒興の隊に加わっていた。
 ねねは、両脇に福島正則と藤堂高虎を従え、恒興の隊の先頭にいた。
 その時、池田隊は円明寺川を横目に、葦原よしはらの中を隠れながら、北上していた。

「……おふくろさま、大丈夫かのう」

 正則は「ちょっと行って来る」と言って、対岸の明智軍の、津田信春の兵をうかがって来た。
 戻ると、明智軍の兵に「落ち着きがない」と報告した。

「たぶん、対岸の兵は、何らかの命を受けている。それが、落ち着かせない」

 ねねのその言葉は、正則に対する返事である。
 それを聞いた正則は手を打った。

「……そうか、中央でぶつかり合い、天王山でせめぎ合い、この円明寺川で」

「化かし合い」

 高虎はもう思いついていたらしい。
 その諧謔ユーモアに、正則どころかねねまで笑った。

「凄いことを考える。これは、ねねさまの?」

「……いえ、わたしはです。あとは、秀吉と……官兵衛どのでしょう」

 一刻ほど葦原を北上すると、明智軍に変化があった。
 ざわめいたかと思うと、中央に向かって動こうとしているのだ。

「よし、行こう」

 ねねはもう渡河を始めていた。
 あわてて正則がついていく。
 高虎は、後方の池田恒興に向かって合図をする。

「も、もう行くんか? おふくろさま!?」

「明智軍のが動揺している。おそらく明智軍は、羽柴軍の中央の中川さまと高山右近を、最終的にはの三方から叩こうと思っていた。で、明智軍つまり斎藤利三と伊勢貞興を繰り出し、また天王山のすなわち松田政近と並河易家を繰り出した……でも、それを止められた」

 明智光秀は、羽柴軍の中央、中川清秀と高山右近を徹底的に撃破するつもりでいる。
 なぜなら、中川と高山が一番が良く、摂津の地理に詳しい、厄介な相手だからである。
 加えて、中川・高山を破れば、あとは「中国大返しで疲れた兵」しかいない。
 そこで光秀は、天王山の羽柴秀長と黒田官兵衛の軍は「どうせ攻めないやろ」と思い、自軍のの松田政近、並河易家も出した。
 天王山の羽柴軍は「圧をかける」のみと断じたからだ。
 ところが、松田政近、並河易家が天王山を横切ろうとしたところ、黒田官兵衛の判断により、天王山の羽柴軍が攻めかかってきた……。 

「官兵衛どのは、さぞや罠にめたと喜んでいることでしょう……でも苦戦しているはず」

 ねねは容赦ないが、それでも官兵衛の「援護射撃」の効果は十二分に認めていた。
 なぜなら。

「なぜなら……そうなると明智光秀は、今、残った、つまり明智軍のの、あの津田信春の兵を出そうとしている」

 一刻ほど「出す」決断に時間がかかったのは、おそらく、天王山の戦いが――羽柴秀長と黒田官兵衛相手の戦いが、「中国大返しで疲れた兵」しかいないので、押し切れば勝てると思っていたからであろう。
 中央の戦いも同様である。

「ところが、秀長どのと官兵衛どのは粘った。一方で、中央の戦いも、羽柴から名人久太郎(堀秀政のこと)どのが加わり、やはり粘っている……そして今、一刻ほど経った」

 ここで明智光秀は決断した。
 予定どおり、明智軍のである津田信春を投入し、勝負を決しよう、と。
 明智軍の左、すなわち羽柴軍の右には、円明寺川が両軍を分け隔てている。
 渡河して攻めるのには、危険が伴う。
 兵法の上で、それは不利。

「だから津田信春を動かしても大丈夫……と判じた。しかし、やはり止めるかもしれない。円明寺川を羽柴軍こちらが渡ることに気づいて、危険だ、と。戦場でのこと、いくらでも変えていかないと、負ける」

 明智光秀は、その「変えていく」ことができる、貴重な将帥である。
 だとすると、津田信春が動き出したこの瞬間こそが、最大の好機である。
 それに。

「こちらの中川さま、高山さまは、おそらくもうつまい。名人久太郎(堀秀政のこと)どのが後詰めについたが、それももう限界。天王山の方も、せめぎ合いがせいぜい」

 光秀が「変えていく」をしなかったとしても、下手に津田隊が中央に出現したら、それが羽柴軍の敗北のきっかけとなる。
 将は良くても、兵が動揺する。
 そしていくさとは、そういう機が勝敗を決するのだ。

「今。津田が動き出した今。津田が暇を与えず、討ちましょう……そうですね、池田さま」

「応!」

 いつの間にか追いついていた池田恒興は、馬上、元気よく槍を振った。
 奇襲。
 敵の虚を突いて。
 それこそが、恒興が乳兄弟・織田信長との青年時代の忘れえぬ思い出、輝かしき戦いである――

「桶狭間のようじゃ!」

 恒興につづいて、その子の元助もつづく。他にも加藤光泰の隊が追いついてきていて、吶喊とっかんしていった。
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