STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~

四谷軒

文字の大きさ
上 下
32 / 39
急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

32 開戦

しおりを挟む
 硝煙のにおいがした。
 火縄銃のにおいだ。
 ねねは、これから訪れる大いくさを、鼻で感じ取った。

「……来る」

 ねねの静かな叫びに、羽柴秀吉は大いにうなずいた。

「おうい、皆の衆、わが妻女がてっきのにおいを嗅いだでなア、もっすぐ、来るぞ、日向ひゅうがが」

 おお、というおめき声が上がる。
 日向というのは、惟任日向守これとうひゅうがのかみ、つまり明智光秀である。

「……ついに、来た」

「おう、そうじゃあ、ねねよ、おみゃあの読みどおりよ」

 おみゃあは天下一の女房だで、と秀吉は持ち上げた。
 実際、ねねを抱きかかえた。

「……やっ、やめなさい! みんな、見てる!」

「かまわん、かまわん」

 秀吉は呵々大笑しながら、ねねを肩に置く。
 小兵こひょうの秀吉であるが、体幹はしっかりしている。大樹のように。
 これでは、まるで自分こそが猿のようだとねねは感じた。

「もうすぐだ、ねね」

「……ええ」

 風がねねの髪をなぶる。
 あの時も、こんな風が吹いていた気がする。
 もう十日ほど経つのかと、ねねはひとりごちた。

「あの……本能寺の時から、十日」

 十日どころか、それ以上、十年以上も経っているような気がする。
 ねねは思い出す。
 あの時、天正十年六月二日、その夜。
 ねねは本能寺にいた。
 織田信長の正室、帰蝶に招かれて。
 そして……。



 一般的に知られる山崎の戦いは、天王山という高みを押さえた羽柴秀吉が戦術的に有利となり、明智光秀が天王山それを奪おうと攻めかかり、山をめぐっての死闘から始まった、ということになっている。
 だが実際は、光秀がまず最初に狙ったのは、羽柴軍中央、摂津衆の中川清秀と高山右近である。

「羽柴ン真ん中にるあの二人が邪魔や」

 光秀は、明智の双璧とたとえられる斎藤利三と伊勢貞興に命じて、中川清秀と高山右近に攻撃を加えた。

「摂津の衆には土地勘がある。地元ゆえ疲れとらん。これは潰しとくべきやろ」

 苛烈ともいうべき、利三と貞興の攻め。
 これには中川隊も高山隊も音をあげた。

「右近! く助けを求めよ! ここはおれが防ぐ!」

 中川清秀は、槍をしごいて伊勢貞興に吶喊とっかんしていく。
 この隙にと後ろに下がろうとした高山右近に、斎藤利三が迫る。

「明智に逆らうれ者めが!」

 用兵巧者いくさじょうずとして知られ、旧主・稲葉一鉄と今の主・明智光秀で取り合いが起きたとまで言われる利三の攻めを、危なげなく右近は受けた。

デウスよ、ご照覧あれ!」

 右近もまた、剛の者である。キリシタンであり、生真面目として知られる彼ではあるが、れっきとしたいくさ人である。
 かつて右近が旧主・和田惟長わだこれながから夜に城に呼び出され、暗殺されそうになった時のことである。
 惟長の家臣らが乱入して蝋燭が倒れて消えた闇の中、右近は惟長の位置を覚えており、あやまたず惟長を斬りつけ、手傷を負いながらも、倒すことに成功する。
 その後の乱戦で、右近自身も首を半ばまで切断されるという大怪我を負うが、それでも右近は生き延び、回復を遂げた。
 そしてそのことが彼の信仰を深めることになり、

「かならずやデウスは、このジュスト(右近の洗礼名)をよみたもう!」

 ここ一番という時に、その狂信的なまでの目で敵をにらみつけ、斬りつけるようになった。

「くっ、この若造が!」

 五十歳近い利三からすると、三十歳の右近は若造である。
 だがその若造がこうまで粘るとは思わず、舌打ちする。

「だがな……それでは、! 若造!」

 利三としては、右近を勝利である。
 軽くひねりつぶして、さらなる功をと出張るのは、欲張り過ぎであろう。



「ねねよう、おみゃあの言うとおり、てっきが来たげな」

「ええ」

 秀吉は、太陽を模した兜を乗せた頭を振って、後方をかえりみた。

「佐吉ィ」

「はい!」

 秀吉とねねのうしろに待機していた佐吉こと石田三成は元気よく返事した。
 その三成に相好を崩しながら、秀吉は伝令を命じた。

「名人久太郎に、前へ出るよう言え」

 名人久太郎とは、堀秀政のことであり、この秀政は美形であるがゆえに信長の小姓となったが、その前は秀吉に仕えていた。
 その縁から中国攻めの秀吉の軍監を命じられていたが、本能寺の変に際して、そのまま秀吉の中国大返しに同道し、こうして山崎の戦いに参加している。
 その名人といわれる所以ゆえんは、かならず自らの目と耳、体で確かめてから考え、行動することにある。

「うけたまわった」

 秀政は三成から進撃の命を聞くと、すぐさま前に出た。
 見ると、中川清秀が伊勢貞興に、高山右近が斎藤利三に攻め入られている。
 秀政の腹心、堀直政が「早く助けに行かねば」と言上すると、秀政は「しばし待て」と返して、戦場を観察した。
 その観察に直政がしびれを切らし、自分だけでもと進もうとすると、秀政は口を開いた。

「伊勢、斎藤の動き、面妖なり。何かある。これを

 ここで離れた本陣の秀吉ではなく、近くの黒田官兵衛に伝えようとしたところに、秀政の真骨頂がある。

「かかれ!」

 観察と報告を終えたら、すぐさま戦いに入る。
 その秀政の切り替えの速さに、直政は遅れじとついていく。



「堀秀政は何が言いたいのか」

 天王山。
 羽柴秀長は、秀政の使い番が去って行く背を見ながら、黒田官兵衛に問うた。
 官兵衛はくっくっと笑い出す。

「あの惟任これとうが、罠に嵌まったのでござるよ」

 腹を押さえつつ、答えた。
 よほど、おかしいらしい。

「罠とは、何か」

 秀長は凡将ではない。
 むしろ、大局を見すえる器を持っている。
 そして、秀吉とねねから、このいくさを、も聞いている。

「何、大事の前の小事。秀長どのがわからぬのも、無理なきこと」

 秀長としては、この天王山にて陣をかまえ、明智軍に圧をかけるのが自分と官兵衛の仕事だと思っている。
 これまで、秀吉に従っての大体の仕事は、そういう裏方であり、下支えの仕事だった。
 だから今回もそうだと思っていた。
 だが官兵衛はちがうと言う。

「あの光秀がしびれを切らして、中川と高山に、おのれの金看板である伊勢と斎藤をぶつけた……と、見せつけておる、のでござる」

 光秀はどこまでも兵法の定石に忠実だ。
 最初から強兵で知られる伊勢貞興と斎藤利三の隊をたたきつけるのも、理にかなっている。

「そう……どこまでも定石に忠実。なら、この伊勢と斎藤の攻めで、何をねらう、か」

「何をねらう……」

 そこで秀長は戦場を見た。
 堀秀政のように。

「あっ」

 そして気づいた。
 敵に動きがある。
 事前にねねや福島正則、そして藤堂高虎に聞いていた布陣によると。

「明智の軍の左の、松田政近まつだまさちか並河易家なびかやすいえが動いておる」

「そう。動きましたな。、すなわちのわれらの前で。この天王山を前を横切って、真ん中に行くつもりでしょう。中川と高山の横っ腹をたたきに」

 つまり明智光秀は、完膚なきまでに中川清秀と高山右近を潰すつもりである。
 伊勢貞興・斎藤利三を真正面から当てておいて。
 その横から、松田政近・並河易家により、はさみ撃ちをして。

「いわゆるという策ですな、兵書いわく」

 をしている。
 秀長はそう思った。
 しかし、そうなるのも無理はないとも思い、全軍に突撃を命じた。
 ここで松田政近と並河易家をそのまま通すわけにはいかない。
 それに。

「われらが戦えば戦うほど、兄者と……義姉上あねうえの策が光る。でござるな、官兵衛どの」

しかり、しかり」

 相好を崩す官兵衛。
 ……こうして、山崎の戦いの序盤戦は、明智の押しを羽柴が受けるかたちになった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

前夜 ~敵は本能寺にあり~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。 【表紙画像・挿絵画像】 「きまぐれアフター」様より

待庵(たいあん)

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 千宗易(後の利休)は、山崎の戦いに臨む羽柴秀吉から、二畳の茶室を作るよう命じられる。この時代、茶室は三畳半ぐらいが常識だった。それよりも狭い茶室を作れと言われ、宗易はいろいろと考える。そして、秀吉の弟・羽柴秀長や、秀吉の正室・ねねに会い、語り、宗易はやがて茶室について「作ったる」と明言する。言葉どおり完成した茶室で、宗易は茶を点て、客を待つ。やって来た客は……。 【表紙画像】 「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

実はこれ実話なんですよ

tomoharu
恋愛
え?こんな話絶対ありえない!作り話でしょと思うような話からあるある話まで幅広い範囲で物語を考えました!ぜひ読んでみてください!1年後には大ヒット間違いなし!! 作品情報【マーライオン】【愛学両道】【やりすぎ智伝説&夢物語】【トモレオ突破椿】など ・【やりすぎ智久伝説&夢物語】とは、その話はさすがに言いすぎでしょと言われているほぼ実話ストーリーです。 小さい頃から今まで主人公である【智久】はどのような体験をしたのかがわかります。ぜひよんでくださいね! ・【トモレオ突破椿】は、公務員試験合格なおかつ様々な問題を解決させる話です。 頭の悪かった人でも公務員になれることを証明させる話でもあるので、ぜひ読んでみてください! 特別記念として実話を元に作った【呪われし◯◯シリーズ】も公開します!

織田家の人々 ~太陽と月~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 (第一章 太陽の音を忘れない ~神戸信孝一代記~) 神戸信孝は織田信長の三男として知られる。彼は、庶子でありながら、嫡出である信忠・信雄についだ格付けを得るまでにのし上がっていた。 その最たるものが四国征伐であり、信孝はその将として、今、まさに四国への渡海を目前としており、その成功は約束されていた――本能寺の変が、起こるまでは。 (第二章 月を飛ぶ蝶のように ~有楽~) 織田有楽、あるいは織田有楽斎として知られる人物は、織田信長の弟として生まれた。信行という兄の死を知り、信忠という甥と死に別れ、そして淀君という姪の最期を……晩年に京にしつらえた茶室、如庵にて有楽は何を想い、感じるのか。それはさながら月を飛ぶ蝶のような、己の生涯か。 【表紙画像】 歌川国芳, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

加藤虎之助(後の清正、15歳)、姉さん女房をもらいました!

野松 彦秋
歴史・時代
加藤虎之助15歳、山崎シノ17歳 一族の出世頭、又従弟秀吉に翻弄(祝福?)されながら、 二人は夫婦としてやっていけるのか、身分が違う二人が真の夫婦になるまでの物語。 若い虎之助とシノの新婚生活を温かく包む羽柴家の人々。しかし身分違いの二人の祝言が、織田信長の耳に入り、まさかの展開に。少年加藤虎之助が加藤清正になるまでのモノカタリである。

少年忍者たちと美しき姫の物語

北条丈太郎
歴史・時代
姫を誘拐することに失敗した少年忍者たちの冒険

日日晴朗 ―異性装娘お助け日記―

優木悠
歴史・時代
―男装の助け人、江戸を駈ける!― 栗栖小源太が女であることを隠し、兄の消息を追って江戸に出てきたのは慶安二年の暮れのこと。 それから三カ月、助っ人稼業で糊口をしのぎながら兄をさがす小源太であったが、やがて由井正雪一党の陰謀に巻き込まれてゆく。 月の後半のみ、毎日10時頃更新しています。

処理中です...