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急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

30 山崎にて

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 下鳥羽での長滞陣を終え、ついに明智光秀は「その戦場」へと兵を向けた。

「山崎や」

 この、山城と摂津の境に位置する土地は、古来、商人たちの町としても知られる。
 この時代、戦国の時代にあっては、油を売ることが主要な商いであり、著名な商人としては、山崎屋庄五郎──斎藤道三などが知られる。
 綺麗な水を産し、山城──京と摂津──堺の結節点。
 しかも「山」とあっては、京畿を戦う武将としては、どう見ても押さえたくなる土地である。

「さてさて羽柴秀吉め、どうやって攻めて来るのやら」

 おそらく、野戦だろうということはわかっている。
 長期の籠城戦となると、柴田勝家なり滝川一益なりが駆けつけてくるかもしれない。
 そうすると、手柄の奪い合いになる。
 だから、秀吉としては、野戦で雌雄を決したかった。

「しかし──それは明智こちらも同様や」

 光秀としても、たとえば勝竜寺城なり淀城なりに籠ったとしても、それは城攻めの名手・秀吉によって首討たれることを意味する。
 あるいは、秀吉が腹を決めて長期戦に出たとしたら、丸々、中国攻めの兵を囲うのに使える。今は疲弊し切っているので、羽柴軍の中心は摂津諸侯の兵だ。
 でも、籠城となったら、疲労している兵でも、城を囲うことができる。

「そしたら、詰みや。そうはさせへん」

 つまり、秀吉、光秀両者ともに、野戦にて雌雄を決する方に傾いていた。



 山崎。
 円明寺川。
 この川をはさんで、明智軍は羽柴軍と相対あいたいしていた。
 距離を取って、鉄砲での小競り合いなら、もう始まっている。
 だが光秀も秀吉も敢えてまだ、ぶつかろうとしない。
 時に、天正十年六月十二日。
 いわゆる、山崎の戦いの前日である。

「勝竜寺城、淀城のは終わったな、利三」

「はっ」

 明智光秀の腹心、斎藤利三は近江から直接、勝竜寺に入り、その修復を終え、光秀に報告を済ませたところであった。
 利三としては、京より、近江坂本城にて秀吉を待ち受け、邀撃ようげきすることを上申していたのだが、京都守護の勅命、ならびに細川家への示威に加え、「北はあかん。柴田、特に前田が来る」と言われ、引き下がった。
 光秀の言葉は端的ではあったが、南から羽柴秀吉、北から柴田勝家の挟み撃ちの危険性はたしかにある。
 秀吉と勝家は犬猿の仲ではあったが、信長の復仇という目的なら、あるいは勝家自身ではなく、秀吉の朋友、前田利家あたりが出張ってくる可能性は、充分あった。

「そうでなくとも、下手に時をかければ、負くるぞ。それより、秀吉の首や」

 光秀としては、ここで秀吉を討ち取れば、羽柴軍は崩壊し、場合によってはこともできる。
 さすれば、元々のである割拠に傾注することができようというものだ。

「気張るで、利三ゥ。わいも、前線まえへ出る」

 光秀は修復なった勝竜寺城にも淀城にも入らず、御坊塚というところへ出て、本陣を張った。
 ここで、軍を左右両翼に広げ、先ほどの円明寺川を左翼、淀城を右翼とし、中央に腹心、斎藤利三を配置して、さらに阿閉貞征ら近江衆を置いた。
 ここで光秀はもう一手、伊勢貞興ら旧幕府衆を中央に差し向ける。

「ええか。山崎ここはあの山(天王山)とあの川(円明寺川)に挟まれとる。しかも沼地だらけや。せやけど、わいらの陣の前。ここはになっとるんや。せやから、羽柴ァを通る。そこを

 いわば切り札、虎の子である伊勢貞興らを、敢えて後出しにせず、最初から中央前面に貼りつかせて、羽柴軍のを叩いて叩いて叩きまくる作戦である。
 定石どおりであり、そのとおりに布陣し、采配を取る光秀。
 その恐ろしさを最も知る者は、羽柴秀吉であり、黒田官兵衛であり、そしてねねである。



「それぞれの兵の場所は覚えた? 市松」

「おお、お任せあれ」

 市松と呼ばれた福島正則は胸を叩いた。
 ねね、藤堂高虎と共に、明智軍の荷駄隊に潜入し、洞ヶ峠、下鳥羽と来て、ついにこの山崎まで来た。御坊塚まで来た。
 兵の大体の配置も覚えた。
 日が、暮れかかっている。
 あとは、羽柴秀吉の元へ帰るだけである。
 しかし高虎は、さらに本陣に迫って、密なる情報をと思って残ろうとしたが、

「これ以上は、無益。聞いた密談も、あっという間に知られた話となろう」

 と、ねねに諭された。
 たしかに、ここまで来たら、あとはぶつかるのみ。
 今さら、何をどうする、誰それをどこへなどと言われても、それはすぐに実行される。
 聞いて、戻る間に。
 それであれば、今の布陣を頭に叩き込んで、一刻も早く帰るべき。

「承知し申した」

 高虎はねねの戦場勘ともいうべき判断に舌を巻いた。
 そして、この方を羽柴秀吉と秀長に戻せば、勝利は疑いなしと信じた。

「では」

 高虎は歩き出した。
 ねねも正則も歩き出す。
 行き先は、円明寺川のとある浅瀬。
 葦原よしはらとなっているそこに、小舟を一艘、隠してある。
 このあたり、水郷の近くに生まれ育った高虎らしい「逃げ道」である。

「む」

 高虎が手ぶりでねねと正則に、伏せて隠れるよう、うながす。
 見ると、葦原の中に、ひとりの老人が立っていた。
 唄っていた。
 
〽死のふは一定いちじょう
 しのび草には何をしよぞ 
 一定かたりをこすのよ

 人は死ぬ。それは定め。
 ならば、死を迎えるまでに何をしよう。
 語り草となる、何かをしよう。
 ……という意味の唄である。

「……いい唄」

 ねねは感心するようにうなずいた。
 それにしてもこの唄、どこかで聞いたような気がする。
 たしか……。

「そこにるんは、誰や?」

 老人の声だ。
 唄っていたままのかん高い声だが、隙が無い。
 正則と高虎は目線で止めたが、ねねは立ち上がっていた。

「すみません、聞きれておりました」

 老人は、ン、と片目を大きく開いてねねを見ると、「荷駄隊の女足軽やな」とつぶやいた。

「何や持ち場を離れて……って、わいもそうか」

 老人は高笑いして、頭を掻いた。
 何でも、軍議が長くて嫌気が差し、こうして散歩に出たらしい。

「よろしいのですか?」

「ン、何が?」

「軍議、いなくて?」

「……ああ」

 老人はひとつ伸びをして、ほんなら戻ろうかいと、伸びをしたまま歩き出した。
 一歩、二歩。
 歩きながら、さりげなく、高虎と正則がいる葦の陰へと目を向ける。

「何や、逃げるんかい?」

 とがめる様子ではなさそうだった。

「逃げます」

 素直に答えると、老人は「行け行け」と手を振った。

「よろしいので?」

「かまへん、かまへん。そういうのん、で考えて、いくさの算段を立てとる。そりゃ、もっとでっかい群れごとだったらアカンけど、二人や三人やったら、かまへん……何せ」

 そこでふっと笑う声がした。

「……何せ、や。こういう、こういう、きわきわまで来てぇ、逃げるんやったわ、わいはよう口出さん。好きにしぃや」

 老人は実際そのあとはねねに声をかけず、そのうち「死のふは一定」の唄を唄い出して、去って行った。



 夜の円明寺川。
 小舟を漕ぎながら、高虎は、さてあの老人は何者だったのかと考えていると、舳先《へさき》にいた正則が口を開いた。

「さっきのあの年寄り、名のある将なんじゃ」

「そう。明智十兵衛光秀ですよ」

「えっ」

 ねねの返しに、正則は舳先から落ちそうになった。
 高虎もを落としそうになったが、こらえながら聞いた。

「……いつから、気づいて?」

「今」

 正則と高虎は舟にへたり込んだ。
 ねねは、光秀の唄っていた唄をようやく思い出して、織田信長の愛唱だと腑に落ちた。
 つまり、信長とそれだけ親しく、そういう唄を、心境を持つ男……と連想を広げ、かつて京都御馬揃きょうとおうまぞろえで見かけた、明智十兵衛光秀という老人にたどり着いた。

「あの馬揃え、秀吉が出られない出られない言うてしつこいから、わたしが代わりに観に行きましたが、それがこんなかたちで役に立つとは」

 織田信長が、いわば織田家の示威として挙行したパレード、京都御馬揃え。
 この時、秀吉は中国攻めの拠点、姫路城から動けずにいた。
 そこで長浜城にいたねねが、前田利家の妻女・まつと共に見物に行った。
 ちょうど信長に招かれて、やはり見物に来ていた帰蝶と会って、話に花が咲き、また会おうと約して再会したのが本能寺というのは、運命の皮肉としか言いようがないが。

「……あの時は、織田の他の武将のお方を見ても、何とも面白くないと思うておりましたが、ほんと、見ておいて良かった」

 そういう、とも愚痴とも何とも言い切れない発言に、正則はどう返していいものかと頭をかかえた。
 高虎はと見ると、澄ました顔で櫓をつかんでいた。
 ずるい、という正則の視線をかわし、高虎はあごをしゃくった。

「見ろ」

「何だ」

 腹立たしげな正則の声をいなすように、高虎が遠目をする。

「あ」

 篝火かがりびが見えた。
 ねねが舟上、立ち上がった。
 ついに。

「帰って来ましたね……」

 長浜でもなく。
 姫路でもなく。
 ここは山崎だが。

「帰って来たんだ……」

 思わず顔をほころばせる正則とねね、そして高虎の視線の先に。
 秀吉と秀長の兄弟が、連れ立って対岸に立っていた。
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