上 下
27 / 39
急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

27 光秀の出陣、秀吉の接近

しおりを挟む
 明智光秀は出陣した。
 出陣せざるを得なかった。
 西へ。

「……チッ」

 露骨に舌打ちした光秀。
 その脳裏に浮かぶは、顔も知らぬ平島公方ではない。
 細川藤孝である。

「……こうなりゃ、ともの足利義昭でも、かまわんか」

 捨てた相手だし、もれなく毛利のづきであるが、無いよりましだろう。
 そんな考えが、光秀の脳内に浮かぶ。

「うむ。うまくすると毛利と、羽柴をはさみ撃ちができるやもしれんのう」

 実際、足利義昭は(光秀と手を組んだかどうかは不明だが)毛利家に羽柴秀吉を討て、東上せよと要請している。
 が、すげなく断られている。
 毛利家としては、和睦を結んだ相手の羽柴秀吉に「賭けた」かたちになっており、それをにしたくないのだろう。
 いずれにせよ、光秀は西進して、大和の筒井順慶に圧をかけることにした。

「そんなら、細川は」

 光秀は再び、いや、もう数回にわたる書状をまたしたためようとした。
 だが、書いている途中でそれをやめざるを得なくなった。

「羽柴がそこまで来ているだと?」

 中国大返し。
 その大詰めともいうべき、羽柴秀吉の摂津入りが確認されたからである。



 中国大返し。
 その姫路までの過程は、神速とでも称すべき速度であった。
 だが、姫路からのそれは、それまでとはちがって、実に慎重な進み具合だった。

「信長さま、生存」

 とは、先に述べた秀吉の策であるが、それを各所に伝えた。
 特に、摂津の諸侯には。

「まあ実際はうなっておられる。そのかたき討ちのためじゃ、信長さまも泉下あのよで苦笑いしておられるじゃろ」

 秀吉は誰ともなくそう言っていたが、本当にそれを伝えたい相手は、今はそばにいない。
 おそらく、京にいる。

「……したが、大坂は別じゃ。三七さんしちどの(織田信孝のこと)には、かたき討ちじゃとハッキリ言うておかんと」

「その点、抜かりはございません」

 馬上、ブツブツとつぶやいていた秀吉の背後から、語りかける影があった。
 影は陽光の下、なお一層その陰影を濃くしながら、秀吉に近づいた。
 
官兵衛くわんぴょうえ

「はい。御前に」

 黒田官兵衛その人である。
 官兵衛は姫路出立前にふらりと「出る」と言い置いて行ってしまったが、いつの間にやらこうして秀吉のそばにしている。
 どこで、何をしていたか。
 そう秀吉が問う前に、官兵衛はふところから十字架クルスをまさぐり出した。

「大坂には、弟御の秀長さまが向かわれた。かの者は実直で鳴らしておられる。おそらく、大丈夫でしょう」

 主君の弟を、それもその主君の面前でえらそうな評価を下す。
 だが、それでこそ官兵衛。
 そう言わせるだけの迫力の男である。
 そしてそんな男が、おそらく銀製の十字架クルスを、まるで童女が人形をかわいがるように、でている。

「……高山右近にでも、もらったのきゃあ? 十字架それ

「ぜひにもお話をおうかがいしたい、と申し入れましてな」



 摂津の有力国人・高山右近は、若年の時にキリシタンになったと、に知られている。
 右近はこの動乱から距離を置いておこうと思っていたが、そこを官兵衛が「ぜひにも入信したい」と訪問した次第である。
 これがただの勧誘なり調略であれば、右近も追い返すところであるが、なにぶん、入信といわれては無下にもできない。

「……本当に入信しに来たのでござるか?」

「さよう」

 官兵衛の凄まじいところは、先に入信してしまったところにある。
 むろん、正式な入信は「すべて片付いたあと」と断りを入れたが、十字架を押しいただく官兵衛の姿は真剣だった。
 そこまでやるか、と右近は思ったが、もうここまで来たら、断ることはできない。
 ……官兵衛の語りを。



「……ま、こうなったらと、同輩の中川清秀も誘ってくださるとのこと」

 十字架クルスに口づけしかねない勢いの官兵衛に、若干気味の秀吉。
 それでも「ようやった」と肩をたたくことは忘れなかった。

「これで大坂の三七織田信孝どのの四国征伐軍も、結構な兵数になる。でかした。あとは……」

「あとは……光秀めを、うまく釣り出すことができれば、ですな」

 水魚の交わりとはこのことだろう。
 官兵衛は、わがことながら思った。
 秀吉は口ひげを引っ張りながら、思案する。

「……もう淡路の洲本をとしている頃じゃろ」

「淡路。平島公方ひらじまくぼうと、それに伴う長宗我部の援軍の道を断った……しかし」

「そう。しかし、逆に光秀に逃げられたら、困るのう。ことが面倒になる」

 大きく出たな、と官兵衛は思ったが、聞こえないふりをしている近侍や将兵が聞き耳を立てている。
 ここは「最もわかりやすい理由を」喧伝すべきだろうと判じた。
 ……「微妙な案件」は置いておいて。

「上様」

「何じゃ」

「光秀めは朝廷より、京を安んじよ、との勅をたまわったとのこと」

 これは光秀が安土城を押さえた時のことである。
 京の動静が落ち着かないことを憂慮した誠仁親王さねひとしんのうは、光秀に京の治安維持を任じた。
 これを「京の差配を認めてくれた」と受け止め、光秀は朝廷に銀五百枚を献じて報いたという。
 ねねと長谷川宗仁はせがわそうにんの書状からそれを知った秀吉は「ふうん」と言って、鼻をほじり出した。
 いわば朝廷の自衛的な活動であり、光秀に襲われないための担保だろうと、軽く流していた。

「さればでござる」

 官兵衛は大上段に両手を振り上げる。
 十字架クルスも上がる。

「一挙に京まで攻め上られませ。さすれば元幕臣で、さような勅命を受けた光秀のこと、必死になって京を守りましょう」

 そんな確信はない。
 五分五分といったところだろう。
 だが、とりあえずの説得力があればいい。
 周りの将兵たちが納得すればいい。

官兵衛くわんぴょうえ

「はい」

「……ワレは、悪人じゃの」

 これには笑いが起きた。
 そこで秀吉はわざとらしく、何だおみゃあら聞いてたんかいと、おどけた。
 一方で官兵衛は、こういう勝ちに行く雰囲気をうまく作っていく秀吉の恐ろしさに、冷や汗をかいた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

待庵(たいあん)

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 千宗易(後の利休)は、山崎の戦いに臨む羽柴秀吉から、二畳の茶室を作るよう命じられる。この時代、茶室は三畳半ぐらいが常識だった。それよりも狭い茶室を作れと言われ、宗易はいろいろと考える。そして、秀吉の弟・羽柴秀長や、秀吉の正室・ねねに会い、語り、宗易はやがて茶室について「作ったる」と明言する。言葉どおり完成した茶室で、宗易は茶を点て、客を待つ。やって来た客は……。 【表紙画像】 「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

織田家の人々 ~太陽と月~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 (第一章 太陽の音を忘れない ~神戸信孝一代記~) 神戸信孝は織田信長の三男として知られる。彼は、庶子でありながら、嫡出である信忠・信雄についだ格付けを得るまでにのし上がっていた。 その最たるものが四国征伐であり、信孝はその将として、今、まさに四国への渡海を目前としており、その成功は約束されていた――本能寺の変が、起こるまでは。 (第二章 月を飛ぶ蝶のように ~有楽~) 織田有楽、あるいは織田有楽斎として知られる人物は、織田信長の弟として生まれた。信行という兄の死を知り、信忠という甥と死に別れ、そして淀君という姪の最期を……晩年に京にしつらえた茶室、如庵にて有楽は何を想い、感じるのか。それはさながら月を飛ぶ蝶のような、己の生涯か。 【表紙画像】 歌川国芳, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

ブーヴィーヌ ~尊厳王の戦場~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 フランス王フィリップ二世は、イングランドとフランスの西半分を支配するプランタジネット朝から、フランスの西半分を獲得しようと画策していた。プランタジネット朝の王妃であるアリエノール・ダキテーヌは、かつて、フィリップの父のルイ七世の王妃だった。アリエノールの生んだリチャード獅子心王を、そしてジョン欠地王相手に謀略をめぐらし、ついにブーヴィーヌの地で決戦を挑み、フィリップは勝利と共に「尊厳王」と称せられるようになる。 【表紙画像および挿絵画像】 オラース・ヴェルネ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今は昔、戦国の世の物語―― 父・北条氏綱の死により、北条家の家督を継いだ北条新九郎氏康は、かつてない危機に直面していた。 領国の南、駿河・河東(駿河東部地方)では海道一の弓取り・今川義元と、甲斐の虎・武田晴信の連合軍が侵略を開始し、領国の北、武蔵・河越城は関東管領・山内上杉憲政と、扇谷上杉朝定の「両上杉」の率いる八万の関東諸侯同盟軍に包囲されていた。 関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

処理中です...