STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~

四谷軒

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破の章 覇者の胸中を知る者は誰(た)ぞ ──中国大返し──

20 大返し、始動

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 天正十年六月四日。
 羽柴秀吉はねねからの書状を元に行動を開始し、早々に毛利家との和睦交渉、というか和睦それ自体を締結した。
 これには秀吉と毛利家との角逐の地、備中高松城が落城寸前まで追い込まれていたことが大きい。
 秀吉は備中高松城の開城を条件としたが、代わりに備中高松城主・清水宗治の切腹をもって城兵の命を救うと約した。
 毛利家としては、実は瀬戸内海の制海権を侵されつつあり、しかも動員兵力も一万が限界という状況であるので、この和睦は渡りに船であった。

「天晴れ。見事な武者ぶりよ」

 和睦の条件を飲んだ清水宗治は、水攻めによって生じた湖の上で、潔く切腹してのけた。
 秀吉はそれをじっと見守っていて、そして前述の発言をしたと伝えられている。
 だが内心は。

はよう、はよう」

 本能寺の変で織田信長が死に、秀吉の長浜城も攻められ、妻女・ねねも落ち延びた。
 一刻も早く、京畿へ戻らねばならぬ。
 その焦りが、秀吉を突き動かしていた。

 そして明けて六月五日。
 奇しくも、この日は明智光秀が瀬田の唐橋を復旧し、安土城を落とした日である。
 その日、秀吉は大音声で命じた。

「返す!」

 その一言で、羽柴軍の将兵は理解した。
 事前に、「密に」と黒田官兵衛や羽柴秀長からささやかれていたことである。

「京に、変事あり」

 それは織田信長に何かあったことを暗示していると、誰もが悟った。
 そしてその変事により、返す、つまり引き返すのだと。
 そうすれば彼らにとって「家」である姫路城に戻り、何があっても対応できる。
 帰るんだ。
 ……この時の羽柴軍の中級以下の将兵は思っていた。

「小一郎(羽柴秀長のこと)! 用意はいいか!」

「抜かりなく!」

 秀長は秀吉に命じられ、清水宗治切腹当日と翌日、つまり秀吉が備中高松に「我慢して」滞留している間、密かに輜重しちょう、荷駄部隊(兵糧を調達し運搬する部隊)を先行して姫路へ向かわせていた。「用意」とは、このことである。

「毛利に何か言われても、もはやいくさしまいにて、と言い訳できる」

 とは、秀吉の弁である。
 この時代、誰よりも兵站(兵糧の供給)というのを考え大事にしてきたのが、他ならぬ秀吉であり、その秀吉が輜重、荷駄を向かわせるということが、どういうことか。
 それを理解できるのは、黒田官兵衛、羽柴秀長、そしてねねくらいであろう。

「ならば善し!」

 秀吉は相好そうごうを崩した。
 そして震えた。
 武者震いがした。
 これからおこなうことを考えると。

「進め! ……大返しじゃ!」

 今よりおよそ七日間。
 羽柴秀吉率いる二万の軍は、ここ中国から、その七日間で、京畿に達する。
 その空前絶後の強行軍は、のちにこう称される。
 中国大返し──と。



「向かえ! 向かえ!」

 馬上、秀吉が叫ぶ。
 後世からも困難と評される中国大返しだが、秀吉には勝算があった。

「本来なら、信長さまとその兵をお迎えするはずであった、道々の兵糧、それに人糞、馬糞などの仕置き場、これがみな、使える」

 口に入れるものと出すものと。
 その両方を考えるからこそ、秀吉は大軍を組織し運用することができた。
 だからこそ、中国攻めの仕上げとして、生前の信長の援軍を──大軍を迎え入れる用意が遺漏なくできた。
 そして今。
 まるで天が「急ぎ京畿に向かえ」と言っているように、秀吉とその軍の通る先々に、兵糧と仕置き場があった。
 事前に荷駄隊を進めていたのも、ここで効いてくる。

「進め! 進め! ただひたすらに進め! うしろは気にするな!」

 いつもなら、うしろ──最重要な荷駄隊を守るために行軍速度は遅めだったが、今はそれを気にせずに済む。
 そして、本来的な意味の「うしろ」も。

官兵衛くわんぴょうえ、宇喜多には話をつけてあろうの」

 黒田官兵衛は、もう何度目だ、とは言わなかった。
 この男羽柴秀吉はこうして、
 兵に。
 村々の人々に。
 毛利に。
 そして、ほかならぬ宇喜多に。

「はっ。宇喜多忠家どの、われら羽柴の盾として、備前よりいかなる者をも通さぬと」

 敢えて毛利とは言わない。和睦を結んだ相手である。それでも、聞く人が聞けば毛利とはわかる。
 そして宇喜多忠家とは、備前の国盗りを果たした梟雄、宇喜多直家の弟である。
 直家は備前の土豪であったが、時に詐術、時に暗殺、そして時に合戦をもって成り上がり、そして浦上、毛利、織田と次々と手を組む相手を変え、ついには備前を取った。
 だが天正九年に亡くなり、嫡子・秀家が跡を継いだものの、その秀家がわずか十歳のため、今、宇喜多の事実上の当主は忠家である。
 その忠家は、羽柴と手を組み、従うことを選択した。
 亡き兄・直家であれば、ここで寝技を使って毛利との両天秤を図ったかもしれないが、忠家は己にはそういう器用な真似ができないことを知っていた。

「羽柴に、くみする」

 この選択が宇喜多の家に栄光と、やがて関ヶ原後の没落を与えることになるが、この時の忠家に、それを知るよしは無い。



「目指すは、姫路ぞ!」

 秀吉は口にしないが、すでに丹波、但馬の方から、石田三成が中国に向かっているとの報があった。 

「ねねが向かわせたな」

 人選に気が利いている。
 秀吉は舌を巻く思いだった。
 三成なら、秀吉軍こちらの動静を予期して、あるいは伝え聞いて、必ずや絶好の機にやって来るに相違ない。
 そしておそらくや。

「佐吉(石田三成のこと)め、姫路にて落ち合うつもりじゃろう!」

 馬の手綱を握る手に力がこもる。
 ねねが伝えることは何なのか。
 
 問題は、それを聞いた時に、うまく動けるかだ。
 そのためにも、まずは姫路だ。移動だ。早さだ。
 つまり、ときだ。

「時……今はそれが何よりも大事。時さえあれば、何かあったとしても、合わせることができる」

 秀吉はブツブツとつぶやきながら、馬に鞭をくれる。
 それを隣で見ながら、官兵衛も馬に鞭をくれる。
 この、空前絶後の状況にて。
 それでも、勝ちを、天下をつかみ取ろうとする秀吉、そしてねね。

「この方たちなら……やれるやもしれん」

 となると、自分の役割は。

「かの名将、明智光秀と……いかなる戦いをするか、だ」

 稀代の名軍師は、笑みをこぼした。
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