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序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──

13 別離、密命、奮戦

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 羽柴秀吉の在城時も副将格であり、不在時はそれこそ城将としての役割を担う、ねねの言葉。

「長浜城は放棄します」

 その言葉に、城の防衛に努めていた石田三成と片桐且元かたぎりかつもとは迅速に反応した。
 まず、且元が城内に避難していた老人、赤子、女子おんなこどもを集め、「群れ」を作る。
 次に、その「群れ」に三成がまとめた金子きんすや食糧を持たせる。

「できましたか」

「できました、おふくろさま」

 このきびきびした返事は二十二歳の若者、石田三成である。
 少し年長の二十七歳の片桐且元は無言でうなずいていた。

「よろしい。では、まつは且元の『群れ』と共に、北へ行って」

「わかりました」

 まつがすっと立ち上がると、且元も無言で立ち上がる。

「…………」

 ねねとまつが見つめ合う。
 本能寺から脱して以来、いろいろあった。
 その本能寺に行く前、それこそ少女時代から、二人は一緒だった。
 でも今、その二人の道は分かたれる。
 もう会えないかもしれない。

「まつ、息災で」

 また会おうとは言わない。
 それでも、友の無事を願う。
 そんなねねの言葉に、まつは少し泣いた。
 この場にいる誰も、とがめなかった。

「……ええ、息災で」

 一度おもてを伏せて、そして上げた時には凛とした表情を見せたまつは、「行きましょう」と且元に言い、且元はおごそかにそれに従った。

「皆の衆も息災で! 北に行ったら、まつどのの言うことをよく聞いて!」

 長浜の老人や女や子どもたちは笑った。
 長浜の人たちは、みんな、ねねの子どもだった。
 そういう想いが伝わって来たからである。



 実はねねとまつ、そして福島正則が長浜城に入ると、即座に三成と且元を呼び、防戦の指揮は正則に任せて、ねねとまつと三成と且元は話の場を持った。
 その時、「落城」の段取りについては説明してあり、納得も得ていた。

「……助佐すけざ(片桐且元)は浅井家滅亡時に落ち延びた経験がある。近江の土地鑑がある。それゆえ、老人たちを連れて、まつと一緒に北へ逃げて」

「委細承知」

 明言されていないものの、時間がないことを知っていた且元は、すぐにその場から出て、「群れ」の形成に向かった。
 それを見た三成は、ではその「群れ」に持たせる金品食糧をまとめるかと立ち上がったが、そこをねねに引き留められた。

「待ちなさい、佐吉」

 佐吉とは三成の幼名である。
 正則は幼名で呼ばれるのを嫌ったが、三成はむしろ親しみを込めてくれていると嬉しがった。

「なんでしょう、おふくろさま」

 きりりとした表情で聞く三成だが、その表情はすぐに驚愕に変わることになる。



「それがしを秀吉あるじどのの元へ……か」

 ひとり甲冑を脱いで旅装となった三成は、且元の「群れ」に混じった。
 且元は目を合わせない。
 合わせないからこそ、承知していると知れた。

「…………」

 瞬間、三成は思い出す。
 ねねの語ったこと、まつの話したこと、それらすべてを思い出す。

ふみは書きません。いえ、簡単なものは書きますが、詳細は佐吉、貴方が伝えなさい」

 時間が無いというのもあるが、かなり豪胆というか、いややはり合理的な指示である。
 だがそれは同時に、三成の使命がそれだけ重要だということを意味する。

「本能寺、明智光秀、信長さま、帰蝶さま、信忠さま、弥助どの……」

 こめかみを指でとんとんと叩き、三成は記憶の再生を終えた。

「……行くか」

 城ので動きがあった。
 その間、のこちらが逃げる手はずになっている。
 且元の号令一下、城の裏門から、まつと「群れ」が逃げ出す。
 三成も逃げ、ある程度の間「群れ」についていたが、やがて無事に逃げられそうだと判じ、そっと離れた。

「よし」

 三成はとある薮に入り、事前に用意していた燃料を燃やして、狼煙のろしを上げる。
 と同時に潜めていた馬に乗り、駆けた。
 向かうは、丹波路たんばじ
 明智光秀の勢力圏である。



 長浜城の表。

「おれは福島正則! 阿閉貞征あつじさだゆき、出て来い! この、留守を狙う泥棒野郎!」

「なにを!」

 近江の土豪であり、浅井家の重臣であった阿閉貞征。
 その浅井家を裏切り、近江に大領を得るかと思いきや、それを羽柴秀吉に取られてしまった、阿閉貞征。
 今、その復権をかけて長浜城を攻めているところであったが、それは本能寺の変という奇禍を奇貨として、つまり機会が来たので盗ろうとしているところだった。
 それを正則が誰の耳にもわかりやすく一言で表現してしまったので、貞征としては怒るしかない。

「黙れ孺子こぞう! おのれのようなわっぱには、わからぬわ! この近江においてこの阿閉貞征がどれほど……」

「口がくさい! 黙れ!」

 正則の理不尽なと槍。
 若き剽悍なその槍に、思わず貞征はあとじさる。

「おっ、おのれ! こうなれば……囲め! 囲め囲め囲め! おのれをつらまえて、はりつけにしてくれるわ!」

 ふん、と正則は鼻で返事をした。
 狙い通り、挑発に乗って来たことに得意になったからである。
 だが次の瞬間、彼の得意は雲散霧消する。

「この城にいるらしい……あの、ねねとかいう秀吉の妻女も、はりつけじゃ! 磔にしてくれる!」

「なっ、何じゃと!」

 母とも慕うねねを、磔。
 これには怒り心頭である。
 正則は、事前の打ち合わせを無視して、単騎、貞征に向かって突っ込んでいった。

「おふくろさまを磔などと! 言うだけでも虫唾むしずが走るわ! 死ね!」

 凶暴そのものの槍が突き出され、貞征はさらに後退する破目になったが、してやったりと微笑んだ。

「ばかめ! 飛んで火にいる夏の虫よ! 者ども、やれえ!」

 貞征の号令一下、正則の四方八方から槍が繰り出される。
 やり過ぎた、と後悔する正則の耳に、その声が響いた。

「われこそは! 羽柴秀吉が妻女、ねねなり!」

 騎馬武者姿のねねが城門に。
 これには阿閉軍の将兵も、その手を止めて、ねねの美々しい姿に見入った。

「阿閉貞征! まことそなたが近江の覇者というのなら、このねねから実力で、長浜の城を奪ってみせい!」

「なっ、なんだと」

 ここまで言われると、貞征としても城門に突撃を命じるしかない。
 正則を包囲攻撃している場合ではない。
 しかしそれは同時に、ねねが包囲攻撃の次なる対象となったのを意味した。

「おふくろさま! そのような無理を!」

 正則は歯噛みしたが、その無理を誘ったのは自分である。
 悔やんでいる暇があったら、槍を取れ、馬を走らせろ。

「うおおおおお! こうなれば阿閉貞征のくび、この福島正則が掻き切ってくれるわ!」

 一瞬にして槍を薙ぎ払い、福島正則は周囲の敵を一蹴し、そのまま愛馬を駆って、敵将・阿閉貞征へと猛然と向かった。

「間に合え! 中国にいる秀吉あるじ、虎(加藤清正のこと。正則の親友)、力を貸してくれえ!」 
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