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序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──
12 長浜の行く末は
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「頓狂な声を出すんじゃありません、市松」
「いやそれはしょうがないでしょう、ねね」
豪胆で知られる福島正則、幼名市松が唖然とした表情のまま固まっているのを見て、養母であるねねは叱ったが、隣にいたまつはそれはちがうと異を唱えた。
「あなたの長浜城を目指して、やって来たんじゃないですか。それを捨てる? 何を言っているんですか? 何のためにあの本能寺から逃げ出して……」
これに反応したのは正則である。
「本能寺? やはりおふくろさまは、あの『変』のその場に」
ねねが京に行ったことを正則は知っていた。
その後の動乱についても、あやふやながら伝わって来たが、あのねねのこと、きっとどこかに潜んでいるだろうと思っていた。
それが、どうだ。
長浜を一望できるこの地に、謎の女武者(?)がいると駆けつけて来てみれば、ねねがまつを連れて、馬上、堂々としているではないか。
快哉を叫ぶより先に、正則はまず動く。
いくさ人としての本能で、まず動く。
敵兵を排除する。
そのために。
そして。
「おふくろさま……教えて下されや、これまで、一体、どこをどうして」
「市松、今、城にいる者は。兵は」
ねねは正則の真摯な問いに答えない。
だが、正則は不服には思わない。
母と慕い、その教えを受けてきた身だ。
ねねの今の質問こそが、何よりの「答え」なのだと知っている。
だから正則は、即座に城に残った者たちの名と兵数を告げた。
*
「それだけ、ですか……」
「それでも佐吉の奴めが尽力して、米や金銭をうまいこと使って、そして助佐がここまで粘ってござる」
福島正則が言うには、佐吉、つまり石田三成が限りある兵糧や金品を運用し、助佐こと片桐且元(初名は直盛ですが、わかりやすさのため且元とします)が手堅い用兵で守りに守ってきた、ということである。
「佐吉も助佐も近江の産。それもあるでしょう」
三成は近江の寺に入れられていたところを、且元は近江浅井家に仕えていたが、その主家が亡んで牢人をしているところを、秀吉に見出された。
近江長浜を治めるにあたって、その手腕や伝手を発揮してくれることを期待して。
今、長浜は攻め立てられているが、それでも保っているのは、こうした秀吉の人材登用の賜物であろう。
ねねはそれが言いたいのだ。
「むろん市松、お前を長浜に残したのも、お前の武に期待してこそです」
「……ありがたし」
正則も秀吉のその辺りの心配りを心得ているが、それでも、敢えて口に出して言ってくれるねねの存在を貴重なものに感じた。
だからこそ、何をおいても守らねばと思った。
「さ、おふくろさま、それでは参りましょうぞ、何はともあれ、城へ。この福島正則、身命を賭しておふくろさまを守りましょうぞ」
「市松」
「何ですか」
「わたしは本能寺を囲む明智光秀の兵から逃がれ、瀬田の唐橋を焼き、安土の蒲生さまに落ち延びてもらいました」
「さ、さようでござるか」
それは淡々とした語り口だったが、少なくとも正則にとってはかなりの「重さ」の伴う内容だった。
だがねねはそれにかまわず言葉をつづける。
「安土の蒲生氏郷さまには、長浜が反明智に立つと言って来ましたが、ことここに至っては、やむなし」
賢秀さまは察してくれていたみたいだが、とねねはそれを言った。
「城は放棄します。幸い、近江の出の佐吉と且元がいる。落ち延びましょう」
「えっ」
これはまつの台詞である。
これまで、何のために苦労してやって来たのか。
長浜の城に立て籠もり、打倒明智を広く訴えるためではないのか。
「ここまで攻められて、保つとは思えない。ここは、逃げるの一手」
ねねはそう言って、まつを抱き寄せた。
「そこでまつ、貴女にはお願いしたいことがあります」
「な、何を」
「長浜から落ち延びる人たち……特に老人や赤子、女子どもなどは、貴女が北へ連れて行って欲しい」
これこそが、ねねがまつを連れて長浜まで来た理由だった。
本能寺を炎上させ、近江を抑えるのなら、当然、長浜は自家薬籠中のものにしたいであろう。
自分が光秀なら、そうする。
そうして。
「おそらく……北から来る柴田勝家どのに備えたいのじゃ。であるなら、長浜から落ち延びるなら、北が最適」
光秀からすると、仮想敵である勝家とは、そうおいそれとはことを構えたくないはず。
勝家にしても、まさか自分の麾下にある前田利家の女房が引き連れた、しかも弱者を追い返せないであろう。
「そのため、貴女を敢えて危地にさらすことになった、まつ。ご容赦ください」
「ねね……」
まつとしては、多少の恨みごとは言いたいところだが、それよりもねねと一緒だからこそ、ここまで来られたという思いが強い。
「貴女のおかげでここまでやって来られました。本能寺、瀬田、安土……どれも、貴女がいたからこそ、切り抜けられました」
これこそ、弥助の言っていた「すとらいく・ばっく」ではないかと思う。
でもそれももう終わりだ。
何より。
「じゃあねね、貴女も来るのでしょう? 北に……」
正則もうんうんとうなずいている。
もうこれ以上、長浜城は保たないことはわかる。
だから、城を捨てるという話は理解できた。
特に異論はなかった。
だからこそ、その先をどうするかが気になっていたが、今聞いている限りは、どうやら北に行くことになりそうだ。
ねねの行くところ、この福島正則あり。
「よし! 逃げましょう、おふくろさま! 北へ……」
「いや、行かぬ」
「ええ!?」
思い切り胸を叩いた直後にこれである。
正則は非常に情けない顔をした。
まつはそれを見て、かき餅が足りないと口をとがらしていた少年時代の正則を思い出してしまい、少し可笑しかった。
「……しかしねね、それじゃどうするつもりです?」
「京へ行く。いや、戻る」
「えっ」
正則はその時のまつの顔を見て、この人は変わらないなぁと思った。
「いやそれはしょうがないでしょう、ねね」
豪胆で知られる福島正則、幼名市松が唖然とした表情のまま固まっているのを見て、養母であるねねは叱ったが、隣にいたまつはそれはちがうと異を唱えた。
「あなたの長浜城を目指して、やって来たんじゃないですか。それを捨てる? 何を言っているんですか? 何のためにあの本能寺から逃げ出して……」
これに反応したのは正則である。
「本能寺? やはりおふくろさまは、あの『変』のその場に」
ねねが京に行ったことを正則は知っていた。
その後の動乱についても、あやふやながら伝わって来たが、あのねねのこと、きっとどこかに潜んでいるだろうと思っていた。
それが、どうだ。
長浜を一望できるこの地に、謎の女武者(?)がいると駆けつけて来てみれば、ねねがまつを連れて、馬上、堂々としているではないか。
快哉を叫ぶより先に、正則はまず動く。
いくさ人としての本能で、まず動く。
敵兵を排除する。
そのために。
そして。
「おふくろさま……教えて下されや、これまで、一体、どこをどうして」
「市松、今、城にいる者は。兵は」
ねねは正則の真摯な問いに答えない。
だが、正則は不服には思わない。
母と慕い、その教えを受けてきた身だ。
ねねの今の質問こそが、何よりの「答え」なのだと知っている。
だから正則は、即座に城に残った者たちの名と兵数を告げた。
*
「それだけ、ですか……」
「それでも佐吉の奴めが尽力して、米や金銭をうまいこと使って、そして助佐がここまで粘ってござる」
福島正則が言うには、佐吉、つまり石田三成が限りある兵糧や金品を運用し、助佐こと片桐且元(初名は直盛ですが、わかりやすさのため且元とします)が手堅い用兵で守りに守ってきた、ということである。
「佐吉も助佐も近江の産。それもあるでしょう」
三成は近江の寺に入れられていたところを、且元は近江浅井家に仕えていたが、その主家が亡んで牢人をしているところを、秀吉に見出された。
近江長浜を治めるにあたって、その手腕や伝手を発揮してくれることを期待して。
今、長浜は攻め立てられているが、それでも保っているのは、こうした秀吉の人材登用の賜物であろう。
ねねはそれが言いたいのだ。
「むろん市松、お前を長浜に残したのも、お前の武に期待してこそです」
「……ありがたし」
正則も秀吉のその辺りの心配りを心得ているが、それでも、敢えて口に出して言ってくれるねねの存在を貴重なものに感じた。
だからこそ、何をおいても守らねばと思った。
「さ、おふくろさま、それでは参りましょうぞ、何はともあれ、城へ。この福島正則、身命を賭しておふくろさまを守りましょうぞ」
「市松」
「何ですか」
「わたしは本能寺を囲む明智光秀の兵から逃がれ、瀬田の唐橋を焼き、安土の蒲生さまに落ち延びてもらいました」
「さ、さようでござるか」
それは淡々とした語り口だったが、少なくとも正則にとってはかなりの「重さ」の伴う内容だった。
だがねねはそれにかまわず言葉をつづける。
「安土の蒲生氏郷さまには、長浜が反明智に立つと言って来ましたが、ことここに至っては、やむなし」
賢秀さまは察してくれていたみたいだが、とねねはそれを言った。
「城は放棄します。幸い、近江の出の佐吉と且元がいる。落ち延びましょう」
「えっ」
これはまつの台詞である。
これまで、何のために苦労してやって来たのか。
長浜の城に立て籠もり、打倒明智を広く訴えるためではないのか。
「ここまで攻められて、保つとは思えない。ここは、逃げるの一手」
ねねはそう言って、まつを抱き寄せた。
「そこでまつ、貴女にはお願いしたいことがあります」
「な、何を」
「長浜から落ち延びる人たち……特に老人や赤子、女子どもなどは、貴女が北へ連れて行って欲しい」
これこそが、ねねがまつを連れて長浜まで来た理由だった。
本能寺を炎上させ、近江を抑えるのなら、当然、長浜は自家薬籠中のものにしたいであろう。
自分が光秀なら、そうする。
そうして。
「おそらく……北から来る柴田勝家どのに備えたいのじゃ。であるなら、長浜から落ち延びるなら、北が最適」
光秀からすると、仮想敵である勝家とは、そうおいそれとはことを構えたくないはず。
勝家にしても、まさか自分の麾下にある前田利家の女房が引き連れた、しかも弱者を追い返せないであろう。
「そのため、貴女を敢えて危地にさらすことになった、まつ。ご容赦ください」
「ねね……」
まつとしては、多少の恨みごとは言いたいところだが、それよりもねねと一緒だからこそ、ここまで来られたという思いが強い。
「貴女のおかげでここまでやって来られました。本能寺、瀬田、安土……どれも、貴女がいたからこそ、切り抜けられました」
これこそ、弥助の言っていた「すとらいく・ばっく」ではないかと思う。
でもそれももう終わりだ。
何より。
「じゃあねね、貴女も来るのでしょう? 北に……」
正則もうんうんとうなずいている。
もうこれ以上、長浜城は保たないことはわかる。
だから、城を捨てるという話は理解できた。
特に異論はなかった。
だからこそ、その先をどうするかが気になっていたが、今聞いている限りは、どうやら北に行くことになりそうだ。
ねねの行くところ、この福島正則あり。
「よし! 逃げましょう、おふくろさま! 北へ……」
「いや、行かぬ」
「ええ!?」
思い切り胸を叩いた直後にこれである。
正則は非常に情けない顔をした。
まつはそれを見て、かき餅が足りないと口をとがらしていた少年時代の正則を思い出してしまい、少し可笑しかった。
「……しかしねね、それじゃどうするつもりです?」
「京へ行く。いや、戻る」
「えっ」
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