STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~

四谷軒

文字の大きさ
上 下
5 / 39
序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──

05 逃避行、開始

しおりを挟む
 弥助のおかげで、明智軍の将兵の目は炎上する本能寺に集まり、ねねとまつは、逃げ惑う女房衆や下女といった雰囲気を出して、すんなりと寺の境内の裏門から脱出することができた。
 その時、椿事ちんじとして、信長の側近にして茶人、長谷川宗仁はせがわそうにんが転んで動けないところを、まつと共に肩を貸して逃がしてやった。

「これは……ねねどのではないか? こちらは、まつどの? おおきに、おおきに」

 宗仁は二人に拝むようにして謝意を示した。
 まつは、いい機会だから宗仁に匿ってもらおうとしたが、ねねはそれに異を唱えた。

「明智は京を制した。そこに、固まってわれらがいる。それはまずい」

 実は宗仁もそう思っていたところで、さらに、彼は足を怪我しているので、二人の足手まといになると離脱を願い出た。

「何、この宗仁は京の町衆の出ぇや。蛇の道は蛇。わしひとりなら、いくらでも、隠れるところはおます」

 宗仁は僧形の頭をつるりと撫でて、笑った。



 ねねとまつは宗仁を、彼の教えられたとおり、小さな町家に連れ込んだ。そこは宗仁の隠れ家的な場所であり、家来もいるので、ここにいれば宗仁は安全だと言う。
 そこでねねは秀吉宛の書状を書いて、宗仁に託した。

「ほンなら、善は急げや。明智の京の支配が完璧にならんうちに」

 宗仁はすぐにその書状を家来に渡し、急ぎ備中高松へと向かわせてくれた。

「ほな、な」

 ねねとまつは最低限の食料と路銀を宗仁から分け与えてもらい、先ほどの宗仁の家来から、京の町の大体の道筋を聞いた。

「行きましょう」

「ええ」

 だが、ここからだ。
 ねねとまつの、真の困難は、ここから始まる。
 何せ、明智光秀は今、京を制している。
 つまり、京は敵地。
 しかも、光秀は近江坂本城という拠点を持っている。
 ねねとまつ、ふたりが目指す、逃亡先である、に。

「ど……どうしよう……ねね、行き先、変えた方が……」

「変えた方がって、どこへ?」

「…………」

 今。
 宗仁の隠れ家を出たふたりは、京の町外れまで来ていた。
 朝ぼらけの、人々の起き出す中、ここまで来られたのは僥倖といえる。
 ちょうど薮があったので、そこで身を隠して、ひと息ついていたところだった。

大和やまと(今の奈良県)は、明智の寄騎よりき、筒井順慶が居る。南は駄目だ」

「じゃ、じゃあ山崎を通って、摂津、大坂へと……」

「信孝さまか?」

 当時、織田信長の三男、神戸信孝かんべのぶたかは、来たるべき四国征伐に備え、大坂にて兵力を糾合していた。その数、号して一万四千。
 まつが言うのは、その信孝を頼って逃げれば、ということである。

「……駄目」

「なんで駄目!? 近江を、攻められる安土を目指すよりは、なんぼか……」

「大坂の信孝さまンところには、津田さまが居る。津田信澄さまが」

「あ……」

 津田信澄。
 信長の弟、信行の遺児。
 信行は信長に二度も叛した男であるが、信長はその忘れ形見を粗略に扱うことはなかった。
 どころか、一門衆として厚遇し、現在、四国征伐の信孝の副将ともいうべき地位に置いている。
 そして。
 信澄には、めあせている。

「信孝さまは大丈夫かもしれん。でも、津田さまは? 面従腹背で、その実、明智と通じておったら、何とする?」

 ちなみに津田信澄は、石山本願寺退去後に築城された大坂城(羽柴秀吉による大坂城とは別物)の城主に据えられている。
 つまり、神戸信孝にとっては大坂は駐屯地であり通過点だが、津田信澄にとっては拠点なのだ。
 そうすると、津田信澄と明智光秀がもし繋がっていたとしたら、かなりことになる。

「それは……」

 ねねとしては可能性を口にしたに過ぎないが、このあとすぐに、同様の疑念をいだいた信孝により、信澄は粛清されている。
 そのため、本当に信澄が光秀に味方していたかどうかは、藪の中だ。

「わかったか? 南も西も駄目。東は……伊賀越えとか、女ふたりでできると思うか?」

「……でも、伊賀を越えれば、伊勢、尾張と」

「甘い」

 実は、ねねも話していて、気づいた。
 伊賀越えが成功したとしても、最悪の可能性が有り得ると。

「まつ……いや、わたしでもいい。まつとわたしが無事、伊勢の信雄のぶかつさま(織田信雄、信長の次男)のもとに逃げられた、としても……その間、光秀は行動を起こす」

「行動?」

 いぶかしげなまつの視線。
 ねねはその視線を撥ね返すような、つよい目をした。

ねねわたしとまつを、人質に取ったとして、秀吉と又左に従えと言ってくるぞ」

「そ、そんな無茶苦茶な」

「無茶苦茶だが、秀吉と又左には、わたしたちがいないから、『人質に取った』と言われれば、信ずるしかあるまい。いや、信じなくとも、確かめようと、足止めさせられる。そして、光秀が『次なる手』に出れば、立ち往生じゃ」

「次なる手」

「そう。次に……」

 そこまで言って、ねねは口を閉じた。
 まつも目配せで承知した、と応える。
 藪の外。
 馬蹄の轟きが聞こえた。
 ねねとまつの居る藪を探そうと言うのではない。
 光秀の行動は迅速だ。
 その軍勢の向かう先は、北。
 近江だ。
 軍勢の去ったあと、ふた呼吸ほど待って、ねねは続きを話そうとして止められた。

「わかった、ねね……『次なる手』は、光秀は、秀吉どのと又左を……『明智に味方した』と、喧伝するわけじゃな」

「……そう。わたしたちが人質に、という話と相俟あいまって、それは、秀吉と又左どのの周りの諸将の疑心暗鬼を生じ……最悪、始末される」

 まつは瞑目した。
 ねねはそのまつをかき抱いた。
 秀吉はいい。
 羽柴軍団の長というべき立場だ。
 寝返り、と言われても、だからどうしたと言える。
 だが、又左こと前田利家はどうだ。
 柴田勝家の軍団の一部将だ。
 勝家に二心ありと思われたら、即刻粛清されるかもしれない。

「……早く、北へ」

「……ええ」

 北へ行けば、羽柴家の近江長浜があり、前田家の能登小丸山がある。
 それに何より。

「……安土へ。おそらく、明智のあの軍勢、目指す先はそこ」

 まつは黙ってうなずいた。
 そして思った。明智光秀は、まず近江坂本城に至り、そこから、安土城を目指す。
 ともすると、琵琶湖北岸、津田信澄の近江大溝城とも連携し、それは大がかりな襲撃となるだろう。

「だが、そこが付け目。大がかりだからこそ、時日がかかる」

 ねねの狙いは、そのかかった「時日」の間に、明智勢より先に安土城に入る。
 さすれば、留守居役に危急を知らせることができ、安土の「先」になる長浜とも、連絡つなぎが取れよう。

「何より、安土の留守居役は、あの蒲生賢秀がもうかたひでどのじゃ」

 蒲生賢秀。
 名将・蒲生氏郷の父として知られる。
 かつては六角家の臣であったが、織田の大軍の攻撃を受け、賢秀は寡兵ながらも居城・日野城に立てこもって抵抗した。
 信長はその勇を惜しみ、賢秀に投降をうながした。
 投降に応じた賢秀は、以後、信長に忠節を尽くし、常に信長に付き従うようになる。
 やがて安土城を築き上げた信長は、賢秀にその留守居役を命じる。
 つまりそれだけの信頼を、信長は賢秀に抱いていたのである。

「……つまり、安土に至れば、われらの勝ち、と」

 まつは顔面に喜色を浮かべた。
 一方のねねは黙って立ち上がった。
 それは、行こう、という無言の意思表示であるが、もうひとつ意図がある。

「本当に明智はに安土に攻め寄せるのか。あるいは、蒲生賢秀どの。この方のは……」

 その危惧を、気取られないためだ。
 何しろ、この状況。
 常とちがって、すぐ顔に出る。

「…………」

 こうして、ねねとまつは、炎上する本能寺を脱して、運良く京の町を出ることに成功したものの、それから、さらに厳しい道行きを行くことになる。
 特に、ねね。
 その近江行きがかなったとしても、安土は。長浜は。
 後世のわれわれは知っている。
 そのふたつの城の運命を……。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

前夜 ~敵は本能寺にあり~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。 【表紙画像・挿絵画像】 「きまぐれアフター」様より

待庵(たいあん)

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 千宗易(後の利休)は、山崎の戦いに臨む羽柴秀吉から、二畳の茶室を作るよう命じられる。この時代、茶室は三畳半ぐらいが常識だった。それよりも狭い茶室を作れと言われ、宗易はいろいろと考える。そして、秀吉の弟・羽柴秀長や、秀吉の正室・ねねに会い、語り、宗易はやがて茶室について「作ったる」と明言する。言葉どおり完成した茶室で、宗易は茶を点て、客を待つ。やって来た客は……。 【表紙画像】 「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

実はこれ実話なんですよ

tomoharu
恋愛
え?こんな話絶対ありえない!作り話でしょと思うような話からあるある話まで幅広い範囲で物語を考えました!ぜひ読んでみてください!1年後には大ヒット間違いなし!! 作品情報【マーライオン】【愛学両道】【やりすぎ智伝説&夢物語】【トモレオ突破椿】など ・【やりすぎ智久伝説&夢物語】とは、その話はさすがに言いすぎでしょと言われているほぼ実話ストーリーです。 小さい頃から今まで主人公である【智久】はどのような体験をしたのかがわかります。ぜひよんでくださいね! ・【トモレオ突破椿】は、公務員試験合格なおかつ様々な問題を解決させる話です。 頭の悪かった人でも公務員になれることを証明させる話でもあるので、ぜひ読んでみてください! 特別記念として実話を元に作った【呪われし◯◯シリーズ】も公開します!

織田家の人々 ~太陽と月~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 (第一章 太陽の音を忘れない ~神戸信孝一代記~) 神戸信孝は織田信長の三男として知られる。彼は、庶子でありながら、嫡出である信忠・信雄についだ格付けを得るまでにのし上がっていた。 その最たるものが四国征伐であり、信孝はその将として、今、まさに四国への渡海を目前としており、その成功は約束されていた――本能寺の変が、起こるまでは。 (第二章 月を飛ぶ蝶のように ~有楽~) 織田有楽、あるいは織田有楽斎として知られる人物は、織田信長の弟として生まれた。信行という兄の死を知り、信忠という甥と死に別れ、そして淀君という姪の最期を……晩年に京にしつらえた茶室、如庵にて有楽は何を想い、感じるのか。それはさながら月を飛ぶ蝶のような、己の生涯か。 【表紙画像】 歌川国芳, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

加藤虎之助(後の清正、15歳)、姉さん女房をもらいました!

野松 彦秋
歴史・時代
加藤虎之助15歳、山崎シノ17歳 一族の出世頭、又従弟秀吉に翻弄(祝福?)されながら、 二人は夫婦としてやっていけるのか、身分が違う二人が真の夫婦になるまでの物語。 若い虎之助とシノの新婚生活を温かく包む羽柴家の人々。しかし身分違いの二人の祝言が、織田信長の耳に入り、まさかの展開に。少年加藤虎之助が加藤清正になるまでのモノカタリである。

少年忍者たちと美しき姫の物語

北条丈太郎
歴史・時代
姫を誘拐することに失敗した少年忍者たちの冒険

日日晴朗 ―異性装娘お助け日記―

優木悠
歴史・時代
―男装の助け人、江戸を駈ける!― 栗栖小源太が女であることを隠し、兄の消息を追って江戸に出てきたのは慶安二年の暮れのこと。 それから三カ月、助っ人稼業で糊口をしのぎながら兄をさがす小源太であったが、やがて由井正雪一党の陰謀に巻き込まれてゆく。 月の後半のみ、毎日10時頃更新しています。

処理中です...