こじき若殿

四谷軒

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06 城主

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 若殿が喜び勇んで薬を握り締めて戻ってくると、旅僧は「ほう」と感心して、相好そうごうを崩した。

「やりおったか」

「ええ、御坊ごぼうのおかげでござる」

「いや、なんのなんの」

 しかし、二人は謙遜もそこそこに、継母を起こし、薬が貰えた、早く飲まれよと勧めた。
 継母は、井上に頭を下げてまでもらった薬などと渋った。
 そこで若殿は怒鳴った。

!」

「は……え……はは……うえ?」

 継母は目を白黒させる。若殿が自分のことを「継室どの」ではなく、「母上」と呼んだことが、よほど衝撃だったらしい。
 若殿はさらに畳みかける。

「母上は、私に何としても生き延びよ、と仰せであるが、さようなことを言うならば、まずご自身で生き延びてくだされ! ご自身で手本を見せてくだされ! ……さなくば、私は母上の言葉に従えぬ!」

「……はい」

 継母はまだ衝撃の内にいたせいか、若殿の言葉に素直にうなずいた。
 そして、少しのちに、若殿が自分のことを母と呼んだことに……泣いた。

わらわを母と呼ぶか、若殿」

「本当は気づいておりました……父亡きあと、なにゆえ、母上が此処ここに残られたかを」

 継母は、実家から、帰ることと再婚することを勧められていた。しかし、継母は残った。亡き夫への想いのためである。そして……残された若殿の身の上を不憫に思ったからだ。
 若殿の兄は、家督を継ぐから、譜代の臣が補佐しよう。若殿の弟たち――側室の子たちは、その母の実家に身を寄せたり、寺に預けられたりして、生活は支えられている。共に生きる家族や仲間がいる。

「何だ――若殿だけが――何も無いではないか」

 しかも、後見の井上とやらは、怪しい。
 継母は、ここは自分が残った方がいい、と本能的な感覚で悟った。案の定、井上は、若殿のものになるはずのの城を乗っ取り、若殿を放逐した。
 ここで井上が若殿を殺さなかったのは、井上自身の保身もあるが、潜在的に、継母の実家が動くことを恐れたからでもある。若殿とつかず離れずの継母は、若殿を殺害するとあっては、共に始末せざるを得ない。
 そうすると――継母は、実家において微妙な立場にあったが、それでも、一族の者を殺されたとあっては、その実家が動く恐れがある。
 継母は自分が抑止力になることを、無意識に悟り、そして共にあばら家に暮らし、たまさかに実家に無心しては、若殿の好物である餅を取り寄せたりした。

「その節は、ありがとうございました」

「今さら――何が、『その節』じゃ」

 継母は涙を拭きながら、若殿に憎まれ口をたたく。
 かなと旅僧は呟きながら、継母に薬を飲ませ、そして継母の身を横たえ、襤褸ぼろをかぶせた。
 継母はやがて、すうすうと寝息を立てて、寝入った。

「……ひと晩寝れば、落ち着くじゃろう」

「御坊、感謝します」

「なんのなんの、薬を取ったは、己じゃろうて」

「いや……この暮らしを変えることができたことは、御坊のおかげ……そのお礼です」

「そうか……」

 うんうんと頷きながら、旅僧は立ち上がった。そして杖など、ほんのわずかだが、身の回りの品を身に着けた。
 若殿は問うた。

「……御坊?」

「いや、ここらで潮時、と思うて」

「え? もう、行かれるのですか?」

「さよう」

「そんな……せめて、母上の目が覚めるまで……」

「いやいや……親子水入らずに野暮はしとうない……それに、拙僧も使命を帯びている身でな」

「そうなんですか?」

「うむ。仏に仕える身なれど、世俗との縁は、なかなか切れぬ。そういうことじゃ」

「……分かりました。では、息災で」

「うむ。息災でな」

 旅僧はあばら家の外に出た。
 若殿も見送りに出た。

「御坊、せめてご尊名なりと……」

「拙僧、名を捨てた身ゆえ……」

 名乗るほどの者ではない、と言った。
 しかし、若殿は譲らなかった。きっと継母は別れを惜しむ。なれば、名前なりと聞いておかねば。

「では、その捨てた名をお教えていただきたい」

「ほ」

 旅僧は目を見開く。まさか、そう来るとは思わなかった。
 意表を突かれたが、悪い気はしない。
 旅僧は、この若殿を気に入り始めた。
 この、もしや息子に匹敵する……いやいや。
 旅僧は鎌首をもたげた感情を抑え、控えめに言った。

「備中、荏原えばら荘、平盛時」

「ほう……やはり侍でしたか」

「いやいや……だいぶ昔の話じゃ、その名乗りをしていたのは」

「では、ふみなど書いても届きませんか」

「届かぬのう」

「…………」

 若殿は考えあぐんだ。
 継母は、文を届けたいと言うだろう。
 ここは、思案のしどころだ。

「……………」

 その若殿を様子を見て、旅僧は微笑んだ。
 どうも、年齢としをとると、いかん。
 こういう若いのを見ると、助けたくなる。

「……あいや、若殿。これは拙僧からの最後の公案じゃ」

「……公案?」

「さよう」

 公案とは、禅の教えにおける禅問答、すなわち考える課題、問題といったところである。

「先ほどの拙僧のかつての名乗り、これを元に、拙僧が何者か、当ててみい」

「……さすれば、文を届けられるほどの御方ということでありましょうや?」

「ふっ……そうやもしれんの……おっと、ここまでじゃ。ここからは、己の力でやってみい」

「分かり申した……では、お別れですな」

「うむ……いざ、さらばじゃ」

「ええ……お達者で」

 若殿は深々と頭を下げ、そして上げると、もう旅僧の姿は見えなくなっていた。

「おさらばです……」

 若殿は見えない旅僧に別れを告げて、そして継母の様子を見に、あばら家へ戻るのであった。



 直後。
 の城の門の前。
 旅僧と、ひとつの影が立っていた。

「……庵主さま、よろしいので?」

 影は――まるで寺男のような恰好をした老人であった。そしてそれは、若殿が狐狩りを諦めたあとに、かすかに見かけた、旅僧と話していた影――老人であった。

「……かまわん。紆余曲折はあったが、あの若殿なら、何とかなるであろう」

「……拙者を置いてけぼりにしての、ひとり歩きも無駄ではなかった、と言いたげですな」

「まあな」

 影の老人の苦言まじりの発言に、旅僧は笑う。そのさまは、まるで獅子のような凄みがあった。

「では――手筈てはずどおりに」

「おお、このままでは若殿に兵を向けるらしいからの」

「明朝、払暁とのことです」

じゃ……若殿は、己自身の知恵と力でここまでやったというに……」

「心苦しい、とおおせですか」

「さよう。の井上――老人が、そこまでして、あのをやるというのなら、こちらも容赦せんのう」

「では」

「うむ。みやこの大内どのも、そうせいと言うておるしの」
 
 影の老人はひとつうなずくと、跳躍した。
 その跳躍は、軽く城門を飛び越え、城の中へと忍び込んでいった。

「…………」

 旅僧がしばたたずんでいると、音も無く城門が少し開き、影の老人がそっと出てきた。

「……ったか?」

りました」

「そうか」

 大儀、と言ってから、旅僧は合掌して瞑目した。
 影の老人は一礼し、少し躊躇ためらったものの、やはり旅僧にならった。

「……しかし殿、ではない、庵主さま」

「なんじゃ」

「別に、あの井上相手に冥福を祈らなくとも」

「ふむ……ま、城りしたい、という気持ちは分からんでもないからな」

「庵主さまにそう言われると、何も言えませんな」

「大体、小太郎とて、手伝てつどうてくれたではないかのう、わしの城盗りを」

「さようでござりまするな」

 小太郎と呼ばれた影の老人と、旅僧は笑った。
 ひとしきり笑ったあと、では京へ、と、どちらともなく言って、今度こそ、旅僧と老人は、このの城とその山野から、去っていった。

 ――あとに残されたの城が、皓々とした月に照らされていた。
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