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06 待庵(たいあん)で待つ者
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「妾が目を覚ました時、政綱どのは亡うなっておりました」
桶狭間当時は最高峰の忍びだった政綱だが、寄る年波には勝てず、己が後事を託した相手、羽柴秀吉に、帰蝶の所在を伝え、世を去った。
秀吉は早速に山崎屋という商家――帰蝶の実父、斎藤道三がかつて油売りの商人をしていた頃の商家を訪れ、帰蝶と会った。
「木綿、何をしているのです」
開口一番の台詞。
それで、秀吉は全てわかったという。
そして泣いた。
「お方さま」
まるで若返ったようにきびきびと返事をする秀吉。
彼は、帰蝶を掻き口説いて、山崎の陣中に訪れるよう頼んだ。
「信長さまが来られるやも」
帰蝶の視点では、桶狭間からいきなり本能寺まで時間が飛んでいて、何が何だかわからない。それでも、信長と共に天下を取り、そこを明智光秀に裏切られたということは理解した。
「お方さま、この木綿は信長さまの仇を討ちます。否、仕返しをします。さすれば、信長さまのこと」
秀吉は、帰蝶の記憶と心情を気づかい、信長は落ち延びているということにした。
信長は必ずや、裏切者・明智光秀を討つために、秀吉のところへやって来るだろう、と。
だから。
「山崎にてお待ちいただきたい、と」
「……そうでっか」
いつの間にか帰蝶は二杯目の茶を喫している。
それだけ長い話だった。
そこで宗易ははたと気がついた。
「そうや、そうやったから、たった二畳なんや」
記憶を喪失した帰蝶。
それでも、信長のことは覚えている。
その信長がいない。
秀吉は信長の弔いをするという。
そのために。
「安土どの、つまり帰蝶はんのために、秀吉はんは敢えて、広さが半分に欠けたる茶室を作り……」
以て、信長の帰還を待っている、と。
たとえ表向き、弔いをしたとしても。
そういう意志を、表したかったのではないか。
「成る程、ねねさまにも秘密のわけや」
信長の正室、安土どのこと帰蝶が生きている。
そして、信長は帰蝶を正室としてだけでなく、判断を共にしていた。
その帰蝶が生きていて、清須会議に姿を現わしたらどうなるか。
「滅茶苦茶や」
きっと帰蝶の争奪戦が始まる。
柴田勝家や滝川一益、下手をすると徳川家康まで巻き込んで。
その争奪戦の勝者が、次の織田家を牛耳る。
そうでなくとも、帰蝶自身が織田家当主になると言い出したら。
「秀吉はん、よう帰蝶はんを殺さんで済ませてますな」
「妾もそう思います」
さすがに聡明な女性だ。
記憶はなくとも、状況を理解し、事態を予測している。
「でも、このたった二畳の茶室という、誰も聞いたことない、半分の茶室。それがある限りは」
「もう半分である、信長さまの分の広さを、その到来を待って増やす、という意志の表れ、かもしれません」
帰蝶は苦笑した。
事実、この茶室――待庵には、三畳として使えるように造作がなされている。
二畳に比して三畳、差の一畳は、「もう半分」とは言えないが、そこは心情面での広さということで、宗易も帰蝶も納得して話している。
「それにしても、や」
あるいはこの茶室は、帰蝶をいつまでも閉じ込めておく、牢獄かもしれない。
宗易はそういった闇が見えるような気がした。
何しろ秀吉は、一手打ったと見せかけて、その実、四方八方へといくつも波及する手を打つ。
今回のこの茶室も、一見、帰蝶の安全の確保と見せかけて閉じ込め、いざとなれば、秀吉自身の信長の後継者としての地位の保証を……。
「それはない、と思います」
極論だが、それなら秀吉が帰蝶を娶れば終わる。
だがそれはない。
なぜなら。
「今、表に待っている、ねねがその証かと」
「そうかも、しれへん」
宗易は首を振った。
真相はわからない。
当の秀吉すら、わからないかもしれない。
何ということだ。
私淑する珠光の言葉に従って。
「雲間の月の如き、完全でない月を完全にするために。全きにするために」
秀吉はその言葉を知っていたのかもしれない。
もしかしたら。
いや、あの耳学問の権化のような男だ。
知っていて当然というべきか。
「それで、これから、如何なされるんでっか」
「そうですね……」
記憶を失った帰蝶。
だが、今、その記憶を失っていて、幸いだったかもしれない。
夫・信長の死を、その別れの瞬間を覚えていない。
その瞬間――本能寺の変に至るまでの過ぎ越した幾星霜も、覚えていない。
あるのは、桶狭間という、信長と帰蝶、そして秀吉とねねにとっても、最も輝いていた、あの日々である。
実感を伴わない信長の「死」は、ある意味、帰蝶をその別れの苦しみから、救ったのかもしれない。
宗易は微笑んだ。
「ようけ、考えなされませ」
「そうですね」
帰蝶も微笑んだ。
この二畳の茶室で、もしかしたら生きているかもしれない信長を待つもよし、あるいは、帰蝶の人生の終焉を待つもよし。
少なくとも秀吉は、それを決めるぐらいは、待ってくれるだろう。
「ま、知ってしまった以上、この宗易も一緒に待たせてもらいまひょ」
宗易は、とりあえず出ましょうと言って、躙り口を開けた。
そして帰蝶に、どうぞ、と外へと誘った。
帰蝶は微笑みながら、外に出た。
「終わりましたか」
外に出ると、ねねが待っていて、帰蝶の手を取る。
「秀吉は、この城に戻らないそうです」
すでに賤ケ岳の戦いに勝利した秀吉は、かねてから計画していたのか、居城を山崎城から大坂に移すと宣言した。
そのため、この城郭は空城になる。
「オイヤ」
宗易は目を剥いた。
それでは、折角の城と、何より茶室は。
そこまで考えて、気がついた。
「何や、最初から、帰蝶はんにこの城と茶室、あげるつもりやったんか」
のちに、側室の茶々に淀城を作る秀吉である。
この山崎城と川を挟んで、対岸の淀城を。
「秀吉としては、やはり帰蝶さまの恩、忘れじがたく、とのこと」
木綿木綿と可愛がられ、桶狭間の時は簗田政綱と共に今川義元を探る忍び働きに志願し、その時推してくれたのが帰蝶だ。
「懸想していなかったといえば嘘になるそうですが、それでも、やはり、あの時からのこと、あの時から始まった天下布武のことを」
忘れじがたい。
いろいろな、さまざまな思いがあったとて。
それこそが、秀吉のほんとうの気持ち。
おそらく、今、いちばん、強い気持ち。
「もしかしたら」
秀吉自身こそが、己が内なる心を、落ち着くのを、定まるのを、待っているのではないか。
そのためにこそ、この茶室を作らせたのではないか。
……山崎城はそののち、破却されることなったが、待庵それ自身は同じ山崎、天王山の妙喜庵という塔頭に移り、そして今でもそのかたちを留めている。
それは、帰蝶の待つことがそれだけ長く在り、それを黙認した秀吉の心のおかげかもしれない。
【了】
桶狭間当時は最高峰の忍びだった政綱だが、寄る年波には勝てず、己が後事を託した相手、羽柴秀吉に、帰蝶の所在を伝え、世を去った。
秀吉は早速に山崎屋という商家――帰蝶の実父、斎藤道三がかつて油売りの商人をしていた頃の商家を訪れ、帰蝶と会った。
「木綿、何をしているのです」
開口一番の台詞。
それで、秀吉は全てわかったという。
そして泣いた。
「お方さま」
まるで若返ったようにきびきびと返事をする秀吉。
彼は、帰蝶を掻き口説いて、山崎の陣中に訪れるよう頼んだ。
「信長さまが来られるやも」
帰蝶の視点では、桶狭間からいきなり本能寺まで時間が飛んでいて、何が何だかわからない。それでも、信長と共に天下を取り、そこを明智光秀に裏切られたということは理解した。
「お方さま、この木綿は信長さまの仇を討ちます。否、仕返しをします。さすれば、信長さまのこと」
秀吉は、帰蝶の記憶と心情を気づかい、信長は落ち延びているということにした。
信長は必ずや、裏切者・明智光秀を討つために、秀吉のところへやって来るだろう、と。
だから。
「山崎にてお待ちいただきたい、と」
「……そうでっか」
いつの間にか帰蝶は二杯目の茶を喫している。
それだけ長い話だった。
そこで宗易ははたと気がついた。
「そうや、そうやったから、たった二畳なんや」
記憶を喪失した帰蝶。
それでも、信長のことは覚えている。
その信長がいない。
秀吉は信長の弔いをするという。
そのために。
「安土どの、つまり帰蝶はんのために、秀吉はんは敢えて、広さが半分に欠けたる茶室を作り……」
以て、信長の帰還を待っている、と。
たとえ表向き、弔いをしたとしても。
そういう意志を、表したかったのではないか。
「成る程、ねねさまにも秘密のわけや」
信長の正室、安土どのこと帰蝶が生きている。
そして、信長は帰蝶を正室としてだけでなく、判断を共にしていた。
その帰蝶が生きていて、清須会議に姿を現わしたらどうなるか。
「滅茶苦茶や」
きっと帰蝶の争奪戦が始まる。
柴田勝家や滝川一益、下手をすると徳川家康まで巻き込んで。
その争奪戦の勝者が、次の織田家を牛耳る。
そうでなくとも、帰蝶自身が織田家当主になると言い出したら。
「秀吉はん、よう帰蝶はんを殺さんで済ませてますな」
「妾もそう思います」
さすがに聡明な女性だ。
記憶はなくとも、状況を理解し、事態を予測している。
「でも、このたった二畳の茶室という、誰も聞いたことない、半分の茶室。それがある限りは」
「もう半分である、信長さまの分の広さを、その到来を待って増やす、という意志の表れ、かもしれません」
帰蝶は苦笑した。
事実、この茶室――待庵には、三畳として使えるように造作がなされている。
二畳に比して三畳、差の一畳は、「もう半分」とは言えないが、そこは心情面での広さということで、宗易も帰蝶も納得して話している。
「それにしても、や」
あるいはこの茶室は、帰蝶をいつまでも閉じ込めておく、牢獄かもしれない。
宗易はそういった闇が見えるような気がした。
何しろ秀吉は、一手打ったと見せかけて、その実、四方八方へといくつも波及する手を打つ。
今回のこの茶室も、一見、帰蝶の安全の確保と見せかけて閉じ込め、いざとなれば、秀吉自身の信長の後継者としての地位の保証を……。
「それはない、と思います」
極論だが、それなら秀吉が帰蝶を娶れば終わる。
だがそれはない。
なぜなら。
「今、表に待っている、ねねがその証かと」
「そうかも、しれへん」
宗易は首を振った。
真相はわからない。
当の秀吉すら、わからないかもしれない。
何ということだ。
私淑する珠光の言葉に従って。
「雲間の月の如き、完全でない月を完全にするために。全きにするために」
秀吉はその言葉を知っていたのかもしれない。
もしかしたら。
いや、あの耳学問の権化のような男だ。
知っていて当然というべきか。
「それで、これから、如何なされるんでっか」
「そうですね……」
記憶を失った帰蝶。
だが、今、その記憶を失っていて、幸いだったかもしれない。
夫・信長の死を、その別れの瞬間を覚えていない。
その瞬間――本能寺の変に至るまでの過ぎ越した幾星霜も、覚えていない。
あるのは、桶狭間という、信長と帰蝶、そして秀吉とねねにとっても、最も輝いていた、あの日々である。
実感を伴わない信長の「死」は、ある意味、帰蝶をその別れの苦しみから、救ったのかもしれない。
宗易は微笑んだ。
「ようけ、考えなされませ」
「そうですね」
帰蝶も微笑んだ。
この二畳の茶室で、もしかしたら生きているかもしれない信長を待つもよし、あるいは、帰蝶の人生の終焉を待つもよし。
少なくとも秀吉は、それを決めるぐらいは、待ってくれるだろう。
「ま、知ってしまった以上、この宗易も一緒に待たせてもらいまひょ」
宗易は、とりあえず出ましょうと言って、躙り口を開けた。
そして帰蝶に、どうぞ、と外へと誘った。
帰蝶は微笑みながら、外に出た。
「終わりましたか」
外に出ると、ねねが待っていて、帰蝶の手を取る。
「秀吉は、この城に戻らないそうです」
すでに賤ケ岳の戦いに勝利した秀吉は、かねてから計画していたのか、居城を山崎城から大坂に移すと宣言した。
そのため、この城郭は空城になる。
「オイヤ」
宗易は目を剥いた。
それでは、折角の城と、何より茶室は。
そこまで考えて、気がついた。
「何や、最初から、帰蝶はんにこの城と茶室、あげるつもりやったんか」
のちに、側室の茶々に淀城を作る秀吉である。
この山崎城と川を挟んで、対岸の淀城を。
「秀吉としては、やはり帰蝶さまの恩、忘れじがたく、とのこと」
木綿木綿と可愛がられ、桶狭間の時は簗田政綱と共に今川義元を探る忍び働きに志願し、その時推してくれたのが帰蝶だ。
「懸想していなかったといえば嘘になるそうですが、それでも、やはり、あの時からのこと、あの時から始まった天下布武のことを」
忘れじがたい。
いろいろな、さまざまな思いがあったとて。
それこそが、秀吉のほんとうの気持ち。
おそらく、今、いちばん、強い気持ち。
「もしかしたら」
秀吉自身こそが、己が内なる心を、落ち着くのを、定まるのを、待っているのではないか。
そのためにこそ、この茶室を作らせたのではないか。
……山崎城はそののち、破却されることなったが、待庵それ自身は同じ山崎、天王山の妙喜庵という塔頭に移り、そして今でもそのかたちを留めている。
それは、帰蝶の待つことがそれだけ長く在り、それを黙認した秀吉の心のおかげかもしれない。
【了】
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