白の境に舞う金烏。 ~王陽明の「三征」のうち「一征」、寧王の乱~

四谷軒

文字の大きさ
上 下
5 / 7

05 劉青田(りゅうせいでん)の故智

しおりを挟む
 劉青田りゅうせいでんという人物がいる。本名である劉基の方が、本邦では知られている。青田というのは、劉基の出身地である青田県に由来する呼称である。
 そして、その劉青田は、明の太祖洪武帝を支えた軍師として名を馳せた。
 就中なかんずく、彼の軍師としての才知が光った戦いと言えば。

鄱陽湖はようこの戦いの、劉青田の故智にならう?」

 吉安きつあん知府、伍文定ごぶんていはようやくに整った吉安の民兵を閲兵して、では出陣をと王陽明に指示を乞うたところだった。
 そこで王陽明が述べたのが「劉青田の故智」である。
 まず、鄱陽湖はようこの戦いについて説明すると、これは洪武帝がまだ朱元璋という一勢力の長に過ぎなかった頃、陳漢という大勢力の皇帝、陳友諒にから大攻勢を受けた。
 陳友諒は六十万もの艦隊を率いており、まさに大攻勢と言える。対するや、朱元璋はせいぜいが二十万の艦隊をかき集めて、これに抗った。
 絶対的な不利の状況であったが、そこで朱元璋は軍師である劉青田に策を乞うた。

「その策を用いる、と」

 伍文定は、自身が吉安民兵を鍛えている間に、王陽明が間者を使って集めた情報を記した文書を見ていた。

「しかし、鄱陽湖の戦いと言われても、そうそう都合よく……」

 伍文定の手が止まった。
 その手に持っている書状は、寧王の艦隊が、王陽明の混水摸魚こんすいぼぎょの策により、ついに南京への征旅から引き返したことを伝えていた……

「こ、れ、は……」

 伍文定は唖然とした。
 鄱陽湖の戦いと言えば、国父たる朱元璋が、その乾坤一擲の戦いによって躍進し、やがて皇帝として即位する契機となった、いわば興国の戦いであって、明の士大夫なら誰でも知っていると言っていい。

いわんや、皇族をおいておや……」

 絶句する伍文定に代わって、王陽明が静かに言葉を繋いだ。
 その間に息を呑んだ伍文定は、やっとの思いで口を開いた。

「こ、こんなことが……こんなことを……寧王は……太祖のすら、学んでいないのか」

 そんなことで、よくも叛乱などという行動に踏み切ったものだ。
 呆れた伍文定が、改めて書状に目を落とす。
 そこには、こう書かれていた。

「寧王、李子実と劉養正に対する疑念晴れず。その裏切りを警戒してか、航行し、南昌へと取って返す模様……」



 鄱陽湖の戦いにおいて、陳友諒は己の大艦隊を鎖で繋ぎ、それをもって押し寄せる大魚と化して、朱元璋を攻め立てたという。
 今、寧王はまさにその陳友諒と同じことをしているのだが、彼にはその認識はない。あるのは、李子実と劉養正の裏切りへの警戒であり、そもそも彼にとっての「先祖」はどちらかというと、洪武帝朱元璋ではなく、初代寧王・朱権である。

「初代寧王たる祖、朱権が永楽帝に約されたという広大な領土。天下を取れずとも、少なくともを貰わねば、もはや立ち行かぬわ!」

 靖難の変当時の、あるかないか不明であった約定が頭をちらつき、そこからさらに昔の、太祖の天下分け目の戦いなど、覚えてはいても、今の自分には関係ないとばかりに、頭の片隅に放っておかれた。

「ええい、とりあえず南昌へ戻るのだ。そして改めて北京に永楽帝の時の約を果たせと怒鳴りつけてやる! さあ、早う南昌へ! 何をぐずぐずしておる?」

 半ば軟禁状態にある李子実と劉養正がこれを聞けば、何を言っているのか、と頭を抱えるであろう。
 李子実と劉養正は、少なくとも寧王に対して忠実に作戦を立案し、初手として南京を制圧し、そこで皇帝として自立するという策を考えた。まさに、洪武帝のように。
 それが、どうだ。

「われらが返り忠? 南昌が危ない? 何を世迷言を」

 こうなっては明の、北京の対応が後手後手なのが救いである。
 彼らとしては、とりあえずいち早く南昌へ戻り、その無事を確認して寧王の迷いを晴らし、改めて南京出征への策を練ろうとしていた。

「それにしても」

 李子実は、ぎしぎしという音が船の外から聞こえてくるのを不審に思った。

「何だ、この音は。船のどこか痛んでいるのか?」

 劉養正はたまたま食事を持ってきた衛兵に、この音は何だと聞いた。

「ああ、それは鎖でございます」

「鎖?」

 何故、鎖なのか。
 そこまで考えて、劉養正はぎょっとした。

「おい、ご同輩!」

 呼ばれた同輩の李子実も、やはり青ざめた顔をしていた。

「船を、艦隊をだと……まずい!」

 劉養正は、急ぎ寧王に具申したい儀があると、衛兵に懇願した。
 だが衛兵は首を振った。

「……すみません。お二方が何を言おうが、絶対に耳を貸すな。絶対に伝えるなという、寧王さまの厳命です」

「何と……」

 李子実と劉養正は悄然と肩を落とした。
 彼らは南京攻略を目指しただけに、朱元璋の取った戦略と、劉青田の献策した戦術を当然記憶していた。

「このままでは……」

 呟く李子実の耳に、敵襲、という外からの叫び声が響いてきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今は昔、戦国の世の物語―― 父・北条氏綱の死により、北条家の家督を継いだ北条新九郎氏康は、かつてない危機に直面していた。 領国の南、駿河・河東(駿河東部地方)では海道一の弓取り・今川義元と、甲斐の虎・武田晴信の連合軍が侵略を開始し、領国の北、武蔵・河越城は関東管領・山内上杉憲政と、扇谷上杉朝定の「両上杉」の率いる八万の関東諸侯同盟軍に包囲されていた。 関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。

大航海時代 日本語版

藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった――― 関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった ―――鎖国前夜の1631年 坂本龍馬に先駆けること200年以上前 東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン 『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

1333

干支ピリカ
歴史・時代
 鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。 (現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)  鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。  主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。  ご興味を持たれた方は是非どうぞ!

藤と涙の後宮 〜愛しの女御様〜

蒼キるり
歴史・時代
藤は帝からの覚えが悪い女御に仕えている。長い間外を眺めている自分の主人の女御に勇気を出して声をかけると、女御は自分が帝に好かれていないことを嘆き始めて──

相剋 ~毛利元就、安芸を制すまでの軌跡~ - rising sun -

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 毛利家を継ぎ、毛利元就となった多治比元就――しかし、強大なる出雲の戦国大名・尼子経久の支配下となり、尼子家の尖兵として、やはり強大なる周防の戦国大名・大内義興を相手に戦う日々を過ごしていた。 尼子経久の謀略により安芸の国人からの信を失い、そのため経久の威光にすがらなければならないという逆境に陥れられた元就。だが彼は着実に戦功を重ね、また独自に周囲への攻略、調略を広げ、安芸の国人の盟主としての地位を確立していった。 やがて経久が隠居したのを機に、元就は尼子家と手を切る。大内家へ嫡男・隆元を人質に出したのだ。これは――尼子の新当主、尼子詮久(あまごあきひさ)が天下人となるため京へと進軍していったため、その隙を衝いた行動だった。 そして元就は大内家に働きかけ、詮久の上洛中、「がら空き」となった安芸に攻勢をかける。頭崎城をはじめとする尼子方の拠点を陥落寸前にまで追い込んだ元就に対し、ついに尼子家は反転攻勢を開始。逆に元就の居城、吉田郡山城へと兵を進めるのであった―― 【表紙画像】 「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

雨よ降れ 備中高松城の戦い

Tempp
歴史・時代
ー浮世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して 1581年、秀吉軍は備中七城のうちの六城を平定し、残すは清水宗治が守る備中高松城だけとなっていた。 備中高松城は雨によって守られ、雨によって滅びた。 全5話。『恒久の月』書籍化記念、発売日まで1日1作短編公開キャンペーン中。5/29の更新。

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

妖刀 益荒男

地辻夜行
歴史・時代
東西南北老若男女 お集まりいただきました皆様に 本日お聞きいただきますのは 一人の男の人生を狂わせた妖刀の話か はたまた一本の妖刀の剣生を狂わせた男の話か 蓋をあけて見なけりゃわからない 妖気に魅入られた少女にのっぺらぼう からかい上手の女に皮肉な忍び 個性豊かな面子に振り回され 妖刀は己の求める鞘に会えるのか 男は己の尊厳を取り戻せるのか 一人と一刀の冒険活劇 いまここに開幕、か~い~ま~く~

処理中です...