黒き猫

四谷軒

文字の大きさ
上 下
2 / 3

02 横山大観

しおりを挟む
「……春草! おい春草!」

 ぴたぴたと。
 頬を叩く音がする。
 ああこれは自分の頬だと認識すると、叩く手のことも触覚で感じる。
 ごつごつとした手。
 だが、指は意想外に細やかで、如何様いかようなタッチにも応じられるような。

「オイ春草!」

 うるさいな。
 そう思った時、目が覚めた。
 すると見知った顔が、こちらを覗き込んでいた。

「何だ、大観か」

「何だ、は無いだろう。春草」

 横山大観。
 菱田春草と同じく、日本画の画家である。
 繊細で冷静な春草に比し、大観は豪放で磊落だ
 その磊落な笑みを浮かべて、大観が言った。

「何だ虫の知らせがして来てみれば」

 画家としてライバルでもある春草の、敵情視察にでも行くかと洒落込んだ大観。だが、春草宅の近所の焼き芋屋のあたりに至って焼き芋を買っている時に、春草の書生と遭遇、菱田家の災難を知ったという。

「書生君、泡を食ってたぞ。細君と坊主のために、医者を呼んでくると言ってた」

「そうか」

 卓上に何やら湯気立つ何かがある。
 さっきの夢は、『あれ』のせいか。
 大観も春草の察していることに気づいた。

「いやあ悪いな。何でも焼き芋あれが細君と坊主の好物と聞いていたから」

 ホレお前も食うか、と大観は遠慮なく焼き芋を一つ手に取って寄越す。
 否応もなく眼前に差し出されたそれを、春草は何気なく手に取った。
 が。

「悪いが、そういう気分じゃないよ。これは妻と息子にあげてくれ」

「オイどうした」

 珍しく、弱気じゃあないかと大観は春草の肩を抱いた。
 どちらかというと神経質な春草の懐に、ここまで『入れる』のは大観だけであり、そんな大観だからこその気遣いだった。

「あれか? 文展のあれか? もしかして……描けてないのか」

「……ああ」

「あと、五日か……」

 大観は春草の描きかけの「雨中美人」を見た。
 モデルは春草の妻。
 だが貧血に倒れた。
 治っても、熱にうなされる長男の世話をせねばなるまい。
 そして審査員の仕事。
 名誉ある仕事だ。
 投げ出すことは、すまい。
 大観は唸った。
 春草は天才だ。
 躰さえ万全ならば、「雨中美人」はとっくに完成しているはずだ。
 それが。

「描くよ」

 春草の決然たる言葉。
 大観は目をいた。

「描けるのか」

「描ける」

 ただし、と断りを入れてから、春草は棚のところへ歩いて行って、絵絹を取り出した。

「屏風絵はやめる。新たに描く」

「……何をだ」

 大観は年来の親友が無茶をしないことを知っていた。
 だが、『勝算』はあるのかと聞きたかったのだ。

「猫を描く。黒き、黒き猫を。この代々木の柏の木に鎮座する」

「そうか」

 目がよく見えない春草だが、この住まいの近くの雑木林のことなら、見ずとも描けると言っていい。
 それに黒猫なら。

冥王プルートーなら、着物ほどは色調を気にせずに済む」

「そうだな」

 大観は腕をまくった。

「なら、手伝おう」

「いいのかい?」

「何、いいさ」

 本当は、春草は頭を下げて頼むつもりでいたが、それを大観は良しとせず、先回りして申し出た。
 そうこうするうちに、書生が医者を連れて戻って来たので、早く行けと春草の背中を押した。

「行けよ。おれは、支度をしとくから」

「……すまない」

 この国の絵画史上、冠絶する名作「黒き猫」の作成が、今、始まる。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

短編集「戦国の稲妻」

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 (朝(あした)の信濃に、雷(いかづち)、走る。 ~弘治三年、三度目の川中島にて~) 弘治三年(1557年)、信濃(長野県)と越後(新潟県)の国境――信越国境にて、甲斐の武田晴信(信玄)と、越後の長尾景虎(上杉謙信)の間で、第三次川中島の戦いが勃発した。 先年、北条家と今川家の間で甲相駿三国同盟を結んだ晴信は、北信濃に侵攻し、越後の長尾景虎の味方である高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。また事前に、周辺の豪族である高井郡計見城主・市河藤若を調略し、味方につけていた。 これに対して、景虎は反撃に出て、北信濃どころか、さらに晴信の領土内へと南下する。 そして――景虎は一転して、飯山城の高梨政頼を助けるため、計見城への攻撃を開始した。 事態を重く見た晴信は、真田幸綱(幸隆)を計見城へ急派し、景虎からの防衛を命じた。 計見城で対峙する二人の名将――長尾景虎と真田幸綱。 そして今、計見城に、三人目の名将が現れる。 (その坂の名) 戦国の武蔵野に覇を唱える北条家。 しかし、足利幕府の名門・扇谷上杉家は大規模な反攻に出て、武蔵野を席巻し、今まさに多摩川を南下しようとしていた。 この危機に、北条家の当主・氏綱は、嫡男・氏康に出陣を命じた。 時に、北条氏康十五歳。彼の初陣であった。 (お化け灯籠) 上野公園には、まるでお化けのように大きい灯籠(とうろう)がある。高さ6.06m、笠石の周囲3.36m。この灯籠を寄進した者を佐久間勝之という。勝之はかつては蒲生氏郷の配下で、伊達政宗とは浅からぬ因縁があった。

竹束(1575年、長篠の戦い)

銅大
歴史・時代
竹束とは、切った竹をつなげた盾のことです。室町時代。日本に鉄砲が入ってくると同時に、竹束が作られるようになります。では、この竹束は誰が持ち、どのように使われたのでしょう。1575年の長篠の戦いに参加した伊勢の鉄砲足軽とその家人の視点で、竹束とその使い方を描いてみました。

松前、燃ゆ

澤田慎梧
歴史・時代
【函館戦争のはじまり、松前攻防戦の前後に繰り広げられた一人の武士の苦闘】 鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争。東北の諸大名家が次々に新政府軍に恭順する中、徳川につくか新政府軍につくか、頭を悩ます大名家があった。蝦夷地唯一の大名・松前家である。 これは、一人の武士の目を通して幕末における松前藩の顛末を描いた、歴史のこぼれ話――。 ※本作品は史実を基にしたフィクションです。 ※拙作「夜明けの空を探して」とは別視点による同時期を描いた作品となります。 ※村田小藤太氏は実在する松前の剣客ですが、作者の脚色による部分が大きいものとご理解ください。 ※参考文献:「福島町史」「北海道の口碑伝説」など、多数。

空蝉

横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。 二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。

織田信長に育てられた、斎藤道三の子~斎藤新五利治~

黒坂 わかな
歴史・時代
信長に臣従した佐藤家の姫・紅茂と、斎藤道三の血を引く新五。 新五は美濃斎藤家を継ぐことになるが、信長の勘気に触れ、二人は窮地に立たされる。やがて明らかになる本能寺の意外な黒幕、二人の行く末はいかに。 信長の美濃攻略から本能寺の変の後までを、紅茂と新五双方の語り口で描いた、戦国の物語。

政府の支配は受けぬ!日本脱退物語

田中畔道
歴史・時代
自由民権運動が盛り上がる明治時代。国会開設運動を展開してきた自由党員の宮川慎平は、日本政府の管理は受けないとする「日本政府脱管届」を官庁に提出し、世間を驚かせる。卑劣で不誠実な政府が支配するこの世の異常性を訴えたい思いから出た行動も、発想が突飛すぎるゆえ誰の理解も得られず、慎平は深い失意を味わうことになるー。

野鍛冶

内藤 亮
歴史・時代
 生活に必要な鉄製品を作る鍛冶屋を野鍛冶という。  小春は野鍛冶として生計をたてている。  仕事帰り、小春は怪我をして角兵衛獅子の一座から捨てられた子供、末吉を見つけ、手元に置くことになった。  ある事情から刀を打つことを封印した小春だったが、末吉と共に暮らし、鍛冶仕事を教えているうちに、刀鍛冶への未練が残っていることに気がつく。  刀工華晢としてもう一度刀を鍛えたい。小春の心は揺れていた。

バルチック艦隊の奇跡

憂国のシャープ
歴史・時代
日露戦争でバルチック艦隊が勝利する架空戦記です

処理中です...