トワイライトワールド

魂祭 朱夏

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第一章

第1話(1)

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 8月1日、夕方。
 黄昏時の夕陽が、掃き出し窓からリビングを紅(くれない)に染めていた。


 研修期間が終わり、通常勤務が始まりはじめての定時上がり。
 やっと本格的な夏が始まる。
 今年はエルニーニョ現象の影響で5月末から猛暑日が続き、7月中旬に梅雨入りしたが雨は降らず、僅か10日程で明けてしまった。
 梅雨明け宣言の折に同期のジェニーと京子の3人で、週末に浅沼海水浴場へ行こうと会社で話していた所だ。先日まで世界的に猛威を振るっていた新型ウィルスも漸くほぼ死滅し、マスク生活から抜け出し頃合いでもあった。

 3年ぶりの海だ!
 私は、去年買って結局一度も着られなかった黒のビキニを押し入れから出し、引っ越し祝いに先月亡くなった祖母から受け取った鏡の前でポーズをとってみた。
 大好きだったおばあちゃん。
 母の祖国であるイタリアに住んでいた祖父母は私が産まれる前に他界しており、父方の祖母は「ふたり分愛するから」と幼ながらも伝えてくれたコトを今でも覚えている。
 相手が居らず今の所予定は無いが、この鏡は祖母が嫁入り道具にと私にくれたものだ。
 (去年よりも少し胸がきつくなってる……)

 すぐ南東にある海沿いの閖上市の実家を出て、美田園市のマンションで一人暮らしを始めて3カ月半経つ。
 正直実家からも通勤圏内でもあるし、高校や大学時代もバスで美田園市に通っていたが、イタリア人の母に「社会人になったんだから経済的にも自立したらどう?」と言われて半ば強引に追い出された。
 母も先述したイタリアの両親に「そろそろ旅にでも出てみたら?」と言われてこの日本に留学し、父に出会い結婚して私や弟の智勇(さとる)を産んでいるので、それに比べたらまだ可愛いものだと思う。

 
 ~~~~♪♪
 振り向くと、机上のスマホが鳴り始める。
 ラインワークス……ではなく、プライベートで使用しているライン。
 ジェニーからの通話の様だが、ふと私に悪戯心が芽生える。
 ……ビデオ通話のため水着のまま出たらあの子はどう驚くか?
 真面目な彼女が面白そうな反応をしてくれそうなので、私はスマホを手に取り、画面に表示されている通話ボタンを押そうとした。

 その瞬間――。
「えっ、なに?」
 突如、背後の鏡が白く発光する。
 後ろを振り向いた瞬間、光は私を包み意識を奪われる。
 
 意識が途切れる瞬間、砂浜を鳴らす波音が聞こえた。


 ∞∞∞∞∞∞

 
「ん、んぅ……」


 目を覚ました。
 室内は変わらず黄昏時の夕陽に赤く照らされている。
 気を失ってから然程時間は経過していないらしく、そういえば今何時だろうと私は丸形の壁時計を見る。


 あっ、と私は驚愕する。
 時計の針は6時15分を指しているが数字が逆……読めなくなっている。
 まるで鏡に映っている様に。

 はっ、と思い私は次にカレンダーを見た。
 やはり数字がそのまま読めなくなっている。
 今度は鏡を見た。
 焦燥とした表情の、黒いビキニを着た私が映った。
 その後ろのカレンダーや時計の文字や数字は読める。
 もしかして鏡の世界に迷い込んでしまったのだろうか。
 その前に、私は今夢を見ているのではないのだろうか?
 
 そんな考察をしていると鏡の中の私の姿に異変が生じる。
 目の前に映る私が次第に黒い靄に包まれた。
 
 「……!」
 黒い靄により鏡の私の体が真っ黒に染まる。
 まるでまっくろくろすけの様に目だけが白く、ぎょろりとしていた。
 瞬間、鏡の中の私の目が一瞬にやりと笑ったかと思うと鏡の中から黒い手を伸ばし私を掴む。
 「えっ、ちょ、ちょっと!」
 慌てて私は手を振り払い、鏡から離れる。
 すると、鏡の中から影の様に黒い私がのらりと出て私に迫ってきた。
 
 私は咄嗟に身の危険を感じ、慌てて部屋を出て扉を閉め玄関側に移動する。
 が、すぐに反対側から黒い拳が、まるで新聞紙の様に扉を引き千切った。
 「なんなの?!」
 捕まったら終わりだ。
 私は玄関から外へ出ようと取っ手に手をかける。
 でも、まるでドアノブが石の塊になってしまったかの様にびくともせず、扉を開ける事が出来ない。
 「開かない! どうして?」

 影はすぐ後ろに迫っている。
 扉を破壊した力で触れられたらおしまいだ。
 夢の筈なのに、捕まったら何故か私は本当に死んでしまう様な気がした。
 
 影はゆらりと私に迫る。
 私はもう駄目だと顔を覆い屈むと、突然鉄製の玄関ドアに拳台の穴が開きそれは私の頭上を通過し、被弾した影がものすごい速度でリビングに押し戻されていった。


 ******
 
 
 この辺りだ。
 この辺りに、「あれ」にこの世界へ誘われてしまった人が居る。
 手が届く範囲であれば助けたい。
 せめて、仲間が居れば届く手の数が増えるのに。
 
 目的のマンションが見える。
 私は氷の翼の角度と厚さを調整し、風の抵抗を強め減速しながら屋上に着地した。
 着地したと同時に廊下を駆ける。

 見つけた。
 あの部屋からミロワーヌが発する電子魔素を強く感じられた。
 どうやら絶体絶命のピンチの様だ。
 
 私は即席で氷柱を顕現し扉に放つ。
 ミロワーヌの悲鳴が聞こえる。
 手ごたえがあった。


 ******
 
 
 うめき声のようなものをあげながら影が吹き飛んでいった。
 私は一体何が起きたか分からなかったが、とりあえず命拾いした様だ。
 倒れている影を見ると、顔に大きな氷柱の様なものが突き刺さっており、人間だったら即死だろうなと思ったがそれはむくりと起き上がり、再び私の方を向く。
 また襲われると思った私は穴の開いた玄関の前に移動する。だが穴は私が潜れる程の大きさが無く、これ以上は逃げられない。
 やはり少し延命しただけ……そう思っているとどうやっても開かなかったドアが外側から開いた。


「間に合いましたね、よかった」
 扉を開けて、幼い声を発したのは黄金色の大きな瞳で水色の長い髪の少女。
 白磁の肌に配られている欠点の見当たらない顔のパーツは、まるで完璧を追求する人形職人が生涯をかけてこしらえたビスクドールの様な、かなりの美少女である。
 そんな少女があの怪物を氷柱の様なもので吹き飛ばしたのだ。
 最早この文字が裏返った世界では常識と言う概念は捨てた方が良いと私は悟り、次第に落ち着きを取り戻す。
「貴女をすぐ安全な場所へお帰し致します。ほんの少しの間だけお待ち下さい」
 私はただ頷き見守る事がしかできなかった。

 顔に氷柱の刺さった影は立ち上がり再びこちらに向かってくる。
 刹那、少女は掌を影に向けたかと思うと無数の氷柱が飛び出し、影の全身の原型が無くなる程貫いた。
 瞬きする間もなく無残な姿に変わり果てた影は、黒い靄となりそのまま消えた。
 
 
 残ったのは、美少女と壁が吹き飛ばされて風通しが良くなった私の部屋だけだった。
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