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依頼2ー無気力の蔓延る科学国家マギリウヌ国

虚無の穴

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『大丈夫かっ!?』
  ハルが青年の姿になり、二人と妖魔の間に立ち塞がった。低く長く妖魔に向かって喉を鳴らし、牙を剥く。

「ポルクスっ!」
  ポルクスの腕の中でコハクが悲鳴を上げて青年の顔を見上げる。平気だと笑ったが、あまり上手くいかなかった。
 
 妖魔の金属の光沢を持った肌が人間の皮膚へと変わる。体の至る所から生えていた鎖が収納されて、細い手足には鎖の跡形もない。髪と瞳の色が鉄錆のような赤茶である以外は、シリアと瓜二つの少女が立っていた。
 
「高位妖魔化……! すばらしい! 実にすばらしい」
 素晴らしい演奏を聞いた時、観劇を観た時と同じような拍手をアウリムが送る。
 
『……ポルクス!』
 痛みに動けないポルクスの背中に軽い重みが加わった。ミソラが小さな前足をポルクスの傷口に当て、黒い毛並みが血を吸った。ぐっしょりと血に濡れた前足をミソラが舐めると、その体が少し大きくなる。今度は傷口に溜まる血をぴちゃりと舐めた。

 大切な大切な、青年の血はなんと美味なことだろう。えもいわれぬ快感にミソラは酔いしれ、妖魔の本能がもっともっとと囁く。
 子猫から成猫へと姿を変えたミソラは青年の背中から降り立ち、傷口の近くの空間に小さな虚無の穴を空けた。
 
『……許しませんわ。彼に血を流させるなんて。傷を付けるなんて……』
 穴が青年の血を飲み込む。黒猫がさらに質量を変えた。成猫の姿から、人間の子供の姿になる。

『……私以外がポルクスの血を飲むなんて……』

 四足を着いていた姿勢を伸ばし、青年の背中から鎖を抜く。抜くと同時に噴き出した血を、綺麗に飲み込んで穴が消えた。
 青年の血がミソラに力と充足と悦びを与える。周囲に漂う血の香りがミソラを誘う。
 もっと欲しい。体中に穴を開けて、その血を、肉を虚無の穴に飲み込んで自分のものにしてしまいたい。これほどの美酒があるだろうか、これほどの美味があるだろうか。

 穴が血を飲み込んだことでミソラの手足が伸び、幼い曲線が艶やかなものへと変貌する。

 ずっと我慢していた。美味しそうな香りを放つ青年の側にいながら、喰いたい衝動を抑えていたのは、浅ましい妖魔の性に抗うミソラの矜持であり、譲れない美学であった。ミソラは大人のそれとなった長く優美な指先で、そっと青年の傷口に触れる。
 鎖で開けられた穴が塞がっていく。抉られた傷口は、小さな穴を連続して塞ぐ感覚で癒していった。あとに残ったのは破れた制服とそこから覗く肌のみ。

「ありがとう、ミソラ」
 ふう、と息を吐いた金髪の青年が笑った。血をすすられたのに、傷を治してくれたからとこの青年はミソラに礼を言う。

「当然ですわ。私は貴方の相棒なのですから」
 ふふんと青年の礼を当然のように受け取って、ミソラは緑の目を細めた。

 契約をしてから、ミソラと青年はある程度感情を共有している。ミソラが青年を喰らいたいと思っていることも知っていて、なおも寄せられる無条件の信頼。発端が歪んでいたのだとしても、ミソラにとって余りある恩恵だった。喰いたいという抗いがたい衝動がミソラの心に穴を空けようとも、信じて貰える喜びがミソラの穴を埋めるのだ。

「そこの貴女。よくもやってくれましたわね」

 すらりとした白い手足、黒の巻き毛、吊り上がった勝気そうな緑の瞳、コハクと同じ様な合わせの衣服だが、コハクのものと違い裾がドレスのように左右非対称な広がりを見せて、彼女の長い足を麗しく彩っていた。巻き毛から生えた耳をぴんと立て、長く優美な尾が苛立たしげに揺れる。

 ここはチヅルの結界の中だ。外界のように空気の動きなどない。にも関わらず、風を孕んだかのようにミソラの黒髪と黒の衣服がはためいた。

 青年の腕の中で、コハクは首を捻ってミソラの変化を目の当たりにした。今のミソラはおそらく高位妖魔と同等に近い。

 実はこれと同じことが以前にもあったのだと、ポルクスとミソラから聞いていた。研究所に向かう前、目を覚ましたポルクスが白状したのだ。
 ナナガ国で一度だけ相手にした中級妖魔に傷つけられ、喰われそうになった時、ミソラがポルクスの流した血を舐めて力を増し、妖魔を瀕死にまで追い込んだ。その後ポルクスがもう一度妖魔と対話を試みて、うまくいった結果が、二色のバイカラーであるトルマリンだった。

 万が一の時の自衛手段として、ポルクスは自分の血をミソラに与えるつもりだった。
 これを聞いたコハクとハルは当然のごとく青年を説教した。ポルクスは、明るい金髪を床に擦りつけんばかりに二人へ謝った後、続けた。

「本当にごめんなさい。でも説得が通じなかったら、僕にはこの方法しかないんです。どんな形であれ苦しみを終わらせてあげたい。それには力が要ると思うんです」
 両手を合わせて、ポルクスはひたすら頭を下げた。

「どうしようもなくなったら、僕は迷わずこの手段を使います。でも自己犠牲とかはやめです。絶対に生き残るのを優先しますから、最後までやらして下さい!」

 そう言って頼み込んだのに、つい後先考えずに体が動いてしまった。そんなつもりなどなかったのだから、不可抗力なのだと言いたい。背中の痛みが消えほっとして目線を落とせば、腕の中のコハクと目が合った。あまり表情の動かない彼女の、怒っているような泣いているような瞳に胸が疼く。

 後でしっかり怒られなきゃな、とポルクスは苦笑する。思えば謝ってばかりだ。
 それにはまず目の前の妖魔をなんとかするのが先決だと、ポルクスは伏せていた身を起こした。
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