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第二部
47話…S
しおりを挟む「今度はどうした?」
「…さっきみたいに髪の匂い嗅がないんだなって」
そう呟いた彼女は心底意外だと言いたげだ。確かに颯真は背後から静香を抱きしめるのが好きで、特に風呂上りだと彼女も嫌がらないので思う存分髪の匂いを嗅いでいる。どうあがいても変態の所業だ。実は夜中一度は必ず目が覚める颯真がこっそり眠っている静香の髪を触っていることに気づいた様子はない。
こんな風に無防備に背中を向けられている状態で何もしないのが不思議で仕方がないのだろう。ああ、と相槌を打ってから答えた。
「さっき嫌がってたから。君の嫌がることはしたくないし」
紛れもない本心だ。颯真が汗の匂いを気にしないと言っても本人が気にしているのなら、それ以上のことは出来ない。基本颯真は静香の嫌がることはしないと心に決めている、そう基本。基本なのでやや強引にキスするのを辞めるつもりは毛頭ない。キスに関しては静香もわざと嫌がっている素振りを見せている、というのを知っているから。
望み通りのことをしたというのに静香は浮かない顔だ。これは、どう出るべきなのか。
「何で不服そうなの」
ワザとらしく優しい声色で問う。静香は意味ありげに視線を彷徨わせる。やがて困ったような表情で囁いた。
「…私は汗を掻いた状態で髪の匂いを嗅がれるのが嫌なだけで、それ以外のことを嫌がったつもりはありません、全部嫌がっているように言われるのは心外です」
「…」
颯真は自分を面倒くさい人間だと思っているし静香を含めた周りの人間も、そう思っているはずだ。だが颯真程じゃないにしろ、静香も中々いい性格をしている。基本的に素直だし思ったことを口にしてはくれるが、妙なところで回りくどい言い回しをするのだ。本人はストレートに自分に色々されて嫌ではない、とは言いたくない。そんな葛藤の末出たのが今の言葉だろう。
「…面倒くさい」
ボソッと口から漏れた言葉を聞き逃す彼女ではない。
「はい?颯真さんにだけは言われたくないです!」
「そうだね俺も結構面倒な性格してるよ。けど静香も人の事言えないでしょ、後ろから抱きしめられるのも風呂上りに髪の匂い嗅がれるのも、好きだってハッキリ言えばいいのに」
「…それが恥ずかしいんですよ、颯真さん意外と女心分かってないですよね」
「うわ、君の口から女心って単語が出てくるとは」
それから数分ほど、事後とは思えないほど色っぽさの欠片もない言い合いは続いた。が、ふと静香の方が我に返りポツリと零す。良い雰囲気だったのに何で言い合いをしているのだろう、と。眉を下げ寂し気な彼女の顔を見ると、胸が痛む。元はと言えば自分が揶揄ったのが原因だ。何故だか言い合いに発展してしまう。静香は気は強い方だがむやみやたらに人に喰ってかかることはない。寧ろマイペースで穏やかな方だ。そんな彼女が目を吊り上げるのはひとえに自分のせいで。好きな子に素直になれない小学生男子か、26にもなって、と突っ込む。タオルケットで顔を隠した静香の頭をそっと撫でる。何の反応もないので拒否はしてない、と受け取る。子供をあやすみたいに撫でながらこう言った。
「…上手くいかないな」
「何がです?」
「…さっきの事もだけど、今も。こういうこと話そう、こういうことしたいって色々考えてたのに何一つ実践出来てないからさ」
「そういうのって予め考えるものなんですか」
「いや、手慣れた奴ならその場その場で対応すると思う。けど俺は緊張してたし経験もないから、考えてないと不安で」
一々伝えることでもないので黙っていたが、櫻井はセフレと事が終わるとさっさと帰るか、相手の方が先に帰るかのどちらかだったので、こういう経験がない。静香も驚いたのかは分からないが、突っ込んでは聞いてこない。タオルケットからのそのそと顔を出した彼女が自分の目を見る。
「別に考えなくてもいいんじゃないですか」
「え」
予想もしない返答に思わず情けない声が出た。
「私も経験ないんで上手くは言えないんですけど、こういう時お互いが言いたいこと、やりたいことをすればいいんじゃないですかね…私の希望としては言い合いはしたくないですし、もっと話していたい。何か面と向かって言うの恥ずかしいですね…」
そう言うとまた彼女はタオルケットで顔を覆ってしまう。こっちが変な見栄を張ってウジウジ悩んでいる間に、静香はストレートに言いたいことを言ってくれる。悩んでいた自分がちっぽけに思えるほど潔い。多分彼女がこうでなかったら今、2人の関係は違った、もっと最悪なものになっていたはずだ。以前から分かっていたが、自分は静香に絶対叶わない。
急に彼女の顔をもっと見たくなってタオルケットを引きはがしにかかる。当然静香は抵抗を試みる。
「何ですか急に!」
「俺もやりたいことやってる。顔見たいなって」
「それなら口で言ってくれません?強引にしないで…」
あ、敬語が崩れた。しかもそのチョイスはよろしくない、変な気分になる。静香は余裕がなくなると敬語が崩れるらしい、つまり今はいっぱいいっぱいの状態なのか。自然と嗜虐的な笑みが浮かんでしまうが、虐めてしまうのは絶対駄目だ、さっきの繰り返しになる。
「良いな、今の。この際だからやりたいこと全部言う。朝まで話していたいし、髪に顔埋めたいし抱きしめてキスしたい。それから」
「強欲…」
「やりたいことやればいいって言ったのはそっちだろ、言いだしっぺが責任取って」
「そりゃそうですけど…仕方ないですね。シャワー貸してください、汗臭いままじゃ希望叶えられないんで」
「じゃあ俺も浴びるよ、先使って。着替えそこに置いておいた、風呂場行くにも服着るだろ。外出てるから」
自分の服を持った颯真は静香に寝間着を渡すと部屋を出て行った。リビングのソファーに腰掛けると傍にあるクッションを手に取り顔に押し付ける。こうしないと興奮が抑えられない。興奮するなという方が無理だ。静香は自分の「やりたいこと」に対し呆れはしたが、拒否しなかった、あれは肯定と受け取って問題ないはず。
静香に浮かれていることを悟られてはいないだろうか。もうとっくに自分がスマートな人間でないことは知られているのに、やはり見栄は張りたい。
(自分に都合のいいことばかり起こってる、夢じゃないよな…)
今自分が体験していることは、神様がくれた気まぐれによって成り立っているのではと、この期に及んで馬鹿なことを考えてしまう。クズで碌でもない颯真に神様が見せている一夜の幻。実は目が覚めたらやらかした颯真を静香が許さず、完全に縁を絶たれた世界線にいる、という最悪なケースも有り得えた。そんなことになったら別世界に旅立つ自信がある。今日も絶好調に情緒不安定であった。
(まずい…無性に触りたくなってきた)
不安な時彼女に触れると落ち着くのだ。浮かれ切っている颯真は自分が彼女に付けた「爆弾」の事なんてすっかり忘れており、後々面倒な思いをすることになるとは知る由もない。
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