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第二部
34話
しおりを挟む「先生、お疲れ様です。挨拶もファンの方とのやり取りも良かったですよ」
控室に戻った途端テーブルに突っ伏す櫻井に静香は労いの言葉をかける。櫻井はうーと呻き声を上げながら上半身を起こし、静香を見上げる。その端正な顔には疲労が色濃く出ていた。やはり人前に出てその上1人1人と軽く会話を交わす行為はハードルが高かったらしい。その様子で第二部は大丈夫なのか、と心配になってしまう。当の櫻井は微かに不安を滲ませた自分の表情を読み取り、食い入るように告げて来た。
「別に疲れてないから、あと50人にサインして少し話すくらいどうってことない」
どこか拗ねた子供の様な言い草に、思わずクスリとしてしまう。軽口を叩けるのなら見た目より疲れていないのは、本当なのかもしれない。
「思ったより元気そうで安心しました。昼休憩を挟んで14時から第二部ですので、あまり時間はありませんが休んでいてください、お弁当そこに置いてあるので。私は最終打ち合わせに行ってきます」
櫻井の座っているテーブルから離れ、真っ直ぐにドアへと向かう。ドアノブに手を掛けると「あのさ」と後ろから呼び止められる。今度は手首を掴まれることはなかった。ドアの前で足を止め、振り返る。気だるげにスマホを弄っている櫻井と目が合った。
「どうかしましたか」
「ちょっとスマホ見てくれない?」
「スマホを…?」
急にどうしたのだろう、櫻井の意図がイマイチ分からない。スマホを見るように促すなんてと首を傾げると、「早く」と催促される。何やら急ぎの用らしいので肩に掛けていたカバンから素早くスマホを取り出す。画面を明るくすると櫻井からメッセージが届いている。彼の急ぎの用というのはこれか、と早速アプリを開きメッセージの内容を確認した。そこには。
『今日の夜暇?どこか食べに行かない?』
やけに急かすからどんな重要案件なのかと身構えたが、普通に食事の誘いだった。プライベートで櫻井と会ったのは数週間前だが、櫻井の家に引きこもって映画を永遠と見て食事も互いに協力して作ったので、外食は久々だ。会う頻度にしても仕事で顔を合わせることも考慮しつつ、自分の時間や予定を大切にするには数週間に一度くらいがいいのではと櫻井に提案されたのだ。
静香も仕事に必要な勉強や友人と出かけたり、1人でダラダラする時間が必要な人間なのでその申し出はありがたかった。こちらから言い出すのも気が引けたからだ。櫻井はゲームしたり夜の美術館に行ったり、新條が泊まりに来たりとそれなりに急ぎの日々を過ごしていると聞いている。あと新しい作家友達が出来そうだとか。やはり付き合っていると言ってもベタベタし過ぎるのも良くない。
そんな櫻井がわざわざ誘ったということは何を意味するのか。メッセージで誘うという回りくどい方法を選択したのは「仕事中」だからか。櫻井も静香と似ていて変なところで真面目だ。それはそれとして。
(疲れたから慰めろってことかな)
具体的に何をすればいいのか分からないが、今日の夜は予定はないし明日は日曜だ。誘いを受けることに何の問題もない。静香はすぐに櫻井に返信した。互いに顔を合わせているのにわざわざスマホのメッセージアプリでやり取りをするのもおかしな光景だ。だけど、偶にはおかしな行為をするのも悪くはない。
『予定はないので大丈夫ですよ。私は一度会社に戻るので、待ち合わせ場所と時間を決めておきましょう』
と、それからはとんとん拍子で場所と時間も決まった。何を食べるかは要相談ということになったので、一旦スマホをカバンに入れ櫻井に一言断ってから控室の外に出た。
最終打ち合わせ、昼休憩を終えて迎えた第二部は櫻井の緊張が完全にほぐれていたこともあり、よりスムーズに進んでいった。一部の時のように印象に残る質問をするファンはいなかったことを寂しく感じる自分に驚く。しかし、印象に残る質問をしたファンが居なかっただけで、印象に残るファンはいた。
その人は、かなりの高身長で色付き眼鏡に帽子を被った、パッと見怪しそうな男性だった。若い男性のファンもチラホラ居たものの、彼は何故か周囲の視線を集めていたし静香の目にも留まった。そして不可解なことにその男性を見ていた櫻井が顔を顰めていたのだ。心配した静香がどうしたのか尋ねても「後で分かるよ」とか教えてくれずやきもきさせられた。
そして彼の言葉が本当だったと知る羽目になるのは30分後、その男性の順番が回って来た時だ。
「清水先生、お会いできて嬉しいです。俺先生のデビュー作からファンなんですよ、これからも応援してます」
色付き眼鏡に隠されている瞳と弧を描いた口元から、快活な笑顔であることが窺えるその男性の低めだが、聞き取りやすい声には聞き覚えがあった。いやあって当然なのだ。その証拠にファンに対して明るい声を出していた櫻井がその男性の時だけ。
「…はぁ、ありがとうございます」
と心底どうでもいいと思っている声を発したからだ。とても高い倍率を潜り抜けて来たファンに対する態度ではない、と本来なら諫める場面。だが静香は何も言わない。彼はファンはファンでも、静香も良く知っているファンだったからだ。
彼がサインの書かれた本を受け取り会場を出た後、横に居た静香にしか聞こえない声でポツリ。
「…あいつ暇なの」
この場で応えることは出来なかったが静香も同意見だった。倍率の高かったサインの参加権をどうやって手に入れたかは不明。性格上転売に手を出すとも考えられないので純粋に強運だった、と思うことにする。
予期せぬ参加者の周囲が妙にざわついていたので、恐らく当たっているだろう。しかし、櫻井も言っていたが彼は社交的で交友関係も広いはず。そのはずなのだが頻繫に櫻井と一緒に居るのを見かけるし、当の櫻井からも話題に出る回数が多い。数少ない専業作家同士、時間の都合をつけやすいのかもしれないし、ただ単に仲が良いから共に過ごすことが多いのかもしれない。わざわざ聞こうとも思わないので想像の範疇を出ない。多分後者だろう。
こうして予期せぬファンの登場によって完全にペースを取り戻した櫻井は、出会った当初のチャラい雰囲気を彷彿とさせる喋り方でファンの何人かをドギマギさせていた。顔を隠していなかったら。割と冗談抜きで編集長の「戯言」のような状況に陥っていたかもしれない、と静香は1人戦々恐々としていたことを誰も知らない。
「清水先生、本日はお疲れ様でした。先生の希望で打ち上げ等は行わないと言うことなので、本日はここで失礼します」
サイン会終了後、井上は櫻井に労いの言葉をかけるとペコリと頭を下げ、控室から出て行った。彼女もこれから会社に戻り事後処理に取り掛かるのだろう。そしてやけに口の上手い店長はというと。
「いやー私も先生のファンでして。新刊も買ったんですよ。雨宮さんにお聞きしたんですけどうちの書店を学生時代よく利用してくださっていたそうで。記念すべき初サイン会にうちを選んでいただき本当にありがとうございます」
と熱い口調で感謝の言葉を述べてくれる店長に気を良くした櫻井は「サインしましょうか」と自ら申し出た。当然店長はいたく感動していたし、その場にいたスタッフも柔らかい雰囲気を醸し出していた素顔の櫻井に勇気が出たのか、自分もお願いしますと次々と願い出始めた。短いが第三部の幕開けであった。
尚、本日サイン会のスタッフとして参加した全員には清水学の写真を撮ったり、外見についてSNS等に書き込まないように契約書を書いてもらった。中には「そこまでやるか」と難色を示す者もいたが編集長の言葉を借りるなら「作家」を守るためにはこれくらいしないといけないのだ、情報社会の現代なら尚更。そもそもまともな倫理観を持ち合わせていたら顔を出していない有名人の素顔についてペラペラ話さない。静香はスタッフがまともな倫理観を持ち合わせていることを祈った。
内輪でのサイン会を終えた櫻井は着替えた。着ていた服を綺麗に畳んで持って来たトートバックに仕舞い関係者用の出入り口へと向かった。書店のスタッフはこれから通常業務に戻るので見送りに行けないことを大層残念がっていた。今日が終わったとしても櫻井は常連客なので運が良ければ会えるのだが、一々言うことでもないので黙っていた。多分会った時顔を知っているスタッフは動揺するだろうが、その辺りの対処は櫻井に一任する。
静香は自宅に戻る櫻井と共に書店を出る。一応周囲に目を配るが怪しい視線などは感じない。編集長の冗談だと分かってはいるが、それでも注意は必要だ。目を細め周囲を警戒する静香に櫻井は頬を綻ばせる。そして呆れたように笑う。
「そんな獲物を狙う肉食獣みたいな目で見なくても大丈夫でしょ」
酷い言われようである。思わず口を尖らせる静香。
「私石橋を叩いて渡るタイプなんですよ」
「叩きすぎて壊すタイプの間違いでしょ…これから会社戻るんだよね。途中まで一緒に行く?」
「そうですね」
頷いた静香と櫻井は歩き出す。別れるまでの短い道中話題に出たのは例のファン、ではなくそれ以外の大勢のファンについて。
「若い女性が多くて驚いた、だって俺のデビュー作割とエグイし」
確かに清水のデビュー作「廃病院の悪魔は仮面を被る」は遺体の描写がかなり凄惨に描かれている。それと途中に差し込まれる犯人視点の章の、精神状態の異常性も中々である。若い女性が敬遠すると思っても不思議ではないが。
「小説に限らずグロテスクな描写のある漫画、アニメを好む女性は多いですよ。私もそうですし」
「雨宮さんは年齢制限のあるグロい映画を見てもケロリとしてそう」
「…何で分かったんですか」
「え、当たってた?」
「学生時代、友人が好きな俳優が出るからと年齢制限のあるミステリーを見に行くのに付き合った際、あまりの凄惨さに見終わったあと友人はぐったりしてましたが、私は平気で。友人から羨ましがられましたね」
「何かその映画気になって来たんだけど」
「教えても良いですけど先生ホラー苦手ですよね、グロい描写よりホラー色の方が濃いんですよ」
以前見に行った映画に予期せぬホラーシーンが含まれており、驚いたのか隣に座った静香の手を強い力で握りしめたことがあった。あれで櫻井はホラーシーンや突然驚かせてくるシーンが苦手なのだと認識していたのだが。櫻井も当時の事をやっと思い出したらしく、口の「あ」の形に開けたまま視線を宙に彷徨わせた後、バツが悪そうに口元に手をやった。
「…そうだった、やっぱりいいや」
あっさりと引き下がってしまった櫻井に静香の口角は思わず上がる。素直じゃないときの方が多いのに、こういう時「別に苦手じゃないし」と強がらないところが可愛いなと感じてしまう。
他愛もない会話を交わしていると、いつの間にか駅に辿り着いたので、2人は一旦そこで別れた。数時間後にはまた会うので寂しいと言う気持ちは微塵も湧いてこないのだった。
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