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第二部
33話
しおりを挟む「…人多くない?」
「50人いるんですから当たり前ですよ、今日はあと50人にサイン書くんですから、気をしっかり」
時間は12時少し前。狐面を装着した櫻井は舞台袖で怖気づいていた。静香も会場の様子を確認したが、サインを書くテーブルと椅子。そこから離れた場所に四角形になるようにパイプ椅子が並べられており、そこには50人の高い倍率を潜り抜けたファンが静かに、または隣に座った人と熱く語らっている様が目に入る。始める前なのに会場は緩やかに熱気に包まれていた。
そして熱気に包まれていたのは会場だけではない、若い2人も充てられたのか。
「何か危ないと思ったらこっちを二度見てください、すぐに対処します」
「…それも複雑なんだよなぁ」
「こうでも言わないと先生不安がるじゃないですか」
「俺が聞き分けのない子供みたいな言い方辞めてくれない?」
「え、事実ですよね」
「っとうに君はさぁ、正直に言えばいいってもんじゃ」
緊張をほぐすためなのか本気なのか判断が付かない作家と編集の言い合いが始まり、それを後ろで見ていた店長、副店長、井上は全員同じことを思っていた。
(仲いいなこの2人)
(担当編集と作家と聞いていたけど、実は以前からの友人だったりするんじゃ)
(喧嘩する程仲が良い…)
とはいえ時間も差し迫っているのに呑気にどつき漫才を続けられても困る、と井上が一歩前へ出ると。
「別に君の助け何て借りなくてもサイン会くらいこなせるから」
「それは楽しみです、後ろから念でも送っておきます」
「激励も雑だな、ほんと」
と、開始時間2分前にはきっちりと漫才を終了させていた。もっとヒートアップしたところを止めに入るつもりだった井上は些か拍子抜けしてしまう。だが、これはこれで手間が省けたと言うことにする。狐面をつけた櫻井の表情は読み取れないが、雰囲気がリラックスししているように感じられた。根拠ははないが、彼は大丈夫だろう、と背中から伝わってきた。
そして12時丁度、サイン会が始まった。まず店長、副店長が会場に入り軽く挨拶をする。店長はこういうイベントに慣れているせいか客を乗せるのが中々に上手い。舞台袖で聞いているが「謎に包まれた人気作家と芸人並みの掛け合いを交わす担当編集」等と誇張した内容をファンに聞かせている。隣にいる櫻井が「何言ってんだあの店長」とぼやいている。静香も同じ気持ちだ。あんまりファンの期待を上げないで欲しい、櫻井は兎も角自分はただの新米編集だ。出て行ってガッカリされるのは、こちらとしても心苦しい。しかし、朝時間をかけてヘアスタイルを整えて来たのは正解だったようだ。少なくとも、いつもの髪型よりは見栄えが良いはずだ、髪型は。
会場を散々煽ってくれた店長が「清水学先生と担当編集さんです」と呼びこんだので静香は櫻井の背中を軽く押した。「ちょ、押すな」と文句を言われたが声色から怒っていないことは明白だ。
狐面を付けた櫻井と後に続く形で静香が会場に入ると、ただでさえソワソワしていたファンのどよめきが広がり始めた。事前告知で清水学は覆面を付けて登壇すると知らせてあるので、狐面の男が誰なのか分からない人間はこの場には居ない。
「え、あれ清水先生だよね、背高い!」
「ていうかスタイル良すぎ」
「絶対イケメンでしょ、雰囲気で分かる」
最後のファンの言葉がどこかから聞こえると櫻井の肩がピクリと震える。今仮面の中で彼は「顔を隠してるのに何でバレた」と焦っていることだろう。目ざとい人間は顔を隠していても顔の大体の造形を当ててしまうらしい、声の主は若かったと記憶している。末恐ろしいファンだ、と慄く。
最初はざわめき程度だった会場の熱気はどんどん上がり、ファンの興奮状態は伝播し徐々に大きくなっていった。ふむ、このままではサイン会どころではないと思うが静香は焦らない。その辺りの事も。
「はい、皆さん清水先生が出てきて興奮するのは分かりますよ、ですが清水先生シャイな方なので皆さんが落ち着いてくださらないと喋れません。清水先生の美声が聞きたかったら少し落ち着いてください」
と店長がマイクを通して伝えた瞬間、今までの喧騒が嘘のように静まり返る。書店員の合間にイベントの司会進行役を副業として引き受けるべきだと進言したくなる。因みに「シャイ」と紹介された櫻井には会場の視線が一気に集まる。皆どこか微笑ましいものを見る目を向けていた。チラ、チラとさりげなく櫻井がこちらを向く。早速ヘルプである、さっきの自信どこに行った。自分の発言には責任を持つべきだと思うけど、仕方がない。
静香は店長にアイコンタクトを送る、早く進めろ、と。伝わったらしい店長は何度か咳払いをすると「えーおじさんの話はこれくらいにして」と話を締めにかかる。
「これからサイン会が始まるんですが、その前に清水先生から皆さんにご挨拶があるそうです、では先生あとはお願いします」
そう言うと自分の使っていたマイクを櫻井に手渡す。受け取った櫻井はマイクを口元に持っていく。目と同じで口の部分にも隙間が空いていたので、恐らく声を拾ってくれることだろう。駄目なら駄目で櫻井が大きい声で話せばいいだけだ。
櫻井の肉声が聞けると期待しているファンは全員静かに待っている。そしてその時が来た。
「…皆さんこんにちは、清水学です。今日はこんな風に顔を隠した形にはなりますが、ファンの皆さんと初めて直接会えてとても嬉しいです」
ちらりと前方を見渡すと、櫻井の低音ボイスに聞き惚れている人が多数確認できる。流石としか言いようがない。櫻井は「えー」と漏らしながら懸命に言葉を紡ぎ続ける。
「…俺は人前、というか人と接することが得意ではなくて、なので人前に出る仕事は全部断っていました。今回サイン会を開くことになったのは、ある意味心境の変化がきっかけです。人が苦手なら応援してくれているファンも苦手なのか、とある人に言われまして。サイン会開けばファンに会えますよ、と乗せられた形にはなりますけど引き受けてよかったと心から思っています。短い時間ですがよろしくお願いします」
言い終えるとペコリと頭を下げる。その瞬間、50人しかいない会場を割れんばかりの大喝采が包んだ。中には感動したのかハンカチで目を抑えてる人も見られた。他のフロアにも聞こえているだろう。尚、思いの外拍手が大きく驚いたらしい櫻井がビク、と肩を震わせていた。その様を見た何人からは「可愛い」「堪らん」「養いたい」という声が上がっていた。最後のは少し違う気がしたが気にしないことにした。
櫻井がテーブルの椅子に座り、その横に静香が控えると遂にサイン会が開かれる。端の一番の整理券を持った人から「神宮寺恭一郎」の新刊を手に順番に並び始める。ファンはサインを書いてもらえる十数秒だけ話しかけることが出来るが、いざ清水学を前にすると緊張してしまい考えていた言葉を言えないらしい。興奮した様子で口元に手をやり、考えた結果ファンです、これからも応援してます、としか伝えられず、スタッフに引きはがされた後トボトボと帰る後ろ姿を見送った。中には好きなキャラクターや好きなエピソードを伝える人もいたが時折。
「清水先生って絶対イケメンですよね」
「え、どうでしょうか、あまり言われたことないので」
と直球に聞いてくる猛者もいる。櫻井も櫻井で白々しい態度で答えた。笑いを抑えるのが大変だ。だが静香の試練はまだまだ続いた。同じ質問をしたファンがあと3人いたからだ。作品と関係ない質問に思うところがあったのか櫻井も「えーそんなことないですよー」と一切の感情を感じられない受け答えをし始めたので、背後に回り背中を小突いた。すると急に背筋をピンと伸ばし、ハキハキと喋り出す。
質問をした全員20代に見えた、顔を隠した作家の素顔がイケメンか否かはそんなに重要なのか。折角の機会なのだからもっと聞くことがあるのでは、と思ってしまうが何を聞くかは個人の自由だ。静香は微笑を浮かべながらサインを書いてもらったファンの背中を見送った。
最初はぎこちなくサインをしていた櫻井だが、数をこなすとサインを書きつつファンからの質問に答えるようになる。時折冗談を交えながら。
そして第一部は最後の1人となった。慣れた手つきでサインをし、本をファンに手渡す。最後の1人が意気揚々と会場を出て行くのを見送ると、第一部は終了した。
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