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第二部
31話
しおりを挟む照りつける日差しが暑い7月の頭、午前11時半。四川堂書店の控室として与えられた部屋に静香と櫻井はいた。静香は至っていつも通りでのほほんとした顔でコーヒーを飲んでいた。ノースリーブのブラウスに黒のカーディガン、膝より下のロングスカートという良く着る組み合わせの服装に身を包んでいる。違う点と言うといつもはハーフアップか1つに束ねている栗色のセミロングを、ハーフアップの形で編み込んでいた。担当編集も喋りはしないが横に控えるので、いつもの適当な髪型で出るわけにはいかない、と思ったからである。
因みに櫻井からは「そういう難しそうな髪型出来るんだ」と何とも失礼なことを言われてしまった。間違ってはいない。静香は子供の頃からヘアアレンジは苦手で、自分では1つに纏めるかハーフアップしか上手くできないのだ。この髪型も動画を見ながら30分かけて完成させた。それを聞いた櫻井は何とも言えない顔をしていた。
「料理できるのにそこだけ不器用なんだ」
「…何ででしょうか」
「俺が分かるわけないでしょ」
そんな軽口を叩き合っていた櫻井は静香と違いどこか落ち着かない様子でスマホを弄っている。白いシャツに黒の七分丈のジャケットにチノパンという、定番のスタイルに身を包んでいるがやはり様になっている。
また、激励という名の揶揄い目的で前日に連絡をしてきた編集長が「もしかしたらファンが先生の顔を確認しようと待ち伏せているかも」と世にも恐ろしいことを言いだしたので、四川堂に入るときは別の服で来たのだ。服装が同じだと「清水学」だと特定される恐れがあるから、と進言した。本人は「俺アイドルか何かなの?」と困惑しきっていた。気持ちは分かる。静香もそんなことあるわけないと笑い飛ばしたのだが。
そして今日、顔を出しに来た編集長は服装を変えて来た櫻井に感心しつつも、更に余計な言葉を重ねた。
「世の中タチの悪い人間というのはいるんですよ、待ち伏せならまだいい方です。ネジが飛んでる人はイベント中に乱入しますからね」
「ドラマでしか見たことないんですけど、芸能人は兎も角作家のサイン会に乱入する過激なファンっているんですか」
「いや、そんなの見たことないわね」
「…」
なら、何故必要以上に不安にさせることを言うのだこの編集長は。思わず目を細め睨んでしまう。ふと櫻井に視線を移すと、彼は彼で編集長を感情の読めない瞳で凝視していた。なまじ美形の無表情というのは中々怖い。当の編集長は気づいているのかいないのか、良く分からない飄々とした態度を崩さない。何というか、この人相手に一々腹を立てるのも馬鹿らしいのではと感じるようになる。編集長はそこで若い編集と若い作家に睨まれていることに気づいたが、やはり慌てたりはしない。
「あら、2人ともそろって機嫌悪いんですか、仲良いですね。緊張をほぐそうと思って冗談を言ったんですけど、逆効果だったみたい。邪魔者はそろそろ退散したほうがいいか、では時間までごゆっくり。雨宮あとお願いね」
右手をひらひらと振りながら編集長は控室から出て行った。パタンとドアの閉まる音が響いた後、部屋を支配したのは静寂。編集長があっさりと出て行ったこともだが、2人の関係を知っている上で仲が良いだとか余計なことを言い残したのが主な原因だろう。2人はほぼ同じタイミングでパッと互いの顔を見てしまい、咄嗟に逸らす。主に櫻井が。帰り際の編集長の言葉を気にし、来たばかりの時とは違う、別に意味でそわそわしている様子。
(うわ、何か気まずい、編集長余計なことしないで)
と、静香がポーカーフェイスを張り付けた裏で出て行った編集長への恨み言を吐いていると
「…あの人息を吸うように人を揶揄わないと死ぬのか」
ポツリと不機嫌そうな声が横から上がる。
「それはないと思いますよ、多分」
やけに真剣な口調で櫻井が言ったので、合わせて静香も神妙な面持ちで、しかし曖昧に言葉を濁す。
「あの人が上司だと苦労しそう、俺会社勤めしたことないから想像だけど」
フッと口元に弧を描き、労わるような言葉を投げかけられる。どうやら編集長への怒りは持続しなかったらしく、ひとまず安堵する。あの人に苛立ってもキリがないし、大事な今の時間に怒ることで、彼に変に心の静寂を崩させる真似はさせたくなかった。怒るという行為はエネルギーを使う。
「普段はあんなですけど仕事中はまともな人です。意味もなく声を荒げることもありませんし、上司としては信用出来ますよ」
微笑みを浮かべつつ応えた静香を櫻井は黙って見つめる。暫くすると不意に顔を逸らし
「上司に対して『あんな』って言っていいの」
どこか揶揄いの混じった口調で告げられた。緊張していたと思ったら編集長の言動で少しばかり苛立ち、最終的に静香を揶揄えるまでに普段の調子を取り戻している。それに安心するやら、どこか寂しいやら複雑な気持ちになった。
「本人が居ないので問題ないと思いますよ」
「あ、編集長」
「え」
反射的にドアの方を振り返るが、誰も居ないし人の来る気配もしない。どうやら揶揄われたようだ。スン、と目を細めたままゆっくりと櫻井に視線を戻した。そこにはいたずらっ子めいた笑みを浮かべた端正な顔の男。人を揶揄える元気があるのはとてもいいことだ。なら下手に人が居ない方がもっとリラックスできるはず。静香はテーブルに置かれたカバンを手に持ち足早にドアへと向かう。櫻井はギョッとした顔つきになり焦り出した。
「緊張、もうほぐれたようですので私は向こうのお手伝いに行ってきます。人を揶揄えるくらい元気なら私がいる必要もないと思うので」
「え、ちょっと待って。1人にされると逆に緊張するんだけど」
「では井上さんか編集長を話し相手に呼んで」
「逆に緊張するから本気で辞めて」
綺麗な顔が切羽詰まった表情に変わるのは、見ていて少しばかり気分が良い。そう思う自分は大概性格が良くないと自覚してしまうが、別に悔やむこともない。本気で静香が出て行こうとしていると焦る櫻井の姿を見ていると、ここ数カ月のうちに芽生えたある衝動が顔を出し始める。今は仕事中、普段から散々仕事とプライベートは分けると口を酸っぱくするほど言っている自分が櫻井を揶揄うことは出来ない。そう自分を自制することは出来る。
別に編集長がいると揶揄われたことを怒っているわけではない。怒ってはいないが、そんなに元気なら一人でも大丈夫だろう、と判断したから言い出したことで。…やっぱり少しばかりムッとしたのは事実。それにずっと櫻井についているのも気が引ける。店長や井上からも櫻井についていてくれ、と言われたけれど。それはそれ、これはこれだ。
(せめて特設会場の様子は見に行きたいし)
「少し様子を見てくるだけですので、先生はゆっくり…」
櫻井に背を向け、ドアノブに手を掛けようとした時。横から伸びてきた腕に力強く手首を掴まれる。え、と腕の伸びて来た方に顔を向けると、焦りを滲ませた櫻井の顔が目に入った。
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