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第二部
30話
しおりを挟むそれから約二ヶ月後。
「清水先生、おはようございます。雨宮です、突然で申し訳ないのですがいい知らせと悪い知らせどちらから聞きたいですか」
「いきなりそれ?…悪い知らせは聞かなくていいです…」
「その選択肢はありません、先か後か選んでください」
「やっぱり君強引だし理不尽だよね…まあいいいや、悪い知らせの方から」
「はい、諸々の詳細は省きますが営業の方からサイン会を追加で開けないかという打診が来まして。先生は人前が苦手ですし二回目も開くのは負担が大きいのではないかと思ったのですが、本人の意見を聞かずに判断することは出来ませんので一応確認を」
電話の向こうで櫻井の呻き声が聞こえた。本人からしたら清水の舞台から飛び降りる気持ちで引き受けただろうに、複数回人前に出てくれだなんて、話が違うだろと憤っても仕方ない。
櫻井は暫く黙ったままで、悩んでいることが察せられる吐息が微かに聞こえる。当然断っても何ら問題はない。
(まあ販売の人も本気で催促しているわけではないでしょ、明らかに期待していなかったし)
担当の井上の上司がわざわざ伝えに来たが、古参の社員だけあって櫻井の歴代担当の一部が短期間で変わっているおおよその理由も知っていた。だからか「どうせ断るでしょ」という態度が透けて見えていて少し腹立たしかった。井上が後で謝罪してくれて溜飲が少し下がったが。元を正せば櫻井の行動がもたらした結果なのだが、それでもやはり作家を軽んじられていい気分になることはない。
櫻井が引き受けたら裏で清水学を軽んじていた人々の認識を変えることができるかもしれないが、櫻井本人は周囲の評価をあまり気にしない。それどころか自身の作品が世間でどういう評価を受けているかも気にしないしエゴサもしない。本当に作品を作ることにしか関心がないのだ。逆に気になってエゴサし、変に否定的意見を目にしてショックを受ける作家が少なくない中、この点でも櫻井は安心感がある作家だ。本当に助かる。
「…今すぐ結論を出す必要はありません、良く考えて」
「…する」
「…はい?」
「一回目のサイン会がどんな感じか体験した上でまたやるか判断する、ってことにしておいて」
それはつまり。
「前向きに検討する、ということですか…?」
「何その意外そうな声、即拒否ると思った?」
「…まあ、はい」
「正直だな、前だったら即断っていただろうけど、今は…心境の変化?ファンに直接会う機会なんてそうそうないから、すぐ断るのも勿体ないかなって」
「…」
あの、偏屈で人嫌いで人前なんて絶対嫌だと言っていた櫻井が前向きに考えている。元々人は嫌いだが作品を好きで居てくれるファンは別だと言っていたけれど、それでも難色を示すとばかり思っていたのだ。意外という気持ちより、感動の方が大きい。こう表現したら本人に怒られるだろうが人を怖がっていた手負いの動物が元気になり、自分の元から旅立ってしまう、そんな寂しさにも似た感情も入り交じっている。
上から目線になってしまうが、人って変わるんだとしみじみ思う。いや、それを言うなら自分も変わったと言える。今まで友人以外には安易に踏み込まないように心掛けていた。お節介と揶揄されるより良いと思っていたしそれで問題なかったのだが。
(私も少しは変わったのかな)
そんなことを考えていると電話の向こう側から「悪い知らせ終わり?良い知らせの方は」と促す声が聞こえて来た。ハッとして、咳払いをし続きを話し始める。
「…良い知らせの方は、四川堂さんの公式サイトでサイン会の日時と定員100名が抽選で参加できると告知しました。昨日が抽選受付開始だったのですが…公式サイトがサーバーダウンとまでは行きませんが一時的に繋がりにくい状態になりました。確認したところ数千の応募があったそうで…先生、大丈夫ですか」
「あ、大丈夫。え、そんなに応募あったの?たかがサイン会なのに」
「先生はご自身の人気について無頓着すぎです、先生に会いたい方たくさんいますよ」
「そう言われると何か照れくさいな…というか先着ならまだ分かるけど抽選だって言ってるのにアクセス集中するってどういうこと?」
「人ってそんなものですよ、我先にと行動したがります。早く申し込めばその分当たる確率が上がると思っているのかもしれません、あり得ないのに」
「…やけに実感籠ってるけど、経験済み?」
ギクッと不自然に黙る。指摘の通りで抽選なのに告知が出た直後にイベントに申し込んだ経験はかなりあった。抽選なのだから早さは関係なく、完全なる運勝負なのに何の根拠もない行動だ。分かってはいるが辞められない。
沈黙で大体の事を察した櫻井のどこか揶揄うような声音が届く。
「あー、それで駄目だった場合暫く引き摺るんだ」
彼は静香が基本淡白な癖に手に入らなかった「物」に対して執着する性質だと知っているので、気合を入れて申し込んだものが駄目だった時の自分の姿に容易に想像がついたのだ。見透かされているようで恥ずかしくなる。
「…私の事は今は置いておきましょう、それでこのことを知った営業がサイン会を複数回行えないか。と提案してきまして。それが先ほどの悪い知らせに繋がります」
「…本来なら良い知らせなんだろうけどね…」
「感じ方は人それぞれ…悪い知らせって言い切った私が言うことでもないでしょうけど」
電話の向こうで櫻井が笑ったのが分かった。よく考えなくても勝手にサイン会の件を悪い知らせだと決めつけたのは、些か早急だったかもしれないと心配になったが櫻井が気分を害した様子はない。なので特に気にせず話を続ける。
「こちらの話を聞いたうえで二回目のサイン会について考えていただきたいと思ってます。お知らせについては以上です。あ、「東雲先生」の新刊のプロットお待ちしてますよ」
「今書いてるよ…あーそうだ、久々にわざと締め切りギリギリまで完成させないで編集をやきもきさせる遊びを」
「…先生?」
それは聞き耳を立てていた編集部員の背筋が思わずピンと伸びてしまう程の冷たい声だった。当然聞かされた当事者たる櫻井は。
「…するわけないよ、そんな迷惑行為、俺心入れ替えたからね、うん。冗談です」
静香の冷気を感じとり慌てて誤魔化しに走る。声は上擦っているし震えている。
「冗談ですか、安心しました。私だけならまだしも他社の編集にまだそのようなことしていたら…」
「していたら…?」
恐る恐る訊ねるに櫻井に対し、静香は「フフッ」と笑っただけだった。
「何それこっわ…」
「そう思われるのでしたら、そのような真似は慎んでくださると嬉しいですね。それではこの辺りで失礼いたしますね、くれぐれも無理はしないでください」
「うん、そっちも仕事頑張って」
向こうが電話を切ったのを確認した後、スマホの通話ボタンを押し通話を切った。スマホを机の上に置き、静香の視線はPCのメールへと移る。何事もなかったかのように仕事に戻った静香を編集部の先輩達は興味津々という姿勢で見ていた。
(何あれ、完全に尻に敷いてない?)
(てか雨宮ちゃん普段温厚だから、ああいう冷たい声出すと背筋ヒュってなるわ)
(仮にもうちの看板作家に軽口叩けるって、肝据わってるな…)
各々静香と清水の関係が気になり始めていたが、誰も直接聞く勇気はなかった。静香が簡単に教えてくれるわけがないと分かっていたからだ。
ただ1人、2人の関係を知っている編集長は静香のやり取りを聞き笑いをこらえるのに必死だった。あの問題児が尻に敷かれている様を想像してしまったからである。「編集長どうしたんだ」と周囲から怪訝そうな顔で見られていることには気づいていない。
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