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第二部
18話…S
しおりを挟む一方執筆部屋に敷いた布団に潜り込んでいた颯真はというと。
(後3か月で愛想を突かされたらどうしよう…)
この期に及んで絶対起こりえないことを心配し、悶々としていた。どこまでも残念な男である。
しかし、颯真は自分自身をよくやったと褒め称えてやりたかった。静香が部屋に来て数時間、自分の理性を保ち切ったことだ。彼女は鍵をかけたはずだしもう安心だ。颯真が人の皮を脱ぎ捨て獣の本性を露わにしたとして、もうどうにもできない。
まず少し酔ったようなとろんとした声で会いたい等と電話をかけてこられた段階で既に危なかった。彼女の手を無理矢理引いて部屋に引き入れた瞬間も触りたくてどうしようもなかったが、悩んでいる様子の彼女の話を聞くことを最優先するべきだと判断し、グッと自らを抑え込んだ。
静香が同期に告白され、断ったのに食い下がられた挙句抱きつかれたと聞かされた時は、名前も顔も知らないその同期に対し嫉妬の感情が沸き上がるのが分かった。颯真が知らない入社してからの静香の姿を知っており、普段も見ている。それだけでも颯真の独占欲が刺激されるのだ。静香が実際モテているのではという疑念は前からあったが、その勘は外れていなかった。数年前から思いを寄せていたのに全く意識もされず、ぽっと出の颯真に駆っ攫われたその同期にほんの少し同情した。…抱きついた点は絶対許すつもりはないけど、本気でクレームの一つでも入れてやりたい。
「上書きしたい」という欲求が沸々と沸き上がるのを感じたが、抑え込んでその場は事なきを得た。と思ったが、その忍耐力が保ったのも一瞬の事。他の男が抱きついた痕跡を消し去りたくて少し強引にキスをして、痛いぐらいに抱きしめる。すぐ(数分)に辞められてよかった、あのまま続けていたら舌をいれて、もっと先の行為をしていたかもしれない。その欲求を誤魔化すために抱き締める力が強くなってしまった。
同期への恨み言や自分への自信のなさを吐露した颯真に、心変わりはしないと彼女は断言してくれた。静香は冷たいどころか心配する程心が広い。でなければ風邪を引いた颯真にスポーツドリンクを届けたり、料理を作ってくれるわけがない。恐らく自分はあの時明確に彼女に墜ちてしまったのだと思う。我ながら単純な人間だと呆れるが、それが事実なのだから仕方ない、と開き直った。颯真は静香のことを冷たい人間だと思ったことも、これから先思うこともないと断言出来た。
やはり静香は自分が新條に窘められた度を越えた独占欲を露わにしても引くことはなかった。このまま行くと、誇張ではなく本当にいつか静香をまた傷つけるのではかという不安に襲われる。しかし、それすらも彼女は受け入れてくれるのではという安心感が、自分をドンドン駄目にしていく気がした。それでも構わなかったけれど。本当にそうなれば彼女は自分を絶対に見捨てないだろうな、という仄暗い感情が胸を満たす。もうずっと彼女を腕の中に閉じ込めたい、他の男の視線に晒したくない…が、静香の意思に反することも出来ないししたくない。自分の気持ちが度を越しているとはいえ、彼女も自分の事を想ってくれていると分かっている。だからこのどす黒い執着心が溢れることもない、という妙な安心感がある。
それが引き金になったのか、胸の奥深くにしまい込んだはずの忘れたい記憶の一端を漏らしてしまった。彼女なら聞いてくれるはずだという確信めいた予感があったとはいえ、言いたくなかった。自分が家族から愛されなかった人間だと知られたくない、愛情に飢えているから偶々関わった自分に執着しているだけでは、という疑念すら抱かせたくなかった。そんなことはない、自分は静香だから好きになったんだと声を大にして伝えたかった。
そんなちっぽけなプライドは静香の前ではペラペラの紙同然で。あんなに人に話すことを躊躇っていたのに。…静香は自分が突っかえながらも話進める間、ずっと手を握っていてくれたので心強かった。昔の自分は1人だったけど、今は隣に彼女がいるという安心感はほんの少し、自分を強くする。
…それでも途中で気分が悪くなり口元を抑えた時に手早く準備して、さあどうぞと言わんばかりの静香の顔を見た途端色々なものが引っ込んだ。頼もしいにも程がある。
話終わった後で、こんな話聞きたくなかっただろうと後悔し頻りに謝る自分を大声で遮った静香に驚いた。何より驚いたのか彼女の目が完全に据わっていたことだ。…彼女は櫻井の家族に怒っていた、それもかなり。音信不通だった颯真が帰って来た時も彼女は怒ってはいたが、あの時とは比べ物にならない。それだけの激情を彼女から感じた。
颯真は当時怒ることも泣くこともせず、諦め淡々と全て受け入れた自分の代わりに静香が怒ってくれたことに対して、どうしようもない程の嬉しさと愛しさが胸の奥から生まれて来た。…その後の興信所所長の叔父に連絡を取り、弱みを握ってじわじわと苦しめようと淡々と告げた彼女に背筋が寒くなるのを感じ、熱に浮かされた頭が意図せずスッキリしてしまったが。冗談でも何でもなく、弱みがなければ親戚にもみ消しを頼んででも直接殴りに行くと言い切った静香に颯真は苦笑するしかなかった。最初の時はクールだと思ったがとんでもない、本人の言うとおりその他大勢への関心は薄いのだろう。その分、気を許した相手にはこんなにも寄り添ってくれる。その中の1人が自分だという事実に颯真の心はじんわりと温かくなった。
(というかやっぱり静香っていいところのお嬢様っぽいよな)
以前家族のことやお手伝いさんのことを聞かされた時は、自分が彼女のことを知りたがっていると悟られたくなくて素っ気ない態度を取ってしまったけど、本当は気になっていた。思えば最初からどこか浮世離れした雰囲気を纏ってはいた、かと思えば料理が普通に出来て、住んでいる部屋もセキュリティがしっかりしてはいるが家賃はそれほどでもないマンションだったりと知れば知るほど、もっと知りたいと言う欲が生まれる不思議な子。
ただ1つ言えることは颯真のような男が手折っていいような存在ではないこと。これも彼女に言えば笑い飛ばされそうだが。その辺の男が簡単に触れて良いはずがない、凛として咲く花。まず隙を見つけるのが難しいから、触れる以前に親しくなるのも難しいだろうが。自分勝手な欲望のままに手折ってしまったことを死ぬほど後悔し、二度と触れることも叶わないと思っていたのに何の奇跡か「花」は自分の元に…正確には壁何枚か隔てた部屋で寝息を立てている。遅くなりそうなら元々泊まって行くように勧めるつもりであった、当然疚しい気持ちは一ミリもない。
…正直に言ってしまえば、最初の記憶を上書きするように優しく抱きたいという欲がないわけではない。というか滅茶苦茶ある、颯真も立派な成人男性なので。
しかし、今はまだ駄目だ。今の、良い所が碌にない自分が静香に触れる資格はない。未だに自分の愚かな行為が許せないし、何よりも怖がられ嫌われたらと考えると、どうしても一歩が踏み出せない…等と心の中では殊勝なことを宣っているが、この忍耐もいつまで続くか。多分そんなに持たないと自分でも分かっているから、一応期限を決めた。3か月後に予定されている覆面サイン会。顔を出さないとはいえ、今まで「やる必要がない」と突っぱねていた自分が紆余曲折あって承諾した初めての人前に立つ仕事。今までの颯真ならば、絶対受けなかった。やり遂げて、とは言っても自分が出来ることと言えばファンの前で間違えずにサインをし、噛まずに挨拶をする練習くらいだが。静香たち編集者や書店の店員に比べたら、出来ることなんて微々たるもの。確か定員100名らしいので、整理券が全部裁けるよう祈ることは出来るか。
サイン会をやり遂げたからといって何か変わるわけではない。それでも自分の中ではほんの少しでも成長できる気がした。少しでも成長出来た櫻井颯真になれたら、静香にまた触れていいか聞こうと考えていた。テストでいい結果を残せたらゲームを買ってもらおう、と言う子供と何ら大差のないが颯真にとっては重要だった。それまでは鋼の精神力で自らを抑え込む予定で。彼女は自分のようにそういうことにあまり興味がないと思っていたので、数カ月程度彼女に悟らせないことは可能だと、高を括っていた。
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