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第二部
15話…S
しおりを挟むその瞬間、颯真の心の辺りから、ぽきっという音が聞こえた気がした。颯真はリビングにいる兄達に気づかれないように静かに自室に戻る。自室に入りドアを閉めたその瞬間、目の前がぐちゃぐちゃになり、そのまま意識が遠のき床に倒れ込んだ。
夢を見た、両親が出てくる、悪夢。自分に冷たい目を向け、兄にしか関心を抱かない両親、居ないものとして扱う祖父母、親戚、落ちこぼれと馬鹿にする学校の人間。これ自体は時々精神が不安定な時に見ていた。が、この悪夢に今日は兄が出て来た。侮蔑に満ちた顔で颯真を見下ろしている。
「嫌いに決まってるだろ。というかあんな馬鹿と血が繋がっていることが恥」
「しっかし大事な弟って言っただけでコロッと信じるんだから本当馬鹿だわアイツ」
兄の言葉がフラッシュバックした。夢の中の颯真は聞きたくない、と叫び耳を塞ぐが夢の中でそんなことをしても無意味。兄が自分のことを話す時の侮蔑に近い響きが鮮明に蘇る。
「あの日」以前も兄は優しかったし、それ以降は一緒に遊んでくれたりもしたし、勉強も教えてくれた。嬉しかった、が、兄からすれば自分の評価を上げるための手段でしかなかったし、内心ずっと疎まれていたのだ。
今まで自分が信じていたものは全部噓っぱちだった、では自分はこれから何を信じればいいのか。親も周囲も信じられない、一番信用していた兄は自分を嫌っていた。
…颯真の心は悲鳴を上げて砕ける。呆然としたまま、一つの考えに辿り着いた。
…信じて裏切られ、こんなに傷つくなら初めから誰の事も信用しなければいいのだ。そうすればこんなに絶望することもなかったのに。
もう、何にも期待しなければいいんだ、と。
目が覚めた颯真は変わっていた。兄は勿論、家政婦も拒絶し部屋に引きこもり学校にも行かなくなった。友人からも心配するメールや電話が届いていたが、煩わしいので連絡先を変えた。最初は放置していた両親だが引きこもりの息子何て世間体が悪かったのだろう、「金は出すから家から出て行ってくれ」と。母親からは「どこまで自分達の足を引っ張れば気が済むのか」とヒステリックに叫ばれた。兄の願い通り両親は嬉々として颯真を追い出しにかかる。颯真はそれを受け入れ、家から離れた高校を受験した。落ちこぼれと言われていても名門校に通っていたのだ。難なく受かり、その直後に櫻井家から引っ越した。
兄は何度か颯真にコンタクトを取ろうとしたが全て無視した。聡い兄のことだ、リビングでの会話を聞いていたと気づいたのだろう。この期に及んで颯真は期待していた「あれはその場の冗談だ」「颯真の事を嫌っているわけがない」という言葉をかけてくれることを。冷静に考えれば、冗談とはいえ弟をこき下ろす兄なんて不信感しか抱けないのだが、それすらも当時の颯真は考えが至っていなかった。
結果、兄は弁明も何もすることなく颯真と距離を置いた。もう取り繕うことすら面倒になったということかもしれない。「価値」が無くなったから見捨てたのだ。兄が颯真を影でこき下ろしていたと両親に訴えたところで「構ってくれる兄に何てことを言うんだ」と叱責されて終わる。兄の事だ、それも織り込み済みの可能性すらある。もしかしたら復讐したかったのかもしれない、自分が家に雁字搦めにされる元凶の弟が、縋っていた兄から嫌われていたと知り絶望し、周囲を拒絶している様を見て影で嘲笑う。最高の復讐でありストレス発散方法だ。しかし、兄の真意を問いただす気力すら、もう残っていなかった。
それから颯真は本当の意味で一人になった。
段々と颯真は「今の櫻井颯真」になっていった。高校入学を期に見た目に気を遣うようになったら女子のみならず男子も構うようになる。兄という絶対的な存在がいない環境に身を置くと、自分は異性の注目を集める容姿をしていることに気づく。
しかし颯真は自分と関わり合いになろうとする人間を拒絶する。そうすれば段々と周囲から人は消えていく。が、女子からは「慣れ合わないところが良い」等と良く分からない理由で人気は上がる。告白も何もかも面倒で全て断っていたが、中にはしつこい奴もいた。
何度も好きだと言われ、満更でもなかったが付き合うなんて心底面倒だった。そんなことを言ってもどうせ兄のように自分を裏切るに違いない、と。だから提案した「ヤるだけなら良い、自分は絶対好きにはならないがそれでもいいか」と。何人かは離れていくが、もの好きは残る。
結果として「している」時だけは、誰かに必要とされている気がして、一時的に心が満たされることに気づく。我ながら最低だと自覚していたが、それからは「後腐れのない」相手を探すようになりそれは10年近く続いた。
大学に入ってすぐ、小説の賞を取りデビューすることになり見た目が怖そうな男の担当が付いた。だが、見た目に反し穏やかでそれでいて小説については厳しかった。ハリネズミのように周囲を拒絶していた颯真の内面に、無理矢理踏み込まずそれでいて颯真の作品を称賛する。颯真が「清水学」である限り居心地の良い相手ではあった。授賞式で声をかけて来た新條孝人も、適当にあしらったのに何故か構ってきていい迷惑だったが、周囲の誰も助けてはくれない。兄に似ていて嫌いだったのに、いつのまにか部屋にまで入り浸るようになる。本当に面倒な男だった。
初代担当が颯真のデビュー作の完結を見届けて他社に転職すると聞いたとき、自分が担当に殊の外気を許していたことに気づいた。だからこそ、「ああ、やっぱり自分は見捨てられるんだ」と拗らせていた颯真は、今まで以上に人を信用しなくなる。
それ以降の担当には「自分から離れていかないか」と試すような行動を繰り返すようになる。当然の結果だが短期間で降りる担当もいたし、割り切って仕事をする担当もいた。何故こんな幼稚な行為が見逃されていたのかといえば「清水学」が会社に利益をもたらす卵だったから。才能が枯渇したら、売れなくなったら即切られてもおかしく無い。そんな危うい真似を颯真は辞められなかった。
両親からは全く連絡はなかった。金を払えば親の務めを果たしたと思っている人達だったので学費と生活費は出してくれていたが、高校は公立に進んだし大学も返済不要の奨学金を貰って進学した。人嫌いだったがバイトもした、まあ長続きはしなかったが。そんな両親も大学卒業する年になると就職先についてしつこく連絡を取るようになった。「お前に期待はしていないが、家を継ぐ颯の足手纏いにならないように、せめて恥ずかしくないところに就職しろ」とプレッシャーをかける。
デビューして数年で人気作家と言われるだけの地位を得ていたし、細々とやっていた投資でそこそこ貯えはあった。だから最初から就活はしなかったし、そのことを父親に電話で伝えた。そうしたら
「そうか、ならお前はたった今から私の息子ではない。二度と連絡を取ることはないだろう、全く最後まで手を煩わせて」
淡々とした声で告げると、電話は切れた。父親は勘当する時ですら声を荒げることはなかったことに虚しさを感じる自分に驚いた。思い返しても父親に怒られたことはあれど、怒鳴られたことはなかった気がする。要するに父親にとって颯真は「怒鳴るだけの労力を使うに値しない」存在だったのだろう。
その日、颯真からは家族もいなくなり本当に一人になった。
暫く経ち初代担当並みに長続きした長井が産休に入り、静香に出会うことになる。
これが櫻井颯真の面白くもない今までの人生だ。
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