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第二部
12話
しおりを挟む「バッサリ切り捨ててるね」
「下手に曖昧な態度を取る方が残酷だと思いましたので」
櫻井は「そっか」と短く応えただけだった。静香が決めたこと、したことに対して口を挟むつもりはないのだろう。これで静香の目的は済んでしまった。時間的に終電まではまだまだ余裕はあるし、恋人とはいえ夜遅くに長居するのも迷惑だと。そう分かっては居るのだが…まだ帰りたくない、というのが本音だった。しかし、そうは言っても素直に言い出すのは難しい、一緒に居たいという気持ちよりもまだ恥ずかしさの方が勝る。それに「まだ居たい」と言い出すことで「そういうこと」を期待していると受け取られるのにも抵抗があった。実際ほんの少し期待している自分が浅ましい。
何となく櫻井の顔を見れなくて俯き、膝の上で置かれた両手に視線を落としていると視界に、別の物が入って来た。櫻井の手だ、そのまま静香の右手に自らの手を重ね合わせぎゅ、と握る。突然のことに驚き顔を上げた静香は固まった。櫻井の端正な顔が間近に迫っている。普段の静香なら咄嗟に押しのけたかもしれない、しかし体が動かない。櫻井の静香を見る目が切なげに伏せられており、長い睫毛が顔に影を落とす。何故櫻井がそんな顔をするのかという疑問は、櫻井の唇が静香の唇に触れた瞬間どこかに消えた。
(っ…!)
見開いた静香の目に映るのは目を閉じた櫻井の顔。初めての時は目を閉じていたし二回目の時はいっぱいいっぱいでそれどころじゃなかった。キスしている時の櫻井はこんな感じなのか、と新鮮な気持ちだった。それは本当に触れるだけの優しいもので、初めての時もそれ以降の時にされたキスの荒々しさも深さもなかった。
決して強引ではなかったが触れるだけのキスは少しだけ深くなる。何度か角度を変え静香の唇を食む。まるで美味しいものを味わうかのような動きに体温が上がる。しかし、我に返った櫻井が「っ」と息を漏らすと慌てて唇を離す。離れていく唇に名残惜しさを感じている静香に、櫻井は顔を背けたまま「ごめん」と一言漏らす。彼には許可を取る前に抱きしめた時もこうして謝られた。日下部に同じことをされても何とも思わなかったのに、櫻井にされると嬉しいと感じてしまうのだから、残酷なまでに単純な人間だ。
キスの余韻が残り身体の奥に燻ぶる熱を誤魔化しながら口を開こうとしたら、突然抱きしめられた。ぎゅう、という擬音が聞こえてきそうな程強い力で。丁度胸に顔を押し付けられている形になっているので、櫻井の使うシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。キスにこれに、いきなりどうしたのだろう。まあ悪い気はしないので気が済みまでしてくれて構わなかったが、そうもいかなくなってきた。
(ちょっと苦しい…)
そう、目の前の男、手加減と言うものを知らない。当然加減はしているのは分かるのだが、それでも苦しいのだ。少しでも力を緩めたら自分が逃げ出すと疑っているのか?と勘繰りたくなる程静香を掻き抱く力は強い。力を緩めて欲しいという意味を込めて背中を叩くと、自分と櫻井の間に隙間が出来る。さっきより楽になった。
「急にどうしたんですか」
顔を上げようとしたらグイ、と胸に顔を押し付けられる。これでは櫻井の顔を見ることが出来ない。いや、もしかしたら見られたくない、という方が正しいのかもしれない。その証拠に自分を抱きしめる腕は微かに震えている、あの時と同じ。櫻井が自分の耳元に口を近づけてきた、熱い吐息が耳にかかり背中がゾクリとする。そんな反応をみて櫻井が満足しているのが、顔が見えないのに分かる。
「…例の同期、知らないといえ人の彼女にベタベタと本当不愉快」
耳元で仄暗く低い声で囁かれる。どうやら日下部に対する憤りは収まっていないらしい。さっきのキスも今のこの逃がさないと言わんばかりの体制も嫉妬によるものだと理解した。あの時も喫茶店で新條で話していたことが原因だし、想像以上に櫻井は嫉妬深い。最も話していただけで襲われたあの時と違い、今回は抱き締められたことに対してキスとこれ。少し対応がマシになってはいる。
「…本当に何もされてない?」
「何もありませんよ、心配症ですね」
「心配するよ…前からモテるんだろうなって思ってたし。俺より良い奴もたくさんいる。いつか他に好きな奴が出来たって言われるんじゃないかって気が気じゃない」
付き合って日が浅いのに心変わりの心配をされると複雑だ。前々から何となく察してはいたが櫻井は自分に自信がなさすぎる。大抵のものが備わっているのにこうも自己肯定感が低いのも珍しい。
「私モテませんし、心変わりもしません」
現実は物語の通りにはいかないので、櫻井の懸念の通り心変わりする可能性もないとは言い切れない。が、今静香が好きなのは櫻井だ。それが噓偽りのない本心。それを伝えても櫻井の声は暗いままだ。
「…やっぱり静香って心が広いというか優しすぎる」
「…初めて言われました、自分では割と冷たい方だと思ってたんですが」
優しいのはそうしたい相手にだけだ、一度その枠から外れた人間に対しては「表面上」は卒なく付き合うが、それだけ。そこから先には何も生まれない。呑気な静香にすかさず反論する。
「自分を襲った相手を許して付き合うって冷たい人間には無理、普通は切り捨てる」
そう言われると、そんな気がしてきた。どうにも釈然としない部分はあるが。
「…君が俺の面倒なところも醜いところも引かずに受け入れてくれるから、また傷つけるんじゃないかって不安になるんだよ、だって」
一度言葉を切り、櫻井は意を決したように大きく深呼吸をした。そして。
「…誰からも愛されたことがないから、人の愛し方が分からない…」
苦し気に絞り出すような声で、櫻井は恐らく初めて自らの傷の一部をさらけ出した。静香は言葉をかけるべきか悩む。が、ここは彼の言葉に耳を傾けた方が良いと咄嗟に判断し開きかけた口を閉じる。
「…他の人から聞いているかもしれないし薄々察していると思うけど、俺家族と折り合いが悪いというかほぼ絶縁状態で…俺が人嫌いになったのも家族が原因」
静香はコクリと頷いた。他の人からも家族について触れるとあからさまに様子がおかしくなると聞いていたし、家族の話が彼の口から出たことはない。だから驚きはしなかったが、絶縁状態とは知らなかったので息を呑んだ。
「…もし嫌じゃなければ…俺の話聞いてくれないか…もし嫌なら言って、というかいつまでもごめん、すぐ離れるから」
弱々しい声で懇願にも似た響きが含まれている、と思ったら慌てて静香から身体を離そうとする。散々好き勝手に抱き締めたのに今更離れようとするなんて。そんなことを言われて離れられるわけないだろう、と逆に静香の方から抱き締めた。え、と困惑した声が聞こえたが無視である。
「嫌じゃないです、颯真さんが話したいというのなら話して欲しいですが…大丈夫ですか」
話したいというのならいくらでも話を聞く。それくらいしか出来ないから。しかし、あることを懸念していた。あれほど口にするのも嫌がっていた家族について話そうというのだ。櫻井の心理的負担は計り知れない。詳しくはないがトラウマを呼び起こされ身体に不調が表れることもあると聞く。そこが心配だった。
「…そろそろ俺も吹っ切れたいと思ってたんだ。けど誰かに話す勇気はなかった…けど静香には聞いて欲しい、自分の事を知って欲しいって思った」
我ながら単純だと櫻井は小さく笑う。そこまで自分に対し心を砕いてくれているという事実に素直に嬉しくなった。「…取り敢えずこのままだと話聞けないです」と小声で訴えると名残惜しそうにゆっくりと抱擁を解いた。ついさっき慌てて離れようとしていた人とは思えない。
改めてソファーに座り直した櫻井はポツリ、ポツリとゆっくりと語り出した。静香は櫻井が不安になっても大丈夫なように手を握った。
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