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第二部
10話
しおりを挟む(来てしまった…どうしよう)
いざ最寄り駅へたどり着いた静香は少し後悔していた。そりゃそうだ、今は夜の22時を回る頃、こんな時間に自宅を訊ねるなんて非常識極まりない、対やらないことである。しかし、気がついたらここ行きの電車に乗っていた。道中引き返すことも出来たのに、それすらやらなかった。無意識下の行動だと悟り自分が怖くなった。改札を出て、券売機の近くの壁に寄りかかる形で静香は何をするでもなく、ただ佇んでいた。
(やっぱり駄目、帰ろう)
やはり訊ねることは出来ないと、来たばかりなのに引き返そうと一歩踏み出す。が、また立ち止まる。俯きアスファルトの地面をじっと見つめ、唇を噛む。帰ることが正しい、と理解しているのだ。しかし、足が動いてくれない。どうしよう、と頭を悩ませると妥協案が1つ浮かんだ。
(…電話するくらい大丈夫…かな)
会いに行くのは駄目でも電話なら日付が変わっていなければ、ギリギリいける、はずだ。気づかぬうちに酔いが回り正常な判断力を欠いていた静香はスマホを取り出し、電話帳のさ行の一番上、櫻井颯真をタップした。画面が呼び出し中になり耳にスマホを当てる。3回程コール音が響いた後「もしもし」と聞きなれた声が聞こえてくる。鼓膜を通じ櫻井の声が全身に響き渡った瞬間、肩の力が抜けた気がした。自覚はなかったが店を出てから体は強張っていたのだろう。それが櫻井の声を聞いただけでこれとは、やはり自分は単純な人間なのだと笑った。何も言わない静香を心配した櫻井が「…静香、どうした?何か騒がしいけど、もしかして外?」と優しい声で訊ねてくる。その反応も当然だろう、櫻井からしたら家に着いた静香はメールで連絡すると思っていたはず。それが電話でしかも外から。何かあったと思われても不思議ではない。
「…えーと、今店出たばかりなんですけど何か声聞きたくなってしまって、急にごめんなさい。これから帰るんで一旦切りますね」
嘘である、声が聴きたくなった云々以外は。流石に自宅最寄り駅にいますとは言えない、言ったら確実に来てしまうだろう。それは申し訳ないし、直接顔を見たら今日あったことを吐き出してしまいそうだった。勿論告白されたことは正直に伝えるつもりだったが…抱きつかれたこと、それで嫌悪感を抱いたことは言いたくなかった。心配をかけたくないという理由が一番だが…櫻井には静香は冷淡な人間だということは知られたくなかった。多分、櫻井は静香の事を優しいだとか心が広い奴とでも思っているのだろう、周囲の人間からもそう評されることがある。だからこそ本当の自分を知られたくなかった。知られて、離れていかれることはどうしても嫌だったから。
さっさと通話を切ろうとした静香は「待って」という櫻井の真剣な声で動けなくなった。ふわっとしたトーンなのに有無を言わせぬ圧を感じる。スマホを握る手に自然と力がこもる。
「何かあった?」
「…何もないですよ」
「…静香って割と嘘下手だよね、面と向かってると見破るの難しいけど声だけだと分かりやすい」
「…」
「気づいていないんだろうけど、めちゃくちゃ声沈んでるから、それで何もないは無理があるよ…今店出たばかり?じゃあ駅近くのカフェとかで待ってて、今から行くから」
「え…いや、時間遅いですしいいですいいです!」
予想した通りの行動を櫻井が取ろうしており、慌てて力強く拒否してしまった。…静香は今櫻井の自宅最寄り駅にいるのだ、向かったところで静香には会えない。それ以前に駅に来られたら鉢合わせしてしまう。ここは食い下がってでも櫻井が来ることを阻止するか…正直に言うか。一番丸く収まるのは前者で、難易度が高いのも前者だ。どうしようと言葉が出てこず、黙ってしまった静香に櫻井は話しかけてくる。
「…俺やっぱり頼りにならない?」
「っ…」
急に悲しげな声で問われるものだから胸が痛む。
「まあ俺は客観的に見ても頼りになる要素ゼロだし、俺に頼るくらいなら静香は自力で解決するよね。…これ言ったら怒るかもしれないけどさ、電話に出て静香の暗い声聞いた瞬間、何かあって俺に電話してくれたのかなって喜んだんだ。…やっぱり俺頼られる要素ゼロだ。だけど、こんなんでも君の彼氏だから。頼って欲しいし、今からそっちに向かおうとするくらい静香のこと心配で仕方ないんだ」
「…」
静香は頭をガツンと殴られた気分だった。自分の中では櫻井に甘えているつもりだったし、来ることを拒否したのも余計な心配をかけたくない一心で。けれど、無意識のうちにどこかでセーブをかけていたのかもしれない、彼氏であろうと甘えすぎるのは良くない、と。静香は物心付いてすぐに弟が生まれ、両親がそっちにかかりきりになってしまったことから素直に両親に甘えた記憶があまりない。その分お手伝いさんには甘えていたはずだが、相手は他人、心の底から甘えることは出来なかった。更に静香は大抵のことは自力でどうにか出来てしまったから、「素直に甘える方法」が良く分からないままここまで来てしまった。
今まではそれで支障はなかったが、ここに来てそのツケが回って来た。心配をかけたくないという体で櫻井の厚意を拒絶し、悲しませている。もし自分が櫻井の立場だったとしたら…悲しいし心が痛む。自分がやられて嫌な事、悲しい事は人にやってはいけませんという小学校の先生の言葉を今、思い出した。
「…ごめんなさい、私人に素直に甘える方法が良く分からなくて。けど、颯真さんを頼りにしていないわけじゃないです…飲み会で色々ありまして、それで抜けてきてそのまま帰ろうとしたんですけど、気が付いたら颯真さんの自宅最寄り駅に居まして」
スマホから「え!」という櫻井の驚いた声が聞こえる。まさか静香がここに居るとは思わなかったのだろう。もしくは飲み会で色々の部分に反応したか。
「非常識だとは分かっていますけど、か、顔が見たくなって。けどいざ駅に着いたら恥ずかしくて怖気づいちゃって。電話なら行けるかな、と思って電話をかけた、次第です」
恥ずかしくて声が上擦ったし、締め方も仕事中みたいになった。静香は思っていることを包み隠さず伝えることは苦ではなかったはずだ、しかし今は無性に恥ずかしい。
静香が羞恥で何も言えずにいる時、スマホの向こう側からも何も聞こえてこない。暫くすると何かに耐えているような声が聞こえて来た。
「…それ無意識?」
「え」
主語がないため何に対してか分からず、聞き返す。スマホからは「いや…」と言い淀む声。
「…好きな子から色々あって不安になった時に自分の顔が見たくなったとか、駅まで来たけど土壇場で恥ずかしくなって、電話に切り替えたとか正直に聞かされるとさ」
一度言葉を切り、ゴクリと唾を飲む音が聞こえる。
「…こっちも会いたくてたまらなくなるんだけど」
甘ったるい掠れた声は電話越しなのに、耳元で囁かれていると錯覚するほど響いた。人目がなければ何をしていたか分からない、それほど静香の神経は櫻井の声一つでグラグラと揺さぶられていた。
「…少し待っててすぐ行くから」
「いえ、駅からすぐですし大丈夫ですよ」
やんわり迎えを断っても櫻井は食い下がる。
「もう遅いし、夜道を1人で歩くのは危ないだろ、良いから待ってて」
そう言い残すと通話が切れる。心配してくれるのはありがたいが少々心配症ではないだろうか。帰る時はメールをしてくれと言ってきたことといい、過保護なきらいがあると薄っすら気づいてた。悪い気はしないので特に何も言うつもりはなかった。
それから10分経たないうちに駅に櫻井が到着した。
「あ、いたいた」
櫻井は走って近づいてきた。余程急いできたのか息が乱れているし、うっすらと額に汗が見える。パーカーに黒いTシャツ、ジーパンというラフな格好だが、やはり元が良いためか様になっていた。シャワーを浴びていたのか癖のある黒髪はしっとりとしており、それが色気を醸し出していた。実際静香もドキリとしてしまったし、チラチラと櫻井を見ている女性の姿も見られた。静香は複雑な気持ちになったが、会えたことに対する喜びが勝り口角が上がる。
「ごめんなさい、わざわざ」
「いいよ、俺も会いたかったから」
軽く頭を下げると櫻井は笑いながら、こっちが照れることをサラッと言ってしまう。それが妙に悔しい。すると櫻井は急に静香の手を握った、更に照れる結果となる。
「っ!!」
「あ、やっぱり冷えてる、春とはいえまだ寒いし。早く行こう、風邪ひく」
言い終わると静香の返事も聞かずにグイグイと引っ張っていく。握る力は強いが不思議と痛くはない。…そうだ、櫻井は最初の頃から我儘で不器用だけど、不器用なりに気を遣える人だっだ。初秋に待ちぼうけを食らわせた静香の身を案じ、無理矢理喫茶店に連れ込んだのも今となっては懐かしい。
途中注目されるのが恥ずかしく「手、離してください」と訴えたが聞き入れられることはなかった。
ずっと手が繋がれたまま歩いているといつの間にか櫻井のマンションに辿り着いていた。流石に着いたら離してくれるかと淡い希望を抱いていたが、結局部屋に入るまで手は繋がれたまま。正直なところ人目もなかったので、繋がれたままでも良かったというのは恥ずかしいので言うつもりはなかった。
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