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第二部
5話
しおりを挟む居酒屋を出た時間は20時を少し過ぎた頃だったが、「送って行くよ」と申し出てくれたのでお言葉に甘えることにした。自宅マンションに着いたとき、「上がります?お茶煎れますよ」と静香が言った瞬間の櫻井の狼狽えっぷりは今でも思い出す。ここで確信した、櫻井は「友人」はそれなりに居たのだろうが、「恋愛」は静香と同じくらい初心者なのだと。静香は別に疚しい気持ちで部屋に迎え入れたわけではない、酒を飲んで喉が渇いていると思ったことと、わざわざ反対方向の自宅まで送ってくれたことへのお礼のつもりだった。…念入りに部屋を掃除していた事について、下心がなかったのかと聞かれたら口ごもるしかなくなるが。
「…せっかく誘ってくれたのに申し訳ないけど、今日は帰るよ。じゃあまた」
申し訳なさそうに告げると櫻井はさっと背を向け、立ち去って行った。静香も軽い気持ちで呼び止めたので引き留めることもせず、そのまま部屋に入った。
始まりがあんなだったとは思えない程健全なデートはこうして終わった。それ以降櫻井とは仕事で直接会っていない。作家と担当編集が直接顔を合わせる機会は本来少ない。要件の殆どは電話やメールで事足りることが多いのだ。今までは試す目的で必要以上に静香とコンタクトを取っていたのだろう。締め切り破りの常習犯なら定期的に訪ねる必要があるだろうが、櫻井にその心配はないに等しい。会えていない、と言っても付き合ってからは週一で会っていたしメール電話もしているので寂しいと言う感覚はなかった。
そうして迎えた飲み会だが、事前に櫻井からは「家に着いたらメールで教えてください、あまり遅いと心配なので」と相変わらず畏まった文章で送られてきた。彼氏というより父親では、という疑問が湧いてくる程過保護だ。それを言ったら不機嫌になるのが分かるので言うつもりもないけれど。
「おー悠人やっと来た、早く来いよ」
少しばかり櫻井のことを考えていた静香の意識はその声で引き戻される。店の入り口に目を向けると、1人の若い男が引き戸を開けて店に入ってきたところで、同期の1人が手招きで呼んでいる。遅れていた同期、日下部だった。
「おせーよお前」
「仕方ないだろ、担当作家の原稿の進みが怪しいんだから」
そう言いながら靴を脱いで座敷に上がった日下部に朱音が声を掛ける。
「日下部、ここ空いてるよ静香の隣」
「え」
他に空いている席はあるのになんでわざわざ自分の隣を、と思わなくもなかったが特に気にすることもなかった。呼ばれた日下部は何も言わずに静香の隣に腰を下ろす。
「日下部くんお疲れ」
「おー雨宮、お疲れ」
「相変わらず忙しそうだね少年誌」
「まあな、毎日毎日打ち合わせ、描けないって弱気になる作家を激励したり。やっと校了したと思ったらまた次の原稿に単行本作業。いつ休んでるか分からないけど、何だかんだ楽しいからな」
その顔は晴れ晴れとしていた。他の同期と同じだ、大変大変と言いながら充実した日々を送っている。
「月刊ブレードの新連載、読んだよ。話も面白いし絵も綺麗だった、あの新人漫画家日下部くんが見つけて来たって聞いたよ」
「あー、たまたまWEBで作品見かけてな。この人売れるって直感してコンタクト取ったんだけど、当たりだったな、かなり評判良いし」
そう語る日下部はかなり嬉しそうだった、自分が見つけだした新人がダイヤの原石になり得る素質を持つ可能性が高いのだから無理もない。基本うちの漫画編集は実力主義だ、結果を残せば年齢関係なく上から評価される足掛かりになる。日下部は同期一の出世頭になりつつあった。気分も良いのか話しながらジョッキのビールの量がかなりのハイペースで減っている。
その後男子と仕事以外の話でも更に盛り上がったのか飲むスピードがどんどん上がり「悠斗ペース早いぞ」と窘められると「あー、ちょっと酔い覚ましてくるわ」と店の外に出ていった。店に来てから1時間程しか経っていない。それから20分経っても戻ってこない日下部を心配した誰かが「誰か悠人の様子見てきてくれねぇ?」と言い出した。
「静香、ちょっと様子見てきてあげてくれない?」
何故か白羽の矢が立ったのは、チビチビカクテルを飲んで料理ばかり食べていた静香だった。
「え、何で私」
日下部のことが気にならないわけではなかったが、何故自分が、という疑問の方が先に来ていた。確かに日下部とはよく話す方だが、もっと仲のいい奴は他にいる。日下部だって呼びに来るのなら静香より男子の方がいいのでは、と思ったのだ。
「この中で一番酔ってないの静香じゃん、だから日下部がもし具合悪くなってたら静香がスムーズに対応できるかなって」
成程、と静香は一応納得した。量を飲めない静香はこのメンバーの中では一番正常な思考力が残っていると言ってもいい。朱音の言う通り日下部が飲み過ぎで気分が悪くなっていたとしても、担ぐなり何なりして店に戻るのも容易だろう。日下部を静香が支えられるかは別だが。
(確かにハイペースで飲んでたしね)
仕方ないか、と静香は腰を上げた。
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