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第一部
32話
しおりを挟む「…仕事以外の時は下の名前で呼んで欲しい」
「…」
とんでもなく深刻な声色で告げられた内容に静香は呆気に取られる。そんな簡単なことをを頼む時の声のトーンではないだろう、と。
「…仕事以外と言いますとプライベートの時という意味で?」
「うん、先生って呼ばれるとずっと仕事している感覚が続くから、切り替えのスイッチみたいな感じで」
成程。確かに呼び方で仕事かプライベートかを分ける方が遥かに切り替えが楽だ。昔読んだ社長と秘書がメインの恋愛物もプライベートでは下の名前で呼びあっていたと記憶している。同じ職場で働いている者同士の場合でも呼び方は分けるだろうし、それと同じ…。
「…一つ質問なのですが」
「何?」
「私たちは『お付き合い』しているんでしょうか」
「っ」
背後で息を吞む気配、そして更に強まる腕の力。あ、余計なことを言ったか、と後悔するがもう遅い、一度口から出た言葉は取り消せない。
「…俺はそういうつもりだったけど、あ、やっぱり担当作家となんて色々面倒だって思った?そもそも俺みたいな陰気で面倒な奴と付き合うとか…」
震えた声で繰り出される言葉の数々、後半はブツブツと何を言っているか聞き取りにくい。ついさっきまでの傲慢不遜な「清水学」は一瞬で消え去り、今自分の背後に居るのは静香の一挙一動で喜んだり…不安定になる「櫻井颯真」だった。
(まずい、不安にさせてしまった、ただの確認で聞いただけなのに)
しかし、現在進行形で不安にさせてしまっているのは事実。早くフォローしなければ、と口を開く。
「…互いに好きとは言いましたけど、明確に付き合うと確認し合ったわけではないので。一応聞いてみただけで先生」
腕の力が強まる。顔が見えないため、腕の力で判断しろと言うことか。しかし静香を抱きしめる腕が震えているので、今どんな表情をしているか予想が出来る。恐らく捨てられた子犬の顔をしているのだろう。
「…颯真さんとお付き合いするのが嫌ということは絶対ありません。不安にさせることを聞いてしまい、もうし…ごめんなさい。私でよければ、これからよろしくお願いします」
「…」
腕の震えが止んだので、どうやら安心はしてくれたようだが、何も言ってこない。そのまま数十秒過ぎる。
「あの、大丈夫です」
耐えきれなくなり顔を確認するために振り返ろうとしたが
「っ!」
「!!」
出来なかった。櫻井が静香の視界を右手で塞いだからだ。突然視界が覆われ流石の静香も慌てる。
「え、ちょっ」
「…ごめん、今俺の顏見ないで、滅茶苦茶締まりのない顔してるから」
目元に押し付けられた櫻井の手は酷く熱い。声も動揺を隠し切れておらず上擦っている。見えなくても颯真がどんな顔…真っ赤になっているのは伝わる。はーっと大きく櫻井は息を吐く。
「…こういうの男から言った方がいいんだろけど、先越されちゃったな…俺の方からもお願いします、付き合ってください。さっき『私でよければ』って言ってたけど、俺はあま…静香じゃないと嫌だから」
『静香』。今までにも男性から下の名前で呼ばれたことはある。けれど、その中の誰よりも…櫻井から呼ばれた『静香』が一番耳なじみが良い。初めて呼ばれたはずなのに、ストンとしっくり嵌まる感じで。
「…」
「…顔赤くなってる、静香も照れてる?」
「…私だけ顔が見れないの不公平ですよ」
不満を口にすると、颯真はハハハと笑い腕の拘束を解いてくれた。結局相手の顔を見れないまま部屋を後にした。
ドアを閉めると、静香はドアにもたれかかり両手で顔を覆う。
「心臓に悪い…」
以前と態度が別人レベルで違う。普段の態度が自分が傷つかないための鎧だとすれば、静香の前で見せる顔は本来の、全部脱ぎ捨てた素の状態なのだろうか。本当はずっと誰かと触れ合いたかったのかもしれない、誰かに自分を受け入れて欲しかったのかもしれない。…それが出来ないままここまで来てしまった。今はその反動が来ているのでは。
しかし、そうだとしても今の櫻井は砂糖に蜂蜜を追加したレベルで甘い。静香の恋愛偏差値がゼロに近いから殊更そう感じるのかもしれないけれど。「付き合う」ことになったからにはこれに慣れていかないといけないが、静香ばかり恥ずかしがるのは不公平である。
(…!)
ここで真面目な静香は根本的な「あること」に気づいてしまった。
(編集と作家って付き合っていいの?)
「単純に疑問なのですか、担当編集と作家がお付き合いすることは許されるのでしょうか」
「…」
編集部に戻った静香は自分のデスクにカバンを置くと、書類と睨めっこしてる編集長の元へ行き、単刀直入に切り出した。編集長は呆気に取られている。気になったことはすぐ調べないと気が済まない性質だったので、丁度良くデスクに居た編集長に突進したのだ。
「え、何どうした?雨宮の口から付き合うとかいう単語が出るの意外過ぎるんだけど」
「そうですか」
「だって他の奴にそういう話題振られても関心なさげだし、それに…」
「それに?」
編集長は言葉を切った。時々静香に話しかけている月刊ブレード所属の日下部が、明らかに静香に気があるのに全く気付いていないからだ。流石に若き社員の恋心を暴露するわけにもいかず口ごもるしかなかった。しかし、色恋に興味がない奴が急にこういうことを言いだす時は大抵相場が決まっているのである。
「…ちょっと場所移そうか」
プライベートな話題だと察した編集長は休憩室へと移動した。
「ここなら人居ないか…さっきの質問についてだけど別に作家と担当が付き合っても問題はないわ。実際結婚までしてる人たちもいるし。…まあ仕事にかこつけて色々やらかして周囲に迷惑かけた場合は担当外して部署異動とかはあるけどね。仕事に支障がでなければ良い、というのは暗黙の了解。作家なんてどいつもこいつも癖が強い生き物だから、それで上手いこと扱えるんなら寧ろ歓迎って感じかしら…で、雨宮がわざわざ聞いて来たってことはそういうことでしょ。雨宮が担当しているのは青崎樹、清水学、野々宮渚、宇津木葵…関東に住んでて直接会う機会があるのが数人、年齢と性別的に…え」
自分が辿り着いた答えに納得出来ないのかギョッとした顔でこちらを見る。
「…まさか…あの中身中学生の問題児…」
「…」
酷い言われようだが、あながち間違っていないのが困る。黙っているのを肯定と受け取った編集長は口に手を当てて信じられないものを見る目を向ける。
「…え、本当?あのハリネズミ並みに警戒心強い先生をどうやって落としたの?」
「どうと言われましても、自分でも良く分かってないんです」
一応告白された時に好きになったきっかけのようなものは聞かされたが、好かれたくてやったわけではなくただ自分の言ったことを撤回したくない一心でやっていたことだ。だからイマイチ実感が湧かない。
編集長は興味津々という様子で前のめりに聞いてくる。
「けど、雨宮も同じ気持ちだからOKしたんでしょ」
「…まあそうですね」
目を伏せ、恥じらいながら答える静香は間違いなく恋する人間のそれであった。静香は真面目で責任感が強いので、絆されたにしろちゃんと惚れているようで驚いた。だって清水学は外見こそモデル並みだが、中身は最近の高校生が大人に見えるほど子供っぽい。中身を知った上で好きになれるなんて、それこそ太平洋並みの心の広さがないと無理だと思っていたのだが。
「そうかー。まあ清水先生新條先生と違って顔出ししてないし、もしバレても問題にはならないでしょ。あなたは現を抜かすということもないでしょうしね。というか寧ろ上手いこと手綱握ってくれって感じ」
「それはちょっと、すぐには無理ですよ」
それは時間をかければ出来るということか、と聞き返したくなったが堪えた。…静香が勢いや気の迷いではなくちゃんと将来的なことを考えて、清水学と向き合おうとしていることが伝わった。紛れもなく本気なのだろう。入社試験で静香を見た時、上手いこと取り繕ってはいるがどこかに違和感を抱いていた。うちの編集部に所属して数年、見守ってきたが、静香は誰とでも卒なく交流できるし、衝突することもほぼない。それは裏を返せば誰にもそこまで関心がないのと同義である。それが悪いとは言わないけど…今の時代1人の社員に肩入れするのも、1人の作家に肩入れするのも問題が生じる。
丁度初代担当の次に長く清水を担当していた長井が産休に入ることもあり、静香を新しく担当に付けた。人を嫌い信じることが出来ないがそれでも自分を信じ、受け入れてくれる存在を欲す者、表面上は誰とでも問題なく交流できるが、それ以上は踏み込まず踏み込ませない根本的に他人に関心が薄い者。ぱっと見相性が悪そうだが、何が起こるか分からないのが人間だ。実際上手いこといったようなので、自分もまだ捨てたものではない、と内心ほくそ笑んだ。
急に黙りにやつく編集長を静香は怪訝そうな顔で見る。
「編集長、どうかしましたか」
「え、あー何でもない。…雨宮、これからも期待してるよ、新刊の原稿、そして例のサイン会。今まで頑なにメディアに出なかった清水学の初のサイン会、色々注目されてるから」
わざとプレッシャーのかかることを言っても静香は平然としていた。
「そんなこと言われると緊張してきます」
「いや、心臓に毛が生えているのに何言ってるの」
「酷い言われようですね、私も緊張しますよ」
「またまた、面接の時…」
それから暫く休憩室で昔の話に花を咲かせたのであった。
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