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第一部
20話
しおりを挟む櫻井から返信がこないことに気づいたのは新條と会ってから2週間後のこと。新刊のプロットの進捗と原稿の進捗についてメールで訊ねたところ、音沙汰がなかったのだ。普段なら遅くとも2日以内に短い内容でも返信していたのに、この時は1週間経っても返信がなかった。プライベートが忙しいのかとも思ったが、担当に突っかかる以外は存外まともな櫻井がメールの返信を怠る可能性が低いことも分かっていた。これは何かあったのでは、と一抹の不安が頭を過ぎった。
暫し悩んだ末、櫻井のスマホに電話をかけた。コール音が鳴った後聞こえて来たのは「お掛けになった電話は電波の届かないところに…」という機械音声。櫻井本人の所在は不明ながら少なくともスマホは電波の届かない場所にあるか、電源が入ってない場所にあるということ。これが未成年相手なら家出だ誘拐だと騒がれただろうが、相手はとっくに成人している男性。おまけに彼は何の前触れもなく音信不通になった前科がある。確信はなくとも薄っすらと「そうなんだろう」という予感はしていた。
それでも「心配」という二文字が胸の中を占めつつあった。静香も話を聞いていたなら歴代担当のように慌てはしても「ああ、またか」と諦観に近い気持ちを抱いていただろう。しかし、それは難しかった。風邪を引いた際看病のような真似をした礼をしたいと言った櫻井が「どっか行く際は一言連絡を入れる」と約束してくれたから。だから突発的に何処かに行きたくなってもメールで一言伝えておいてくれると思っていたのだが。
そもそも馬鹿正直に櫻井が約束を守ると信用していた静香にも非がないとは言えない。口先だけで初めから頼みを聞く気がなかったと言われてしまえばそれまで。櫻井のことを見誤ったとも言える。だとしても、口先だけとはいえ「必ず」と言ったのだから面倒でもメールくらい送れ、と仄かな怒りの感情が胸の中を渦巻き始めた。急に連絡を断てば大なり小なり静香が心配すると予想出来たにも拘わらず、あっさりと約束を反故にした櫻井に。
ここで感情的になってはいけない、自分に言い聞かせた静香は丁度自分の席に着いていた編集長の元へと向かう。櫻井のスマホが繋がらない、メールの返信も1週間ないと伝えると「あー」と呆れた声を発す。
「それいつもの悪癖ね、また失踪したのねあの先生」
櫻井を長く見て来た編集長もそう判断するのだから、やはり彼が約束を破ったのは紛れもない事実なのだと理解した。
「まあ原稿やプロットだけは途中途中で送って来るから、心配しなくても大丈夫よ。気が済んだら猫みたいにひょっこり返って来るから」
静香の表情が思いの外険しかったのだろう、落ち着かせるように肩を撫でてくれた。そのおかげで少しばかり荒くれだっていた心が穏やかに変わりつつあった。
「そうですね、ところで編集長、出来るだけ早く数日程休みを取りたいんですが」
「?仕事の調整出来るんなら1週間くらい休んでもいけると思うけど、旅行でも行くの?」
「旅行…ある意味そうですね、あの人に心配ばかりかける作家先生を探し出して一言文句言ってやろうかと」
「ん?」
「編集長、清水先生の行き先に心当たりありませんか、流石にしらみつぶしに探すのは現実的ではないので」
「え、うん、世間話のついでにホテルや旅館の名前聞き出したけど、そんなに知らないわ、新條先生の方が詳しい…待って、聞き出した場所に行くつもりじゃないわよね」
「?そうですけど」
編集長はポカンと口を開けたままこめかみに手を当て天を仰ぐ。大きく息を吐くと、打って変わって真剣な表情を静香に向けた。
「落ち着きなさい」
「落ち着いてますよ」
「そんな据わった目をしてても説得力ゼロよ、怒るくらい先生のこと心配しているのは伝わるけど」
「心配してません」
「あーはいはい。仮に私や他の人から聞き出したホテルや旅館に行ったとして先生が泊まっている何て教えてくれないわよ、絶対」
「…」
「…まあ見つかるか否かに関わらず気が済むまで探して、満足するのなら止めはしないわ。言っておくけど社会人として節度を持った…聞いてる?」
編集長の話を聞き流していた静香はスマホを操作し新條と連絡を取るために担当の糸島にメールを打っていた。同時に前担当の長井にも櫻井の行先に心当たりはないかとメールを送ろうと思っている。あと、数日休めるように仕事の前倒しもしないといけない。表面上は落ち着いた態度を崩していなくとも、内心いつになく冷静さを欠いていた静香を編集長は見抜いていた。こういう普段冷静で落ち着き払っているタイプがなりふり構わず行動する時、高確率でやらかすのだ。自分が冷静でない、という自覚がないからだ。
しかし、静香は存外頑固なので辞めるように言ったところで表面上は受け入れた体を装い、「迷惑をかけていないのだから、休みに何をしようと介入される謂れはない」と目的を達成してしまうだろう。やはりこのまま好きにやらせるのはどうにも気がかりだ。静香の行動を見張る、とまでは行かずとも暴走しないようにやんわりと窘めてくれる相手がいた方が…。と、ここで損するくらいお人よしな人気作家の顔が脳裏に浮かぶ。
スマホを手にしたまま自分の机に戻った静香を見送ると、編集長は自分のスマホを操作し問題児の事を熟知している人物に連絡を取った。
********************
休みを取れたのは4日後、相変わらず櫻井とは連絡が取れない。スマホの電源を切っているのだ。長井や新條、編集長等櫻井と関わりのある人々から聞き出したところ、彼は箱根によく旅行に行っているらしい。次いで話題に出ることが多いのは京都らしいが数日で心当たりのある場所を回るのは不可能だ。
よって探す場所を箱根のホテル旅館に限定することにした。正直見つかるなんて思っていない、ただ単に行動を起こさないと気が済まないだけ。自己満足だ、だから残業して仕事を前倒しにし、作家にも数日程メールの返信が遅れると伝えておいた。少なくとも迷惑をかけない準備をしてきた、そのはずだったのだが。
新宿駅の南改札、動きやすい格好の静香の横にはラフでシンプルな装いの新條が。背中にはリュックを背負っていた。なぜこんな状況になったと言うと…。
4日前、糸島経由で新條と連絡を取れた時のことだ。編集長から静香の様子を見ていて欲しいと頼まれたこと、原稿もひと段落して余裕があるので櫻井を探す道中付き合うと申し出られた。当然丁重にお断りしたが新條は引き下がらない。どちらも一歩も自分の主張を変えない平行線が続いていた時、新條が本音を漏らした。
「正直に言うと編集長に頼まれたから行くわけじゃないよ、そんなにお人よしじゃないし。まあ何というかアイツに一言文句言ってやりたいから、雨宮さんと同じ理由」
成程、そういう理由かと納得した。逆に編集長に頼まれたという理由だけでついて来ようとしたらどうしようかと思った。ちゃんと目的が合って安心したのも束の間、真剣な声音でこう切り出す。
「これ颯真には言わないで欲しいんだけど、雨宮さんアイツの家族のことどれくらい知ってる?」
「詳しくは知りません…折り合いが悪いというのは察してますが」
「そうか、俺もそれくらいしか知らない。けどアイツが周りを拒絶して誰も信用しようとしないことと無関係じゃないんだろうなと思っている」
それについては同意だった。人を信用しない、出来ない人は往々にして人間関係…家族や友人に関することで心に傷を負ってることが多いと。櫻井が家族についての話題を殊更避けている様子を見れば、察することは出来る。だからと言ってこちらとしては何も出来ない。それは友人の新條とて変わらないようだ。
「何も出来ないけど、最初から誰のことも信じようとしない、周りを威嚇して遠ざけてばかりのアイツのこと放っておけなくて。だから邪険にされても関わりに行ってだけど…こんな真似したって知られればウザがられるだろな」
苦笑いを零す新條に静香は声をかける。
「そうなったとしても先生は気にせず構い続けるんですよね」
櫻井もまんざらではない態度を取る姿も予想出来た。新條は今まで積み重ねた年月があるから彼の方も完全に拒絶はしないだろうが。問題は静香だ。
「先生より私の方が危ないですよ、絶対嫌そうな顔されます」
静香は遠い目をして考えた。櫻井の性格上、自分の行先を探し回る真似をした静香を鬱陶しいと感じる可能性は高い。行先を告げる約束を向こうが先に破ったと言え、心配せずともひょっこり帰って来ると分かっているのだから気にせず放って置けば良かったのだ。確率は低くとも道中櫻井と会えた場合、わざわざ探しに来た静香を嫌そうな顔で見る姿が頭に浮かぶ。静香も自分の行動がおおよそ常識から外れてる自覚はあった。分かっているのならやらなければ良い、という話なのだが。それが出来たら苦労はしていない。
表情が翳った静香に新條は今さっきとは打って変わり笑顔できっぱりと告げる。
「いや絶対ない、断言する。寧ろ喜…何でもない」
不自然に言葉を切った新條を静香は怪訝そうな目で見つめる。何故か櫻井の話題になると言い淀むことが多いことに気づいていた。
「どうしてそう言い切れ」
「あ、そろそろ時間だ、行った方が良いよ」
静香の言葉を遮り改札へと進む新條の背中を慌てて追いかける。左手に付けた腕時計を確認すると発車まで10分を切っていた。ギリギリに行くと何が起きるか分からないので、余裕を持って行動するに越した越したことはないけれど。結局新條が言おうとしていたことに関しては有耶無耶なってしまった。静香も気にはなったが、詳しく聞くというのも気が引けてしまい、触れることはなかった。
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