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第一部
19話
しおりを挟む「…だよね、結局自分で決めないといけないんだよな。もう半年も悩んでいる」
思ったより苦悩期間が長かった。新條は静香の心の中を読んだかのように苦笑した。
「優柔不断にも程があるよね」
「いえ、こういうことは焦って決めるべきことではないと思います」
本心を見破られたという些細な焦りが表に出ることもなく普段通りに返すと新條は「まあ近いうちに糸島さんに返事しておくつもり」と話を纏めにかかる。新條がどうするつもりか、もし後悔しない選択をした場合編集部のことだ、ドラマ化の話題が冷めやらぬうちに大々的に宣伝するだろう。「日常の謎」でも一捻りも二捻りもありトリックとそこに至るまでの理由を書いている新條の本格ミステリーは是非読んでみたい。
話がひと段落付いたと見て、静香は疑問に思ったことを訊ねた。
「質問なのですが、担当でもない、数回話しただけの私に何故話したのですか」
「ん?…あーそうか、うん、それね」
話し上手な新條が急に口ごもる。どう説明すべきか言いあぐねているようだ。
「…俺が言ったって他言無用で頼みたいんだけど」
「大丈夫です、口は堅いので」
目を真っ直ぐ見ると新條はホッとしたように息をつく。
「とある男が自分の担当編集が俺の事を完璧な人間みたいなニュアンスで褒めたのが気に食わない、だから弱点の一つでも晒せと睨んできてね。なので自分の弱みを話したわけで」
「…」
「…うわ物凄く複雑な顔してる」
「…申し訳ありません、うちの担当作家が」
「いや雨宮さんの担当作家じゃ」
「そんなこと言う人1人しか知りません」
強い口調で断言すると「ですよねー」と誤魔化すのを諦めこめかみを指で抑えた。静香も同じ行為をしたくなった。新條と話しているのだから櫻井の話題が出ることは予想できたが、この話の出方は予想外。何やってるんだ、あの人。そしてその理不尽な要望を正直に聞いて、櫻井へのコンプレックスとミステリー執筆への葛藤を静香に打ち明けた新條も良く分からない。新條自身に何の得もないのに、お人よしという言葉では片づけられない。
「そんな頼み事正直に受ける必要はないと思いますが」
「うーん、俺もそう思ってたんだけどアイツ見てると弟の小さい時思い出して、断りづらいというか」
弟の小さい時。それは遠回しに櫻井の精神年齢が幼いと言っているに等しい。間違いではないが。どうなのかと一言二言モノ申したい気持ちはあったが、2人の間で既に終わっていることを蒸し返すのも気が引けた。少々櫻井に対し甘すぎるきらいがあるが、何でもかんでもいうことを聞くわけでもあるまい。デビュー以来の付き合いなら櫻井の性格を熟知しているはずだし、どこまでやっていいかの線引きはきちんとしていると思いたい。
「お2人の間の事に口を挟むつもりはありません。…それよりも清水先生の真意が分かりません」
当たり障りのない言葉で新條を評した時も不機嫌になっていた。あの時は言わなかったが、静香が誰の事を褒めようが櫻井には一切関係がないと内心思っていたのだ。口に出したら櫻井が臍を曲げる予感がしたから黙っていただけ。あの事を引き摺りこんなことを頼んだと知った今、言わなくて正解だったとホッとしている。心底分からないという口ぶりの静香に新條が生暖かい笑みを向けて来た。
「…ごめんね、アイツ精神年齢中学生で止まってるから、ってこれも言い訳だけど」
「編集長も同じこと言ってました、共通認識何ですね」
「中学生相手にするの仕事とはいえ大変じゃない?」
「大変と言えば大変ですが、この先仕事をしていく上で支障はないです」
「…思ったよりもずっと上手くやっているみたいで安心した」
「先生、清水先生の友人と言うよりお兄さんみたいですね」
すると新條は何とも言えない複雑な表情を浮かべた。
「実の弟ですら手がかかったのに、それ以上に手のかかる弟は遠慮する。今の関係性で丁度いいんだよ」
その言葉は自分にも当てはまると思った。櫻井と静香は今の適切な距離感を保てている今の関係が一番良い。この前はその均衡が危うい真似をしでかしたが、気の迷いだと忘れることに決めた。櫻井も触れてこないしお互い、何事もなかったかのように振舞うのが適切だ。そんなことを考えていると徐に新條が窓の外に視線を向けた。
「どうかしましたか?」
「いや、何か視線を感じて」
急に怖いことを言いだした。釣られて静香も窓の外を見たが。こちらの様子何て知ったことではないと素通りする通行人ばかりで、意味深な視線を向けている人間は見つけられない。もっとも隠れもせずそんな真似をする奴は居ない。居るとしたら、こちらに自分の存在をアピールして恐怖心を植え付けたい場合だ。こそこそ隠れる奴より何十倍も危険と言えるが。
「先生のファンでしょうか?」
「本当一瞬だったから分からない」
「じゃあ週刊誌の記者?」
「俺に付きまとう暇あるのなら他に行くでしょ」
「それもそうですね」
正直に答えてしまうと「ハッキリ言われると複雑だ」と渋い顔になる。初めて見る顔で、新條の素を垣間見た気がした。殆ど関りがなく、いつもにこやかなイメージが先行していた新條もそんな顔をするのだと、気づいたらクスリと笑っていた。それを見た新條が驚いたように言った。
「雨宮さん笑うとそんな感じなんだ」
「…仲が良いと口にする言葉も似るんですね、清水先生も似たようなことおっしゃってましたよ」
新條は口に手を当てバツが悪そうな顔で「ごめん」と謝られた。静香が気分を害したと思ったらしい。怒っていないと伝えると、口から手を離し息をついた。
「物凄く失礼なこと言ったから、てっきり」
「このくらいで怒りませんよ。そう言われる程普段笑わないのも事実なので」
しかし、こうも立て続けに笑った顔が珍しいというニュアンスのことを言われると、流石に不安になってくる。面と向かって指摘されたことはないが、相手もこちらに気を遣って何も言わないだけで内心「この人愛想がない、感じが悪い」と思われていたのかもしれない。
「表情筋を鍛えるべきでしょうか、先生のように朗らかな方が相手に与える印象も良いですよね」
すると新條は「いやいや」と首を振った。
「俺みたいに普段からヘラヘラ笑っているのもふざけてるのか、って見られるから。雨宮さんみたいに落ち着いている方が良いと思うよ」
「そういうものですか」
「そうそう、今まで愛想よくしろって言われたことないなら無理に変える必要もないんじゃない?」
「…確かに、昔鏡の前で笑う練習した時全力疾走した時並みに疲れましたし」
おおよそ子供の頃から稼働率の低かった表情筋は凝り固まっていたのだ。クールだと評されることが多かった静香はやはり「自分には愛想がない」とのだと思い込み、それならばと鏡の前で自然ににこやかに笑う練習に勤しんでいた時期があった。結果はお察しである。新條の言うと通り指摘されたことは記憶にある限りないので、その場しのぎの笑顔を張り付けるくらいは出来ているのかもしれない。他の人に面と向かって聞くのも気が進まないので確かめるつもりはないが。今のままで支障はないのなら無理に変える必要もないのかも、と静香は考えを改め始めている。
「わざわざ練習したの」
新條は感心したように呟いた。そこに馬鹿にする響きは含まれていない。
「はい、慣れないことはするものじゃないですね。暫く鏡で自分の顔見るのも嫌になりました」
「嫌になるってどれだけ練習したんだ」
笑いを堪えようとしたものの無理だったらしくククッ、と顔を伏せて笑う。表情豊かな人だ、見ていてほんわかとした気持ちになる。丁度いいタイミングで頼んだ料理が運ばれてきたので、この話題はここで終わった。食べている最中は互いの頼んだものの感想を少し言い合うくらいで、それ程会話は無く食べ終わった後はあっさりと別れた。
その頃には新條の感じた視線についてはすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
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