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第一部
13話
しおりを挟む2月の上旬。今日は櫻井との打ち合わせの予定だったが急に延期になった。体調を崩し熱もあるため、打ち合わせは難しいと連絡が来たのだ。原稿の事は今は置いておいてゆっくり休んでください、と返信しておいた。メッセージに既読は付くが返信はない。返信をする余裕がないほど体調が悪いのかもしれない。
静香は就職するまで実家暮らしで、風邪を引いたこともあまりないが一人暮らしの時に体調を崩し、熱まで出ると何もする気が起きず食事の準備もままならないと友人から聞いた。櫻井は果たして大丈夫なのだろうか。
(何で先生の事こんなに心配してるんだろう)
今までも体調を崩し打ち合わせを延期したり締め切りギリギリになった作家、逆に原稿を終えた途端に高熱を出した作家も居た。当然人並みに心配はしたし早く回復するように祈りもした。一人暮らしで頼る相手も買い物に行く気力もないと嘆く作家に対しては、食べやすい物を袋に入れてドアノブに引っかけたこともあった。だが、明らかに他の作家に対するそれとは違う気がする。
いつものことながらあれ以来櫻井との連絡は専ら電話メールだ。別に顔を合わせたからと言って気まずい、というわけではない。静香の中であのことは「気にしない、ただの気まぐれ」ということでこれ以上気にしないことに決めた。だから何の支障もないはずだったのだが…延期になって心のどこかでホッとしている時点で気にしているに等しい。それは熱があるという櫻井のことを必要以上に心配している現状からも明らか。
しかし、櫻井だっていい年をした大人だ。本当に1人ではどうにもならなくなったら誰かを頼るだろうし、普段料理をすると言っていたから食べるものくらいあるはず。
(体調が悪いからって素直に周りに頼るかなあの人…)
そもそも頼れる相手がいるかも危うい。恐らく家族とは疎遠らしいし、友人も知る限り新條しか知らない。当然他にも知り合いはいるかもしれないが、だからといって弱っているところを見せるのかというと微妙だ。新條を友達じゃないと言い張る変な意地っ張りを発揮しているし、新條には連絡しなさそう。新條の連絡先は知らないから確認のしようがないし、「担当作家が体調不良だと連絡が来たのだが、聞いていないか」と訊ねたところで困惑させるだけ。勝手に櫻井の体調不良をばらすのも気が引けるのだ。
(…悩んでても時間の無駄か)
少し考えた末、社交辞令かつ今までもやって来たことだと自分を納得させ「もし体調がかなり悪いようでしたら、仕事帰りに何か届けましょうか」とメッセージを送る。本当に体調が悪いのにこちらに遠慮して断る可能性も視野に入れ「他の先生にもしたことがある」と言外に櫻井を特別視しているわけではないということも伝えた。既読が付いて暫くは返事がこなかったが、やがて「申し訳ないけど頼む」と返って来た。文字を打てるだけの元気はあるのか、と少し安心した。これもただの仕事相手に対するものなのか、という疑問には蓋をする。
仕事帰り、櫻井の家に行く途中にあるスーパーに寄り、スポーツドリンクやゼリー、ネットで調べた「体調が悪い時におすすめのもの」を取りあえず一通りカゴに放り込む。櫻井の好みを良く知っているわけではないので、嫌いな人は居ないだろうというフルーツゼリーを選ぶ。要らないと突き返されたら持って帰ればいい、と思いながら。
マンションのエントランスに入り、インターホンで櫻井を呼び出す。するとスマホが鳴ったので確認すると「勝手に入って来ていいよ」とメッセージが。文字を打つ気力はあっても玄関まで行くのは難しいようだ、急に心配になる。開いた自動ドアを通り、部屋のある階まで小走りで向かう。
部屋の前まで辿り着くと、ドアノブにビニール袋を引っかけ「今部屋の前に着きました。色々買ったのでよろしければお使いください」とメッセージを送る。すぐに既読は付くがやはり返信はない。だが、体調が悪い時に担当編集の顔を見たら嫌でも原稿の事を思い出させてしまうかもしれない。休みたくても休めなくなる。櫻井の体調を悪化させないためにも早く去った方が得策だ。踵を返し、マンションのエントランスへ向かおうとしたとき。ドン、と何かが倒れたような音が聞こえた。気のせいだろうか。いや、確かに聞こえた、重い物がどさりと倒れ込んだ時に出る鈍い音が。
(もしかして)
一瞬嫌な予感が頭を過ぎる。咄嗟にドアの前まで戻りノックしようとして、辞めた。ここはただのマンションではない。高級マンションだ。泥沼な理由なんて皆無だがドアを叩く若い女なんて悪目立ちする。近所付き合いをしているか定かではない櫻井に「ドアを叩く怪しい女がつきまとっている」という不名誉な噂が立ってしまう。高貴な雰囲気漂うマンションに相応しくないし、絶対に避けないといけない。
大きい音を出すより効果的で周囲に迷惑が掛からない方法を選んだ。スマホをカバンから取り出し、電話をかける。耳に当て何度目かの呼び出し音の後「…はい」と生気の感じられない低い声が聞こえてくる。今日初めて彼の声を聞いたが思った以上に苦しそうだ。これはさっきの音も…。
「先生、雨宮です。今先生の部屋から変な音が聞こえた気がするんですが。もしかして転んだりしてませんか」
電話越しに櫻井の息を呑んだ気配を感じた。上擦った声で「転んでない」と返って来た。嘘だ、直ぐに分かった。つまり転んだのか、足がもつれるか何かして。これは相当に悪いようだ。こんな時まで意地を張る必要があるのか、と呆れてしまう。
さて、櫻井の今の状態も知ってしまったし、「ではお大事に」と電話を切って回れ右をして帰るのも気が引ける。というかこのまま帰って後日、悪化して入院した等と事後報告されると寝覚めが悪い。だが、「何か手伝えることは」と申し出たところで「必要ない」とけんもほろろに断られるのは明白。一番悪いパターンは「下心があるのでは」と疑われ、今後の仕事に支障をきたすことだ。下心が一切ないか、という問いに迷いなく否と答えられるかというと、正直微妙だ。しかし、相手が弱っているところに付け込んでどうこうしようなどということは一切考えていない。ただただ、体調が悪化するのが心配なだけだ。
(あ、良いこと思いついた)
我ながら名案が頭に浮かんだ静香は、それを口にする。
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