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第一部
11話
しおりを挟む19時少し過ぎ、編集部を出た静香は朱音からメールが入っていること気づく。「ごめん、15分くらい遅れるから駅前で待ってて」と。今日行く予定のイタリア料理の店は駅近くにあるので、そこで朱音と合流すればすぐに店に行ける。「了解、急がなくていいよ」と返信し、静香は駅へと向かった。
今日は木曜日だというのに妙に駅は混雑していた。自分と同じように誰かと待ち合わせしている人の姿もチラホラ。そういう人たちに紛れるように静香も改札口から少し離れたところで立ち止まる。やけに言いたいことが溜まっている様子の朱音のことを思い出した。
(朱音、書店員の事もだけど仕事も大変なんだろうな)
書店営業は体力も必要で中々ハードだと聞く。大変でない仕事はないと思うが、社交的な朱音ですら慣れるまではヒーヒー言っていた。社交的ではない静香は配属されていたらと思うと、少しばかり憂鬱な気持ちになった。それでも人は慣れる生き物なのでどうにかなっていたと思うけど。
(配属したての頃は仕事覚えるのにとにかく必死だったな)
憧れの出版社、文芸編集部に配属されて喜んだのも束の間。先輩にくっ付いて作家に挨拶をしに行き、暫くは先輩にサポートされながら作家を担当していた。自分よりも年も何もかも上の作家にアドバイスやら直した方が良い箇所を指摘するというのは、慣れればそうでもないが遠慮が先行してしまい思うようにできない。受け身のままでは編集に限らずどんな仕事でも先に進むことが出来ないと頭では分かっていた。だから当時は食らいつく勢いで、仕事に没頭していた。毎週ネコカフェに通っていたのもこの辺だ。
暫く経つと1人で作家を担当させられるようになり、徐々にペーぺーながらもそこそこ使えるくらいにレベルアップし今に至る。勉強することも多いが、一般企業ではまず関わることのない人と仕事が出来るというのはやはり魅力的だ。新條孝人は兎も角一切メディアに出ない清水学はまずこの業界に居ないと同じ空気も吸えない人間で…。
(…)
清水学こと櫻井のことを不意に思い出してしまった。変な雰囲気に流されかけ、何かと何かがくっつきそうになった担当作家。あれ以来直接会っておらず専らメールでのやり取りのみ。一応礼儀として昨年の最終出勤日にお世話になったというメールと、年明け初の出勤日に今年もよろしくお願いします、というメールは送った。これは櫻井だけでなく担当作家全員に送っている。返信メールも義務的なもので、向こうもあの時の事を蒸し返す気がないというのが何となく伝わった。
あれから、あの日の自分の不可解な行動についてふとした時に考えてみたのだが、考えれば考えるほど分からなくなった。そもそも一々気にするなんて大雑把な自分らしくない。そうだと理解しているのに、何かの拍子に眼前にあった櫻井の顔が脳裏に蘇る。そしてすぐに消え失せる、ただそれだけ。仮にこれで何かしら邪な感情を抱いていれば、ドキドキするだとか胸が苦しい等と言う一度病院で検査してもらえと言いたくなる変化が自分の身体に訪れるだろうが、そういうのは一切ない。だからその線はなしと早々に結論付けた。
(何も分からないということが分かっただけ)
結局何だったのか、自分の中で噛み砕けない釈然としない思いを抱えつつも、暇つぶしにスマホを取り出して操作していると。
「君1人?」
顔を伏せスマホを弄っている自分の正面から男物の靴が見え、声をかけられた。声からすると若い男の様で、静香が何の反応も示さないと別の男が「暇ならこれから飲みに行かない?」と続く。視界に映る靴の数が2足に増える。2人組らしい。今静香は人生でも数えるほどしか遭遇したことのないナンパに合っていた。
喧騒に包まれている駅前だというのに男達の声が大きいせいで良く聞こえる。ペラペラと喋り続ける口から吐き出される息は酒臭い。明日も平日で19時を少し過ぎたばかりだというのに既に酔いが回っている様子だ。何かいいことでもあって盛り上がったか逆に嫌なことあって忘れるために飲んだのか、と酒臭さが分かるくらい接近している酔っ払いのことを勝手に推測した。
ああ、酔いが回って正常な思考力を保っているとは言えないから静香に声をかけたのか、と妙に納得した。自分は地味で特徴のない顔立ちで愛想もない。声をかけたくなるような可愛らしさや美しさを持ち合わせていない。
(あ、どっかの記事で彼氏いそうな派手で綺麗な人は逆に狙われにくいって見たな)
そう考えると静香は複数人で押せば流されて頷いてくれるだろうと、チョロい女だと軽んじられていると…見ず知らずの人間に値踏みされるのは気分が悪いと目の前の男達に不快感を募らせる。それも相まって男達の存在が視界に入っていないかのようにスマホ画面を凝視する。こういう手合いは無視を決め込めばそのうち諦めどこかに行ってしまう。今までもそうだった。ナンパに失敗した男達が他の女性に声をかけ、その女性が迷惑を被る形になるのは胸が痛むが、知ったことではない。無関係の人間にまで気を遣っていたらキリがないのだ。
そろそろ諦めてくれるかと算段を付けていたが、予想に反して男達は立ち去る気配がない。スピーカーのように聞こえてくる声音には徐々に苛立ちが滲み出始める。聞こえているんでしょ、何で無視するんだ、とか色々。手慣れた奴らならさっさと次の獲物を物色しに場所を移動すると思うが、もしかしたら何度も失敗した上で静香に声をかけて意地になっているのか。だとしたら迷惑だ、知らない男のプライドを満たすためにこちらを巻き込むなと言ってやりたい。
はぁ、と口からため息が漏れたがそれが男達の何かを刺激した。無視している上にため息つくとか感じ悪い、可愛いと思って声かけたら外れだった、性格悪そう、と彼らの苛立ちは最高潮に達し口から繰り出されるのは静香に対する不満。勝手に声かけて勝手に失望されても困るのだが。耳障りな男達の怒りに満ちた文句を聞いているのも不愉快になって来たので、さっさとこの場を離れようかと思った時だった。
男達と静香の間に誰かが割り込んだ。目の前に現れた大きな背中。黒いコートを羽織っている。やっとここで顔を上げた静香は目の前の人間が見上げるほど背が高いことに気づいた。静香の知り合いの中でここまで背の高い人間は、思い当たる中で一人だけ。「彼」の家からこの駅は電車で10分ほどで着く。大きい書店やお気に入りのコーヒー豆を売っている店があるので良く来ると聞いてはいた。たまたま自分を見かける可能性もゼロではないけれど、かといってこのような状況に割って入る人ではない。そもそも見かけても無視しろと言っていたではないか。男達は急に割り込んできた誰かに慄き、気圧されたようにたじろぐ。背も高いし目つきも鋭いので圧もある、そうなっても仕方ない。が、次には不愉快だと言わんばかりに相手を睨みつけた。
「は?何あんた?」
「彼女の連れですが、何か」
一切の温度を感じない冷たい声に相手がビクついた。自分に向けられたわけではない、と分かっていても少し怖いなと思ってしまった。が、次には彼の口から出た言葉に疑問を抱かずにはいられない。
(連れ?え、何言ってるんだろう)
平静を装いながらも彼…櫻井の目的が分からず戸惑う。が、今ここで口を挟んだら良くないのは分かった。だから黙ったまま流れに身を任せる。怖がる素振りを見せていた男は虚勢を張り、チッと舌打ちしたあと、また睨みつけた。
「んだよ、男要るんならさっさと言えよ」
「無駄な時間使ったわ」
男達は文句を吐き捨て、この場を立ち去ろうとする。ヒートアップしたらどうしようかと思っていたが、人が多い駅前で騒ぎを起こすことのリスクの高さを、酔いのまわった頭でも理解出来たようだ。やっと何処かに行ってくれると安堵していると、何故か櫻井が「あの」と男達を呼び止める。何でそんな真似を、と静香は櫻井の背中に視線で訴えるが意味はない。呼び止められた男達は律義に立ち止まると「何だよ、しつこいな」と面倒そうに振り返った。
「ナンパに失敗したからって彼女に文句言うとか、みみっちいですね」
「は?」
「ちょっと聞こえましたよ、好き勝手言ってるの。知らない男から声かけられたら無視するのも感じ悪い態度になるのも当たりでしょ、それで相手に当たるとかちっさ」
小馬鹿にしたように吐き捨てると、喚き出した男達を無視し静香の右手を掴み歩き出してしまう。今にも殴りかからんばかりの勢いにヒヤッとしたが、櫻井の足が速くあっという間に男達の姿は見え無くなっていた。櫻井が来てから静香は一言も口を挟む暇がなかった。いつかのすっぽかしの時と同じく、離してくれと文句の1つでも言おうとしたが、咄嗟に言葉を飲み込んだ。言ったら繋いでる手も離してしまう、それは名残惜しい気がしたから。理由は分からない、けれど何となく自分より大きい骨ばった手の体温をもう少し感じていたくなった。
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