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第一部
プロローグ①
しおりを挟む「何やってんの、君」
ベンチに座っていた雨宮静香は不意に声をかけられ、顔を上げた。座っている状態でも分かる程背の高い男が不機嫌そうにこちらを見下ろしている。やや癖のある黒髪、切れ長で涼し気な目に鼻筋の通った端整な顔立ち。現に近くにいる女性たちがチラチラと目をやり、見惚れてしまう程の美形。静香も初めて顔を合わせた時、モデルと紹介されても信じてしまうなと漠然と思った程。彼の名前は「清水学」、本名櫻井颯真。静香が新しく担当することになった人気作家。そしてこの寒空の中静香が外で待ち続けている原因。華やかではないが目鼻立ちの整った美人と言って差し支えない顔立ちの静香は澄ました表情を崩さず、櫻井を見上げた。ハーフアップにした栗色のセミロングが風に吹かれ顔にかかる。
「あ、先生。お疲れ様です、メールも電話も出ないんで心配してました。着いたのなら連絡を」
「何で今もここで待ってるの、約束の時間から2時間以上過ぎてるよね。怒って帰るだろう普通」
何故か苛立った櫻井に責められ、静香は目を丸くする。確かに「原稿を直接チェックして欲しい、今用事があって出版社の近くに居る」と連絡が来て、櫻井から指定された17時はとっくに過ぎ現在19時。今は11月なので結構寒く、マフラー、手袋で完全防備している状態でも身体は冷えている。端的に言えば静香は目の前の男に約束をすっぽかされたのだ。こういうことをする人間だと聞いていたし、途中で気づいてもいた。メールなり電話なりで文句を伝えてさっさと帰ってることも出来た、多分同じことをされた他の編集はそうしたはず。
けど静香はうんともすんとも言わない自分のスマホと睨めっこするのを辞めて、ベンチでホットドリンクを飲みながら待っていた。馬鹿正直に。何故かと問われるとすぐに答えられない。
「…いや、先生自分が来るまで待ってろって言ってましたし、私も承諾してしまいましたから。自分の言ったことの責任は取らないと。連絡が付かないのに帰るのも気が引けて…まあ途中で来る気がないと気づいてましたけど、正直一割くらいは急病で連絡が付かない可能性も視野に入れてました」
敢えてとぼけてみせると、櫻井の眉間の皺が更に深まりハーッと大きくため息を吐かれた。呆れている、のは分かった。そして鋭い眼光で睨まれる。なまじ綺麗な顔の男が睨むと迫力があるが、静香が怯まない。どこまでものほほんとしている。
「君馬鹿だろ、春先ならまだしももう冬だぞ。わざとすっぽかした俺が言うことじゃないけど、自分の身体大事にしてくれ」
「は、はい、ごめんなさい…ん、これ怒るのはすっぽかされた私の方ですよね、何で先生が怒っているんですか?寧ろ馬鹿正直に待ってた私を笑いに来たのかと」
その瞬間彼の顔に嫌悪感が滲み出る。
「…俺の事どんだけクズだと…いや、否定できない…今までの担当、同じことすると皆メールでもう待てない、帰るって送ってたのに君はまだ待っているみたいなメッセージ残してたから。まさかと思って来てみればこれだよ」
「わざわざ様子を見に?何故ですか?」
聞き返すと彼は口元を引きつらせ、目線を逸らす。
「別に君の心配したわけじゃないから、風邪でも引かれてあの編集長にネチネチ文句言われるのが嫌だっただけ」
不貞腐れた口調で吐き捨てた様は、拗ねた子供を彷彿とさせる。2歳上の男性に抱く感想ではないが、ほんの少し可愛らしい、と思ってしまった。
「そうですか、わざわざありがとうございます。それで原稿…これが目的なら出来てませんよね、私帰ります。お疲れ様でした」
ベンチから立ち上がり、会釈をしてその場を去ろうとした静香の腕を何故か掴む。掴まれた腕を凝視した後、目線を上に移動させる。さっきより眉間の皺は薄くなったが、まだ納得していない様子の櫻井と目が合う。
「あの、何か?」
「何帰ろうとしてるの」
「はい?いや用事終わったのなら帰るでしょう?」
「…ちょっと付き合って」
言い終わるや否や静香の腕をグイグイと引っ張り、どこかへ連れていこうとする。
「はい?何ですか急に、離してください」
「駄目、文句なら後で聞くから。黙って付いてきて」
何だその言い草は、と言い返したくなったが櫻井の声色に有無を言わさぬ圧を感じ取り押し黙ってしまう。結局一言も話すことなく静香は彼について行った。
「…ここ高い喫茶店ですよね、何でここに」
静香が連れてこられたのは駅近くの純喫茶。レトロな雰囲気を漂わせているが値段がそこそこ張る。会社の近くなので時々足を運ぶが、本当に時々だ。珈琲一杯800円を超えるのだから。
「近かったし、色々メニュー多いから。好きなの頼んで、奢るから」
「何故ですか」
「寒空の下待ちぼうけ食らわせたお詫び」
(は?)
予想もしていなかった申し出に首を傾げる。櫻井が疑いを抱きつつも待ち続けた静香を笑いに来る姿は想像できても、それを申し訳なく思いお詫びと称して奢る姿は想像できなかった。話を聞いた限り、同じことをした編集に詫びた上に奢った前例はない。不可解だ。
(何考えてるの?ご機嫌取り何てしないよね、今までも好きにやっていたんだから)
目の前の男の企んでいることが分からず思わず睨んでしまうと、メニューから顔を上げていた櫻井と目が合った。
「何で睨むの?」
「…何企んでいるんだろうなって」
「酷いな、心の底から申し訳ないと思ってるのにさ。あと雨宮さん眉間に皺寄せない方が良いよ、可愛い顔が台無し」
「……ありがとうございます…」
口元をピクピクさせながら一応褒められたので礼を言っておいた、社交辞令で。
「え、ここで顔引き攣らせるの?何で」
心底訳が分からないと言いたげだ。普通なら端正な顔の男に「可愛い」と言われれば少しくらい照れるだろう。しかし、櫻井が本気でこんなことを言う人間だと思っていない。これは完全に揶揄っている。手慣れている人間の態度だ。
「言い慣れている人のそういう言葉鵜呑みにするだけ時間の無駄なので」
「辛辣だな、俺こういうこと言ったことないんだけど」
「はいはい、分かりました、そんなことより好きなの頼んでいいって本当ですか。後でたかられたって苦情言わないでくださいね」
「本当に君の中の俺の好感度クソ以下だよね、仕方ないけど」
「今ので少し印象が良くなりましたよ、けれど仮に悪かったとしても仕事をする上で支障はないと思いますが?先生もそうおっしゃっていた気が?」
本人もどう思われようがどうでもいいという態度だった。初対面の頃から「君のことは信用しない」と公言していたし、その後も冷たいというか素っ気ない態度を崩さなかった。が、今の櫻井は少し違うように思える。妙に砕けているというか。
静香の返答に苦虫を噛み潰したような顔をする櫻井。「あ…」と変な声を漏らし、自分の発言を思い出している。
「言ったなそんなこと…虫のいい話だと重々承知してるけど無かったことにしてくれたら助かる」
急にしおらしい態度に出られた。本当にどうしてしまったのだろう、頭でも打ったのか。
「…はあ、先生がそうおっしゃるなら…あの変な物食べました?妙に素直と言いますか変です」
「少しは手加減してくれない?俺じゃないと一回くらい泣いてるぞ」
肩をすくめてボヤかれる。気を遣われる方が不愉快と言っていたのはどこの誰だったか。だからこちらも要望に合わせてるのに。恐らく本気で言っているわけではない。静香の反応を見て楽しんでいる節がある。彼がどういう人付き合いをしてきたか知らないが、ずけずけと物を言うタイプと交流してこなかったのか。適当に笑って流す静香に櫻井は言葉を重ねる。
「…心境の変化だよ、それだけ」
目を伏せ、ポツリと呟く。どこからか女性の「ああ…」と感嘆の声が聞こえる。確かに絵になる人だが…慣れてしまうと静香にとってはただに仕事相手に過ぎないのだ。最も彼にとってその態度も珍しいものになるのかもしれない。
「そうですか、あ私ホットコーヒーとビーフシチューと…」
「と?まだ食うの?」
「何でもと言ったのはそっちでは?」
「こういう時は少しは遠慮…まあいいや、店員呼ぶよ」
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