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その駅は、婚約破棄された不幸な令嬢を招き食らう

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 思い出すと、また涙があふれてきた。
ヴェロニカは手でそれをぬぐいながら、ふと、ハンカチがないことに気づいた。

(え……、ここは、どこ?わたしはなぜ、こんなところにいるの?)

 急に正気付いたヴェロニカは、自分がなぜか駅にいることに気づいた。

 先ごろ国中に張り巡らされた鉄道は、いまや国の動脈として、運輸のかなめである。
この国が急速に発展したのは、すべてこの鉄道のおかげだといっても過言ではない。

 ヴェロニカも商人の娘として、勉強のためにときどき駅を訪れるし、プライベートな旅行のために列車に乗ることもある。
 けれどそんな時は、家族や付き添いのメイドが一緒に決まっている。
 ヴェロニカのような育ちの娘が、ひとりで出歩くことなどまずない。

(いつのまにか、ずいぶん暗くなっている…。それに、この駅はどこの駅なのかしら。見たことのない駅だわ。なんだかずいぶん寂しい駅ね)

 駅には、数名の上品な格好の令嬢たちがいた。
2、3人ずつ固まっているから、あるいは令嬢と付き添いの侍女なのかもしれないが。

 だから多少は恐ろしさが薄れているとはいえ、見知らぬ駅にたったひとりということは、とても心細い。
この駅は小さな駅らしく、建物はない。
ただ乗り降りするプラットフォームと屋根とベンチがあるばかりで、物売りや荷物持ちの少年ひとり見当たらなかった。

(待って……。ほんとうに、ここはどこなの?わたしは、どうやってここまで来たの?)

 ハースター家の応接室を泣きながら走り出たことは覚えている。
でも、館を出たことさえ記憶になかった。

 ショックで動転して、ここまで走ってきたのだろうか。
けれど、いくらヴェロニカが急に飛び出したとはいえ、付き添いとして一緒にあの場にいたメイドや、ハースター家まで送ってきた御者たちが、ヴェロニカを追わないはずはない。
 そして彼らに追いかけられたヴェロニカが、誰にも捕まらずに見知らぬ駅まで来られるはずはなかった。

 そのことに気づいて、ヴェロニカの背筋に冷たいものが走った。
恐怖に身を震わせながら、周囲を見回す。
すると、先ほどまでそれぞれに歓談していた令嬢たちが、こちらをじっと見ているではないか。

(怖い。でも、落ち着かなくちゃ。なんだかわからないけれど、危険な状況にいるみたい。でも冷静になれば、切り抜けることはできるはずよ。今まで、どれだけぞっとする状況に出会ってきたと思っているのよ!)

 ヴェロニカは、わけのわからない恐怖を、意思の力でねじふせようとした。
父に連れられて見てきた商談の場や、母に連れられて化かしあった社交の場では、一瞬の判断で危機に陥ることなどしょっちゅうだった。
 やわらかい笑顔の下で、とんでもない不良債権をつかまされそうになったこともあれば、なにげない言葉を誘導されて、伯爵夫人の不興を買いかけたこともある。
 そんな危機的状況を乗り越えてきた自分なら、なにかこの場をしのげるはずだ、と。

 だが、その瞬間。

「ヴェロニカ!」

 大きな男の手が、ヴェロニカの手をとった。

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