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1巻
1-2
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「見つけた。俺の花嫁……」
一瞬後には、青年は教室の初音の前に姿を現し、初音の手を取って告げた。
さらさらと輝く黒髪の間から、あまい黄金の瞳が初音を見つめる。
見知らぬ男性から手を取られても、初音はその目に縫い留められたように動けなかった。
そんな初音の反応を承諾とみなしたのか、男は初音の手を取ったまま、膝をつく。そして初音の手を形のよい唇に引きよせ、短い口づけをその手に落とした。
「そなたの名は?」
「西園寺、初音と申します」
男の声音は優しかったが、人を従えることに慣れたもの特有の、逆らわれることなど考えたこともないという独特の強制力があった。
家族や周囲の人間の顔色をうかがって生きてきた初音は、人に従うことに慣れている。そのため、逆らうことなど思いもつかず、彼の問いに答えたが、すぐに見知らぬ男に名を告げたことを自覚して恥じた。紹介もされていない男性に手を取らせ、名を告げるなど、はしたないにもほどがある。
かぁっと頬を赤く染める初音を、男はいとおしげに見つめた。
「初音。かわいらしい響きだ。そなたによく似合う」
そんなふうに初音に言う男こそ、精緻な人形に覇気を与えたような恐ろしいまでの美貌である。けれど男の視線は、彼が本心から初音をかわいらしいと思っていることを雄弁に伝えている。
まるで視線ひとつで愛を告げるように、彼の視線はあまい。
「俺は、高雄。あやかしの統領の、高雄だ」
「高雄様……?」
ねだるような視線に促され、男の名を呼ぶ。
男は嬉しそうに眼を細めた。
「高雄様。そちらが、お探しの方ですか?」
高雄の背後から、藍色の髪の男が声をかける。
いつの間にか、高雄の背後に先ほどまで藤の近くにいた四人が立っていた。従者らしき人々を除く、個性的な髪色の四人だ。
高雄は立ち上がり、初音の横に移動して答える。
「あぁ、そうだ。湖苑、この者こそ、俺の探していた人間だ。だが、それだけではない」
晴れ晴れとした笑顔で、高雄は宣言した。
「俺の心が愛おしいと示す者。この者こそ、俺の花嫁。あやかしの統領であるこの高雄が唯一と決めた娘だ!」
「それはそれは。おめでとうございます」
湖苑は怜悧な美貌に薄い笑みを浮かべ、その場に膝をつく。
「マジかー。高雄様が急に花嫁を見つけるとは思わなかったぜ。すげぇな、嬢ちゃん!」
緋色の髪の精悍な男は初音を見てにかっと笑うと、湖苑に倣って膝をついた。
「まぁ、まぁ。本当におめでたいこと。高雄様はまだまだおなごには興味がないと思うておったが、一目惚れかのう。長生きはするものじゃのう」
ほのぼのと言ったのは、初音より少し年下に見える白い髪の清楚な美少女である。彼女も、優しげな笑みを浮かべると、膝をつく。
「おめでとうございます、高雄様。おめでとうございます、初音様」
最後に緑の髪の豪奢な美女があでやかに微笑んで、膝をついた。
高雄は満足げに「うむ」とうなずいた。
「湖苑、火焔、雪姫、樹莉。その寿ぎ、ありがたく受け取ろう。なぁ、初音」
「は、はい……?」
促すように言われ、初音はうなずきかけた。
だが、さすがにこれはおかしいと思い、途中で言葉を切る。
「花嫁とは、私のことでしょうか」
「そなた以外の誰がいる?」
「私……、私は西園寺の娘です。私の結婚は、家が定めるもの。私はあなたのことを父から聞いておりません! 勝手に花嫁などと言われては困ります……!」
見知らぬ男に花嫁などと言われて否定もしなければ、後で父たちからどのような折檻を受けるかわからない。
自分のことを大切そうに見る高雄に心惹かれながらも、初音はきっぱりと伝えた。
他人の言葉を否定するなんて、初音はめったにしない。
女学校では初音に声をかける者はいないし、家族には逆らうことなど許されない。
怒られるだろうか。
男から怒鳴られることを予想して、初音はぎゅっと目を閉じる。
そんな初音に、高雄は優しく声をかけた。
「俺との結婚を断れるのは、そなたの意思だけだ、初音。そなたの家が、俺に逆らうことなどできないのだから」
「私の意思……?」
初音の意思。
そんなもの、今まで誰が気にしただろうか。
初音は男の言葉に戸惑うことしかできなかった。
西園寺の娘として、淑女として、恥ずべき言動をしていないか。初音に与えられるのは、いつもその尺度をもってはかられた結果だけだ。こんなふうに見知らぬ男性と親しげにするなど、級友や先生になんと思われることか。
現状を思い出し、初音は怯えて周囲を見回した。
きっと級友たちは、はしたないと眉をひそめているだろうと思ったのだ。
けれど、級友たちの様子は、初音の想像とはまったく異なっていた。
級友たちは皆高雄たちのほうを向いて膝をつき、両手を胸の前で組み、頭を下げていた。
視線は高雄たちへ向けているが、その目は陶然とし、彼らに囲まれた初音のことなど目に入っていない様子だった。
藤堂先生と百合子だけは毅然としたまなざしを保ってはいるものの、膝をついているのは級友たちと同じだった。
(これは、どういうことなの……? なぜみんなは膝をついているの?)
膝をつくという所作は、自分より上の身分の者に対する礼である。とはいえ土足で歩く教室で、百合子のような侯爵令嬢が膝をつく相手など限られている。
(鬼神……)
初音の頭に、先ほどの藤堂先生と百合子の会話が思い出された。
人を圧倒的に凌駕する能力を持つ神ならぬ神。
かくりよに消えたと言われるそれが、目の前の高雄たちなのだろうか。
周囲の少女たちを見て驚く初音に、高雄はふっと優しく笑った。
「あぁ、驚いたのか? 心配ない、ただの人の子には我らの力は強すぎる。相対すれば耐えきれず、こうして膝をつくものだ」
そう言われて、藤堂先生の目には理解が、百合子の目には怒りが宿る。
けれど初音は、ますますわからなくなった。
「ですが、私はこうして立っております」
高雄は、初音の髪をひと筋とって、そこに口づけた。
「あぁ。そなたは、俺の花嫁。他の有象無象とは違って当たり前だろう」
「そんなこと、ありえません……!」
初音の口は、考えるよりも前に言葉を紡ぐ。
いったいこの男は、なにを言っているのか。
高雄というこの男の花嫁かどうかなどよりも、初音が特別ななにかであるかのような言われ方が恐ろしかった。
初音は、ただの人だ。
西園寺という名家に生まれた「無能」の娘。
それが初音だ。
この教室にいる少女たちが有象無象だというのなら、初音だって同じはずなのだ。
すり込まれた自意識を否定され、初音はその良し悪しなど判別もできず、ただ傷ついた気持ちになる。
そんな初音に、高雄は驚いたように目をしばたたかせた。それから初音の肩を抱いて、優しく諭した。
「いいや。見てごらん、そなただからこそ、俺の隣に立てるのだ」
促されて、初音は再び級友たちを見る。彼女たちは先ほどよりも深く頭を下げ、もはやこちらに目を向けている者もいなかった。
ただひとり百合子だけが、強いまなざしで初音たちを見つめていたが、その百合子さえ先ほどよりも頭を深く下げていた。
高雄とともに来た者たちは、自らの意思で膝をついているのだろう。赤い髪の男などは跪いているものの、にやにやと笑ってこちらを見ており、かしこまった様子はない。
教室にいる少女たちとは、明らかに様子が違った。
「でも……、私は『無能』だわ。本当なら私こそ、跪いているはずなのに」
「初音が無能? おもしろいことを言う」
高雄は、おかしげに笑った。
いかにも意外なことを聞いたというようにおかしげに笑う高雄に、初音の胸はぎゅっと痛くなる。
初音にとって無能である事実は、そんなに簡単に変えられることではないのだ。そのために、ずっと家族の一員として認められず、虐げられてきたのだから。
「笑わないで……」
震える声で、初音が言う。高雄ははっとしたように真顔に戻った。
「すまない。そなたが本気で自分のことを『無能』と言ったとは思わず」
困惑したように言う高雄に、初音のほうこそ困惑した。
彼は自分のことを、どれほど知っているというのだろう。先ほど出会ったばかりだというのに。
高雄も、初音も、お互いを見つめたまま言葉を飲み込む。
高雄の連れてきた者たちが、不思議そうにふたりを見ながら、立ち上がった。
その時。
「こちらに、鬼神様方がご来臨なさったと伺いました……!」
教室の扉が、がらりと開いた。
驚いた初音が振り返ると、そこには洋装の男が数名立っていた。そのうちのひとり、いかめしい顔をした五十がらみの男の顔は、初音も知る人のものだった。
(華厳校長……? 女生徒の前にはめったにお姿を現す方ではないのに……)
青都女学校の校長は、代々四家ではない華族に稀に産まれる異能持ちの中で、特に強い力を持つ者が選ばれる。校長には、実質的な職務はほとんどない。非常事態が起こった時の対応のために毎日在校してはいるが、実務は副校長以下の人間に任されているからだ。
校長はふだん豪奢で快適な校長室で秘書たちに世話を焼かれながら、自らの術に磨きをかけている。
初音も、校内を歩く姿を何度か見たことがあるだけで、声を聞いたことすらなかった。華厳校長と聞いて思い浮かぶのは、ただただ偉い方である、ということだけだ。
だがその校長は、高雄の姿を見たとたん、膝を折り、こうべをたれた。彼の周囲にいた大人たちも、続くように膝を折る。
初音の級友たちと変わらないその様子に、初音は背筋が寒くなった。
けれど高雄はまた一歩初音へと歩み寄り、その手を握りしめる。
「言っただろう? そなたはここにいるその他の有象無象とは違うと」
高雄の言葉が聞こえたのだろう。校長の口元から、ぎりっという歯ぎしりが聞こえた。幼いころから華族の人間として、また強い能力者として貴ばれてきた彼にとって、自分が有象無象扱いされることなど心外なのだろう。
けれど校長も百合子と同様、やはりその他の人々とは少し違った。
高雄の前でこうべをたれていようとも、ただただその威光に当てられ忘我の淵にある級友たちとは異なり、自身の意思で言葉を紡ぐ。
「鬼神様とお見受けいたします。私はこの青都女学校の校長をつとめます華厳公顕。別室におもてなしをご用意しております。どうか鬼神様方におかれましては、そちらにご移動をお願いできませんでしょうか」
「ふむ。もてなしとな? 俺はなにも望まぬが。それより、ようやく花嫁と出会えたのだ。このまま初音を連れて、一刻も早く城に戻りたい」
高雄は初音の隣で、のんびりと言う。
「え……」
初音はその言葉に、耳を疑った。
「私は、あなたの花嫁となることを了承した覚えはございません! あなたとこのままどこかへ行くなど、勝手に決めないでください!」
きっぱりと言えば、高雄は困ったように眉根を寄せた。
「ふられちまったみてぇだなぁ、統領」
赤髪の男が、からかうように言う。
「うるさいよ、火焔」
拗ねたように答えた高雄に、初音の胸がどきりと高鳴った。
初音は親の許可もなく見知らぬ男と結婚はできない、と常識的なことを言っただけで、高雄をふったという自覚などなかった。けれど自分の言葉ひとつが、高雄のような立派な男性の感情を左右しているのを見て、驚きと、あまい感情がわきたつのを感じた。
父をはじめとする西園寺の親戚が、初音の言葉に怒ることはある。
けれど、それは初音のような「無能」が自分たちの気に障ることをしたことへの怒りがあるだけで、本質的に彼らが心を動かしていたわけではないと初音は知っていた。
気に障る、だから初音を怒鳴り、殴る。
そうすれば彼らは初音の言葉など忘れてしまう。
火焔の言葉に傷ついたように、初音の顔をちらりとうかがう高雄の表情は、それとはまったく違った。高雄は、初音の心を、彼女の言葉を欲している。そんなこと、今まで初音にはなかった。
「高雄様。高雄様の求婚は、いささか強引かつ単純なのではないでしょうか。人間のおなごには、憧れの求婚があると聞きます。もっと浪漫的なお言葉が必要なのでは?」
慣れない状況にいたたまれない心地だった初音を気遣うように、緑の髪の女性が口を挟んだ。
「樹莉、お前はまた人間の読物を読みふけっていたのだろう。お前の好きな小説と現実は違うのだ。……だが、参考に聞こう。浪漫的な求婚とは、どのようなものだ?」
高雄は鼻白んだ様子ながら、緑の髪の女性に尋ねる。
すると樹莉と呼ばれた女性はぱっと顔を輝かせ、ぽってりとした唇に指を当てて考え込む。
「そうですわね。例えば、暴漢に襲われているところをお助けして、とか。住み込みの書生がお嬢様にひそかに愛を募らせつつ大成して求婚する、というのも素敵でしたわ!」
「それはお前の好みだろう。……まぁ、いい。住み込みの書生になるのは無理だが……」
高雄は、ふむとうなずき、初音の前に片膝をついた。
「初音。そなたが望むのなら、そなたを襲おうとする暴漢など塵と消し、そなたにひそかに恋慕を募らせる不逞の男は四肢を裂いてやると約束しよう。だから俺の花嫁になってくれないか?」
初音は、ひいた。どんびきだった。
暴漢に襲われたことはないが、人間を塵に帰すと言われても怖いだけだし、ひそかに想いを寄せてくれる男がいるなら、むしろその男の花嫁になりたかった。
顔を青くして、自分の手を握る高雄の手から逃れようとする初音を見るに見かねたように白髪の少女が口を挟む。
「高雄様、樹莉。そのくらいにしておけ。かえって初音様の好感度が下がっておるわ。なんじゃ、人間の作法はよくわからんが、とりあえずそこの男の言う通り、もてなされたほうがいいのじゃないかえ? 初音様は親の許可がどうのと言っておられたことだし、その親御を呼んで許可を取るのがいいと思うのじゃが」
「そんなのぜんぜん浪漫じゃありませんわ、雪姫」
「浪漫より、統領の嫁取りが無事に叶うほうが大切じゃろう。さぁさぁ、そこの男。高雄様の威圧をゆるめる術をかけてやるから、その別室とやらに疾く案内せんか。して、すぐに初音様の親御を呼ぶのじゃ」
その場をしきり始めた美少女を止める者はいなかった。
白髪の少女が手を振ると、華厳校長は氷が溶けたようにゆるりと手を動かした。そして慌てて立ち上がると「こちらです」と先に立って歩き始めた。
高雄に手を引かれた初音が動けずにいると、白髪の少女が隣に来て、そっと腕を貸してくれた。
「うちの統領が強引ですまんのう。いつもはもう少ししゃんとしておるのじゃが、浮かれておるようじゃわ。まぁ悪いようにはせぬゆえ、ついてきてくれんか」
自分よりも幼く見える少女に困ったように言われ、初音はおずおずとうなずいた。
この時、初音はまだ、自分の未来が急に変わろうとしていることに気付いていなかった。
呆然としている少女たちの中で、百合子だけが初音を気遣わしげに見送っていたことにも。
華厳校長が案内した別室とは、学校の門の外にある瀟洒な洋館だった。
学校の一部ではあるが、ここに入れるのは校長や理事たちだけなので、初音はこの建物を外からしか見たことがなかった。
この洋館は、青都女学校の設立に手を尽くしてくださったさる公爵夫人がかつて住んでいた建物である。
「世の中を支える能力は、女子も男子と同じく持っているもの。なのに女子に教育が与えられないのはいかがなものか」とおおせになり、思想を同じくする夫人方とこの学校の設立に尽力された女性だ。
彼女が亡くなった後、遺族は彼女の遺志を重んじ、この建物を女学校に寄付してくださった。
クリーム色の外壁に大きな出窓……。
入口に立った初音は、そっと周囲を見渡しては、外国の風景画のようなこの建物に自分が入れることに、感激した。中に一歩足を踏み入れて、息を吞む。
(なんて素敵なのかしら……。外から見ていた時もとても素敵だと思っていたけれど、中もとても素敵)
西園寺の屋敷も立派だけれど、古い日本式の建物に唐突に異国の建築様式が混ざっていて、どこかいびつなのである。
建物に入るとすぐ吹き抜けの広間があり、つやつやした深い色の木の階段が二階へと続いている。
白い壁に模様のような木の枠組みが映え、きらめくシャンデリアは夢のようだ。
「こちらへどうぞ」
ともするとぽかんと見惚れてしまいそうな初音をよそに、高雄たちは落ち着いていた。華厳校長はそんな彼らと目を合わせないように目を伏せつつ、奥の部屋へ高雄たちを案内する。
その部屋もまた、素晴らしい部屋だった。
初音は、その部屋がずっと外から見て憧れていた部屋だと気づいた。
薄いレースのカーテンがかけられた大きな出窓が、部屋の三面をぐるりと囲っている。壁紙は淡い緑に控えめなすずらんの花が描かれたもので、猫脚のソファの背や座面もおそろいの色合いのダマスク織の布が張られており、さわやかな中にかわいらしさが見える。
学校へ通う道の途中で、揺れるカーテンの奥に時折見えた憧れの部屋が、目の前にあった。
ふわふわと夢見心地の初音は、高雄に手を引かれるままに彼の隣に座らされたことにも気づかない。
高雄と初音が並んで校長の向かいのソファに座ると、雪姫たちはその後ろに立った。
雪姫はともかく、火焔たちは校長の頭ひとつは大きい。女性である樹莉ですら、人間の男としては平均以上の身長である校長と同じくらいの長身で、並んで立つと威圧感がある。
校長は四人にも腰をかけるよう促すが、それは火焔がひとこと「必要ねぇ」と笑い飛ばす。
「相手がどんなやつだとしても、初めて招かれた相手の屋敷で統領のツレである俺たちがのんきに座ってられるかよ」
火焔は気負った様子でもなく笑って言うが、校長たちの間には緊張が走る。
初音は、火焔が口にした「ツレ」という言葉に、なるほどと心の中でうなずいた。
高雄と、ともに来た四人の男女の関係はどういったものなのかと思っていたのだ。
彼らは高雄を「統領」「高雄様」と呼び、明らかに上下関係があるようだが、藤の花のあたりで待機している従者たちとは異なり、高雄と親しげに遠慮なく言葉をかわす。もし初音が家族にあのような口をきいたら、三日は食事を与えられないだろう。
(どういったご関係かと思っていましたけれど、なるほど、「ツレ」というご関係だったのね)
それは初音の知らない言葉で、知らない関係だった。
じわりと初音の心に、憧れのようなものが生まれる。
けれど初音がそれを自覚するより前に、校長が追従するように笑って言う。
「そのように警戒なさることはございますまい。私たちは鬼神様方にあだなそうなどと考えておりません。ええ、その証に、そこの女学生の父へはすでに連絡済みでございます」
校長の言葉に、初音は息を呑んだ。
(いつの間に……?)
高雄たちの話を聞いて、初音の父を呼ぶべきだと気を利かせたのだろうが、校長がいつその手配をしたのか、初音は気づかなかった。なのに、すでに初音の父を呼んだという。
高雄たちの前では委縮し、気をゆるめた瞬間に膝をつこうとするどこかおかしな華厳校長を見ていた初音は、目の前の男性がふだんは自分たち女学生にとって声もかけられないほど偉い方なのだということを思い出す。
華厳校長がこんなに丁重な態度に出ているのは、それだけ彼が高雄たちを恐れているからだ。高雄が初音を選ばなければ、彼は初音など目もとめなかっただろう。
そう思い当たり、初音は緊張でやや崩れていた姿勢を正す。
高雄はそんな初音をいたわるように優しく見つめたが、ふいに険しい視線を入口に向けた。
「なるほど。ところで、入口で騒いでいるおなごがいるな。初音の妹だと名乗っているようだが、あれもお前たちが呼んだのか?」
「は……?」
突如高雄の厳しい視線にさらされ、校長の顔色が真っ白に変わった。
高雄たち鬼神はそこにいるだけで人間には耐えられないほどの覇気を放っている。それは少しでも気を抜けば、頭を上げ、言葉をかわすことなどできなくなる類のものだ。
校長が彼らの対面のソファに腰かけて座っていられるのも、雪姫の術に助けられてのことだった。
「わ、私は、その女学生の家へ連絡をやり、父君である西園寺侯爵をお呼びしただけです」
校長は、もともと初音のことを知っていた。
といっても知っていたのは、その名前と、西園寺家に生まれた「無能」の長女であること、彼女がこの女学校に入学したこと。
そして姉とは異なりそれなりの異能を持つ妹が、その一年後にこの女学校に入学したということを耳に挟んだ程度だ。
この女学校に通う女学生は大勢いる。多少家柄がいい者も、能力がある者もいるが、校長にとっては皆、似たりよったりだ。西園寺侯爵姉妹も校長にとっては気に留めておくほどの価値はなかった。
だが、今。光れる藤の門から現れたあやかしの統領が、その取るに足りない女学生を花嫁にしたいと望んでいた。
その女学生が婚儀は家が決めるものだと言い張り、鬼神である彼の求婚を拒否したと部下から聞いた校長は、鬼神を怒らせてはならぬと震えあがり、初音の親を連絡用の式神で「至急」と言って呼び出した。だがこのせわしない最中に、校長の頭には初音の妹のことなどよぎりもしなかった。当然、初音の妹をこの場に呼んだりはしていない。
「そのような者はこちらに呼んでおりませんが」
剣呑に目を光らせる高雄に、校長はきっぱりと否定した。
「なるほど」
高雄は、妹と聞いて身をこわばらせた初音を見て、何事か考えているようだった。
「ならばその娘、ここに連れてこい。あぁ、余計な口などきけないよう、丁重にな」
華厳校長が慌てて部屋を出ていくのを、初音は不思議そうに見送った。
この洋館の扉は厚いので、入口に来ているという華代の声は、初音には聞こえなかった。
(この方には、華代の声が聞こえているのかしら)
隣に座っているのに、不思議なことである。
とはいえ、この男が初音の前に現れてからのことすべてが、不思議なことだ。
それに比べれば、少しばかり耳がいいことなど些細なことなのかもしれない。
しばらくして、華厳校長が扉を開けた。
「お待たせいたしました。西園寺華代を連れてまいりました」
華厳校長に背を押されるようにして、華代は部屋に入ろうとし、……そのまま扉のそばで跪いた。
「……っ?」
華代本人には、不本意なことなのだろう。
膝をつき、胸の前で両手を組み、頭を下げるという、ちょうど初音の級友たちが高雄を見た時と同じような姿勢をとりながら、かぁっと耳まで怒りで赤くなっていた。
横を通り過ぎながら、校長はそんな華代を呆れたように見下ろす。
「娘。呼ばれたわけでもないのに、なぜここまで押し掛けたんだ? ずいぶん愉快なことを戸口ではわめいていたようだが、ここでは言わぬのか?」
高雄は入口で跪く華代を見て、いっそ優しく感じられる声音で言う。
けれどその目は冷たく、厳しく華代に向けられていた。
「これこれ、統領。統領の御前で声を出せとは、並みの人間には酷というものじゃよ。人間とは本来、か弱いものじゃからのう。統領の花嫁であらせられる初音様と同じように扱っては気の毒じゃよ」
一瞬後には、青年は教室の初音の前に姿を現し、初音の手を取って告げた。
さらさらと輝く黒髪の間から、あまい黄金の瞳が初音を見つめる。
見知らぬ男性から手を取られても、初音はその目に縫い留められたように動けなかった。
そんな初音の反応を承諾とみなしたのか、男は初音の手を取ったまま、膝をつく。そして初音の手を形のよい唇に引きよせ、短い口づけをその手に落とした。
「そなたの名は?」
「西園寺、初音と申します」
男の声音は優しかったが、人を従えることに慣れたもの特有の、逆らわれることなど考えたこともないという独特の強制力があった。
家族や周囲の人間の顔色をうかがって生きてきた初音は、人に従うことに慣れている。そのため、逆らうことなど思いもつかず、彼の問いに答えたが、すぐに見知らぬ男に名を告げたことを自覚して恥じた。紹介もされていない男性に手を取らせ、名を告げるなど、はしたないにもほどがある。
かぁっと頬を赤く染める初音を、男はいとおしげに見つめた。
「初音。かわいらしい響きだ。そなたによく似合う」
そんなふうに初音に言う男こそ、精緻な人形に覇気を与えたような恐ろしいまでの美貌である。けれど男の視線は、彼が本心から初音をかわいらしいと思っていることを雄弁に伝えている。
まるで視線ひとつで愛を告げるように、彼の視線はあまい。
「俺は、高雄。あやかしの統領の、高雄だ」
「高雄様……?」
ねだるような視線に促され、男の名を呼ぶ。
男は嬉しそうに眼を細めた。
「高雄様。そちらが、お探しの方ですか?」
高雄の背後から、藍色の髪の男が声をかける。
いつの間にか、高雄の背後に先ほどまで藤の近くにいた四人が立っていた。従者らしき人々を除く、個性的な髪色の四人だ。
高雄は立ち上がり、初音の横に移動して答える。
「あぁ、そうだ。湖苑、この者こそ、俺の探していた人間だ。だが、それだけではない」
晴れ晴れとした笑顔で、高雄は宣言した。
「俺の心が愛おしいと示す者。この者こそ、俺の花嫁。あやかしの統領であるこの高雄が唯一と決めた娘だ!」
「それはそれは。おめでとうございます」
湖苑は怜悧な美貌に薄い笑みを浮かべ、その場に膝をつく。
「マジかー。高雄様が急に花嫁を見つけるとは思わなかったぜ。すげぇな、嬢ちゃん!」
緋色の髪の精悍な男は初音を見てにかっと笑うと、湖苑に倣って膝をついた。
「まぁ、まぁ。本当におめでたいこと。高雄様はまだまだおなごには興味がないと思うておったが、一目惚れかのう。長生きはするものじゃのう」
ほのぼのと言ったのは、初音より少し年下に見える白い髪の清楚な美少女である。彼女も、優しげな笑みを浮かべると、膝をつく。
「おめでとうございます、高雄様。おめでとうございます、初音様」
最後に緑の髪の豪奢な美女があでやかに微笑んで、膝をついた。
高雄は満足げに「うむ」とうなずいた。
「湖苑、火焔、雪姫、樹莉。その寿ぎ、ありがたく受け取ろう。なぁ、初音」
「は、はい……?」
促すように言われ、初音はうなずきかけた。
だが、さすがにこれはおかしいと思い、途中で言葉を切る。
「花嫁とは、私のことでしょうか」
「そなた以外の誰がいる?」
「私……、私は西園寺の娘です。私の結婚は、家が定めるもの。私はあなたのことを父から聞いておりません! 勝手に花嫁などと言われては困ります……!」
見知らぬ男に花嫁などと言われて否定もしなければ、後で父たちからどのような折檻を受けるかわからない。
自分のことを大切そうに見る高雄に心惹かれながらも、初音はきっぱりと伝えた。
他人の言葉を否定するなんて、初音はめったにしない。
女学校では初音に声をかける者はいないし、家族には逆らうことなど許されない。
怒られるだろうか。
男から怒鳴られることを予想して、初音はぎゅっと目を閉じる。
そんな初音に、高雄は優しく声をかけた。
「俺との結婚を断れるのは、そなたの意思だけだ、初音。そなたの家が、俺に逆らうことなどできないのだから」
「私の意思……?」
初音の意思。
そんなもの、今まで誰が気にしただろうか。
初音は男の言葉に戸惑うことしかできなかった。
西園寺の娘として、淑女として、恥ずべき言動をしていないか。初音に与えられるのは、いつもその尺度をもってはかられた結果だけだ。こんなふうに見知らぬ男性と親しげにするなど、級友や先生になんと思われることか。
現状を思い出し、初音は怯えて周囲を見回した。
きっと級友たちは、はしたないと眉をひそめているだろうと思ったのだ。
けれど、級友たちの様子は、初音の想像とはまったく異なっていた。
級友たちは皆高雄たちのほうを向いて膝をつき、両手を胸の前で組み、頭を下げていた。
視線は高雄たちへ向けているが、その目は陶然とし、彼らに囲まれた初音のことなど目に入っていない様子だった。
藤堂先生と百合子だけは毅然としたまなざしを保ってはいるものの、膝をついているのは級友たちと同じだった。
(これは、どういうことなの……? なぜみんなは膝をついているの?)
膝をつくという所作は、自分より上の身分の者に対する礼である。とはいえ土足で歩く教室で、百合子のような侯爵令嬢が膝をつく相手など限られている。
(鬼神……)
初音の頭に、先ほどの藤堂先生と百合子の会話が思い出された。
人を圧倒的に凌駕する能力を持つ神ならぬ神。
かくりよに消えたと言われるそれが、目の前の高雄たちなのだろうか。
周囲の少女たちを見て驚く初音に、高雄はふっと優しく笑った。
「あぁ、驚いたのか? 心配ない、ただの人の子には我らの力は強すぎる。相対すれば耐えきれず、こうして膝をつくものだ」
そう言われて、藤堂先生の目には理解が、百合子の目には怒りが宿る。
けれど初音は、ますますわからなくなった。
「ですが、私はこうして立っております」
高雄は、初音の髪をひと筋とって、そこに口づけた。
「あぁ。そなたは、俺の花嫁。他の有象無象とは違って当たり前だろう」
「そんなこと、ありえません……!」
初音の口は、考えるよりも前に言葉を紡ぐ。
いったいこの男は、なにを言っているのか。
高雄というこの男の花嫁かどうかなどよりも、初音が特別ななにかであるかのような言われ方が恐ろしかった。
初音は、ただの人だ。
西園寺という名家に生まれた「無能」の娘。
それが初音だ。
この教室にいる少女たちが有象無象だというのなら、初音だって同じはずなのだ。
すり込まれた自意識を否定され、初音はその良し悪しなど判別もできず、ただ傷ついた気持ちになる。
そんな初音に、高雄は驚いたように目をしばたたかせた。それから初音の肩を抱いて、優しく諭した。
「いいや。見てごらん、そなただからこそ、俺の隣に立てるのだ」
促されて、初音は再び級友たちを見る。彼女たちは先ほどよりも深く頭を下げ、もはやこちらに目を向けている者もいなかった。
ただひとり百合子だけが、強いまなざしで初音たちを見つめていたが、その百合子さえ先ほどよりも頭を深く下げていた。
高雄とともに来た者たちは、自らの意思で膝をついているのだろう。赤い髪の男などは跪いているものの、にやにやと笑ってこちらを見ており、かしこまった様子はない。
教室にいる少女たちとは、明らかに様子が違った。
「でも……、私は『無能』だわ。本当なら私こそ、跪いているはずなのに」
「初音が無能? おもしろいことを言う」
高雄は、おかしげに笑った。
いかにも意外なことを聞いたというようにおかしげに笑う高雄に、初音の胸はぎゅっと痛くなる。
初音にとって無能である事実は、そんなに簡単に変えられることではないのだ。そのために、ずっと家族の一員として認められず、虐げられてきたのだから。
「笑わないで……」
震える声で、初音が言う。高雄ははっとしたように真顔に戻った。
「すまない。そなたが本気で自分のことを『無能』と言ったとは思わず」
困惑したように言う高雄に、初音のほうこそ困惑した。
彼は自分のことを、どれほど知っているというのだろう。先ほど出会ったばかりだというのに。
高雄も、初音も、お互いを見つめたまま言葉を飲み込む。
高雄の連れてきた者たちが、不思議そうにふたりを見ながら、立ち上がった。
その時。
「こちらに、鬼神様方がご来臨なさったと伺いました……!」
教室の扉が、がらりと開いた。
驚いた初音が振り返ると、そこには洋装の男が数名立っていた。そのうちのひとり、いかめしい顔をした五十がらみの男の顔は、初音も知る人のものだった。
(華厳校長……? 女生徒の前にはめったにお姿を現す方ではないのに……)
青都女学校の校長は、代々四家ではない華族に稀に産まれる異能持ちの中で、特に強い力を持つ者が選ばれる。校長には、実質的な職務はほとんどない。非常事態が起こった時の対応のために毎日在校してはいるが、実務は副校長以下の人間に任されているからだ。
校長はふだん豪奢で快適な校長室で秘書たちに世話を焼かれながら、自らの術に磨きをかけている。
初音も、校内を歩く姿を何度か見たことがあるだけで、声を聞いたことすらなかった。華厳校長と聞いて思い浮かぶのは、ただただ偉い方である、ということだけだ。
だがその校長は、高雄の姿を見たとたん、膝を折り、こうべをたれた。彼の周囲にいた大人たちも、続くように膝を折る。
初音の級友たちと変わらないその様子に、初音は背筋が寒くなった。
けれど高雄はまた一歩初音へと歩み寄り、その手を握りしめる。
「言っただろう? そなたはここにいるその他の有象無象とは違うと」
高雄の言葉が聞こえたのだろう。校長の口元から、ぎりっという歯ぎしりが聞こえた。幼いころから華族の人間として、また強い能力者として貴ばれてきた彼にとって、自分が有象無象扱いされることなど心外なのだろう。
けれど校長も百合子と同様、やはりその他の人々とは少し違った。
高雄の前でこうべをたれていようとも、ただただその威光に当てられ忘我の淵にある級友たちとは異なり、自身の意思で言葉を紡ぐ。
「鬼神様とお見受けいたします。私はこの青都女学校の校長をつとめます華厳公顕。別室におもてなしをご用意しております。どうか鬼神様方におかれましては、そちらにご移動をお願いできませんでしょうか」
「ふむ。もてなしとな? 俺はなにも望まぬが。それより、ようやく花嫁と出会えたのだ。このまま初音を連れて、一刻も早く城に戻りたい」
高雄は初音の隣で、のんびりと言う。
「え……」
初音はその言葉に、耳を疑った。
「私は、あなたの花嫁となることを了承した覚えはございません! あなたとこのままどこかへ行くなど、勝手に決めないでください!」
きっぱりと言えば、高雄は困ったように眉根を寄せた。
「ふられちまったみてぇだなぁ、統領」
赤髪の男が、からかうように言う。
「うるさいよ、火焔」
拗ねたように答えた高雄に、初音の胸がどきりと高鳴った。
初音は親の許可もなく見知らぬ男と結婚はできない、と常識的なことを言っただけで、高雄をふったという自覚などなかった。けれど自分の言葉ひとつが、高雄のような立派な男性の感情を左右しているのを見て、驚きと、あまい感情がわきたつのを感じた。
父をはじめとする西園寺の親戚が、初音の言葉に怒ることはある。
けれど、それは初音のような「無能」が自分たちの気に障ることをしたことへの怒りがあるだけで、本質的に彼らが心を動かしていたわけではないと初音は知っていた。
気に障る、だから初音を怒鳴り、殴る。
そうすれば彼らは初音の言葉など忘れてしまう。
火焔の言葉に傷ついたように、初音の顔をちらりとうかがう高雄の表情は、それとはまったく違った。高雄は、初音の心を、彼女の言葉を欲している。そんなこと、今まで初音にはなかった。
「高雄様。高雄様の求婚は、いささか強引かつ単純なのではないでしょうか。人間のおなごには、憧れの求婚があると聞きます。もっと浪漫的なお言葉が必要なのでは?」
慣れない状況にいたたまれない心地だった初音を気遣うように、緑の髪の女性が口を挟んだ。
「樹莉、お前はまた人間の読物を読みふけっていたのだろう。お前の好きな小説と現実は違うのだ。……だが、参考に聞こう。浪漫的な求婚とは、どのようなものだ?」
高雄は鼻白んだ様子ながら、緑の髪の女性に尋ねる。
すると樹莉と呼ばれた女性はぱっと顔を輝かせ、ぽってりとした唇に指を当てて考え込む。
「そうですわね。例えば、暴漢に襲われているところをお助けして、とか。住み込みの書生がお嬢様にひそかに愛を募らせつつ大成して求婚する、というのも素敵でしたわ!」
「それはお前の好みだろう。……まぁ、いい。住み込みの書生になるのは無理だが……」
高雄は、ふむとうなずき、初音の前に片膝をついた。
「初音。そなたが望むのなら、そなたを襲おうとする暴漢など塵と消し、そなたにひそかに恋慕を募らせる不逞の男は四肢を裂いてやると約束しよう。だから俺の花嫁になってくれないか?」
初音は、ひいた。どんびきだった。
暴漢に襲われたことはないが、人間を塵に帰すと言われても怖いだけだし、ひそかに想いを寄せてくれる男がいるなら、むしろその男の花嫁になりたかった。
顔を青くして、自分の手を握る高雄の手から逃れようとする初音を見るに見かねたように白髪の少女が口を挟む。
「高雄様、樹莉。そのくらいにしておけ。かえって初音様の好感度が下がっておるわ。なんじゃ、人間の作法はよくわからんが、とりあえずそこの男の言う通り、もてなされたほうがいいのじゃないかえ? 初音様は親の許可がどうのと言っておられたことだし、その親御を呼んで許可を取るのがいいと思うのじゃが」
「そんなのぜんぜん浪漫じゃありませんわ、雪姫」
「浪漫より、統領の嫁取りが無事に叶うほうが大切じゃろう。さぁさぁ、そこの男。高雄様の威圧をゆるめる術をかけてやるから、その別室とやらに疾く案内せんか。して、すぐに初音様の親御を呼ぶのじゃ」
その場をしきり始めた美少女を止める者はいなかった。
白髪の少女が手を振ると、華厳校長は氷が溶けたようにゆるりと手を動かした。そして慌てて立ち上がると「こちらです」と先に立って歩き始めた。
高雄に手を引かれた初音が動けずにいると、白髪の少女が隣に来て、そっと腕を貸してくれた。
「うちの統領が強引ですまんのう。いつもはもう少ししゃんとしておるのじゃが、浮かれておるようじゃわ。まぁ悪いようにはせぬゆえ、ついてきてくれんか」
自分よりも幼く見える少女に困ったように言われ、初音はおずおずとうなずいた。
この時、初音はまだ、自分の未来が急に変わろうとしていることに気付いていなかった。
呆然としている少女たちの中で、百合子だけが初音を気遣わしげに見送っていたことにも。
華厳校長が案内した別室とは、学校の門の外にある瀟洒な洋館だった。
学校の一部ではあるが、ここに入れるのは校長や理事たちだけなので、初音はこの建物を外からしか見たことがなかった。
この洋館は、青都女学校の設立に手を尽くしてくださったさる公爵夫人がかつて住んでいた建物である。
「世の中を支える能力は、女子も男子と同じく持っているもの。なのに女子に教育が与えられないのはいかがなものか」とおおせになり、思想を同じくする夫人方とこの学校の設立に尽力された女性だ。
彼女が亡くなった後、遺族は彼女の遺志を重んじ、この建物を女学校に寄付してくださった。
クリーム色の外壁に大きな出窓……。
入口に立った初音は、そっと周囲を見渡しては、外国の風景画のようなこの建物に自分が入れることに、感激した。中に一歩足を踏み入れて、息を吞む。
(なんて素敵なのかしら……。外から見ていた時もとても素敵だと思っていたけれど、中もとても素敵)
西園寺の屋敷も立派だけれど、古い日本式の建物に唐突に異国の建築様式が混ざっていて、どこかいびつなのである。
建物に入るとすぐ吹き抜けの広間があり、つやつやした深い色の木の階段が二階へと続いている。
白い壁に模様のような木の枠組みが映え、きらめくシャンデリアは夢のようだ。
「こちらへどうぞ」
ともするとぽかんと見惚れてしまいそうな初音をよそに、高雄たちは落ち着いていた。華厳校長はそんな彼らと目を合わせないように目を伏せつつ、奥の部屋へ高雄たちを案内する。
その部屋もまた、素晴らしい部屋だった。
初音は、その部屋がずっと外から見て憧れていた部屋だと気づいた。
薄いレースのカーテンがかけられた大きな出窓が、部屋の三面をぐるりと囲っている。壁紙は淡い緑に控えめなすずらんの花が描かれたもので、猫脚のソファの背や座面もおそろいの色合いのダマスク織の布が張られており、さわやかな中にかわいらしさが見える。
学校へ通う道の途中で、揺れるカーテンの奥に時折見えた憧れの部屋が、目の前にあった。
ふわふわと夢見心地の初音は、高雄に手を引かれるままに彼の隣に座らされたことにも気づかない。
高雄と初音が並んで校長の向かいのソファに座ると、雪姫たちはその後ろに立った。
雪姫はともかく、火焔たちは校長の頭ひとつは大きい。女性である樹莉ですら、人間の男としては平均以上の身長である校長と同じくらいの長身で、並んで立つと威圧感がある。
校長は四人にも腰をかけるよう促すが、それは火焔がひとこと「必要ねぇ」と笑い飛ばす。
「相手がどんなやつだとしても、初めて招かれた相手の屋敷で統領のツレである俺たちがのんきに座ってられるかよ」
火焔は気負った様子でもなく笑って言うが、校長たちの間には緊張が走る。
初音は、火焔が口にした「ツレ」という言葉に、なるほどと心の中でうなずいた。
高雄と、ともに来た四人の男女の関係はどういったものなのかと思っていたのだ。
彼らは高雄を「統領」「高雄様」と呼び、明らかに上下関係があるようだが、藤の花のあたりで待機している従者たちとは異なり、高雄と親しげに遠慮なく言葉をかわす。もし初音が家族にあのような口をきいたら、三日は食事を与えられないだろう。
(どういったご関係かと思っていましたけれど、なるほど、「ツレ」というご関係だったのね)
それは初音の知らない言葉で、知らない関係だった。
じわりと初音の心に、憧れのようなものが生まれる。
けれど初音がそれを自覚するより前に、校長が追従するように笑って言う。
「そのように警戒なさることはございますまい。私たちは鬼神様方にあだなそうなどと考えておりません。ええ、その証に、そこの女学生の父へはすでに連絡済みでございます」
校長の言葉に、初音は息を呑んだ。
(いつの間に……?)
高雄たちの話を聞いて、初音の父を呼ぶべきだと気を利かせたのだろうが、校長がいつその手配をしたのか、初音は気づかなかった。なのに、すでに初音の父を呼んだという。
高雄たちの前では委縮し、気をゆるめた瞬間に膝をつこうとするどこかおかしな華厳校長を見ていた初音は、目の前の男性がふだんは自分たち女学生にとって声もかけられないほど偉い方なのだということを思い出す。
華厳校長がこんなに丁重な態度に出ているのは、それだけ彼が高雄たちを恐れているからだ。高雄が初音を選ばなければ、彼は初音など目もとめなかっただろう。
そう思い当たり、初音は緊張でやや崩れていた姿勢を正す。
高雄はそんな初音をいたわるように優しく見つめたが、ふいに険しい視線を入口に向けた。
「なるほど。ところで、入口で騒いでいるおなごがいるな。初音の妹だと名乗っているようだが、あれもお前たちが呼んだのか?」
「は……?」
突如高雄の厳しい視線にさらされ、校長の顔色が真っ白に変わった。
高雄たち鬼神はそこにいるだけで人間には耐えられないほどの覇気を放っている。それは少しでも気を抜けば、頭を上げ、言葉をかわすことなどできなくなる類のものだ。
校長が彼らの対面のソファに腰かけて座っていられるのも、雪姫の術に助けられてのことだった。
「わ、私は、その女学生の家へ連絡をやり、父君である西園寺侯爵をお呼びしただけです」
校長は、もともと初音のことを知っていた。
といっても知っていたのは、その名前と、西園寺家に生まれた「無能」の長女であること、彼女がこの女学校に入学したこと。
そして姉とは異なりそれなりの異能を持つ妹が、その一年後にこの女学校に入学したということを耳に挟んだ程度だ。
この女学校に通う女学生は大勢いる。多少家柄がいい者も、能力がある者もいるが、校長にとっては皆、似たりよったりだ。西園寺侯爵姉妹も校長にとっては気に留めておくほどの価値はなかった。
だが、今。光れる藤の門から現れたあやかしの統領が、その取るに足りない女学生を花嫁にしたいと望んでいた。
その女学生が婚儀は家が決めるものだと言い張り、鬼神である彼の求婚を拒否したと部下から聞いた校長は、鬼神を怒らせてはならぬと震えあがり、初音の親を連絡用の式神で「至急」と言って呼び出した。だがこのせわしない最中に、校長の頭には初音の妹のことなどよぎりもしなかった。当然、初音の妹をこの場に呼んだりはしていない。
「そのような者はこちらに呼んでおりませんが」
剣呑に目を光らせる高雄に、校長はきっぱりと否定した。
「なるほど」
高雄は、妹と聞いて身をこわばらせた初音を見て、何事か考えているようだった。
「ならばその娘、ここに連れてこい。あぁ、余計な口などきけないよう、丁重にな」
華厳校長が慌てて部屋を出ていくのを、初音は不思議そうに見送った。
この洋館の扉は厚いので、入口に来ているという華代の声は、初音には聞こえなかった。
(この方には、華代の声が聞こえているのかしら)
隣に座っているのに、不思議なことである。
とはいえ、この男が初音の前に現れてからのことすべてが、不思議なことだ。
それに比べれば、少しばかり耳がいいことなど些細なことなのかもしれない。
しばらくして、華厳校長が扉を開けた。
「お待たせいたしました。西園寺華代を連れてまいりました」
華厳校長に背を押されるようにして、華代は部屋に入ろうとし、……そのまま扉のそばで跪いた。
「……っ?」
華代本人には、不本意なことなのだろう。
膝をつき、胸の前で両手を組み、頭を下げるという、ちょうど初音の級友たちが高雄を見た時と同じような姿勢をとりながら、かぁっと耳まで怒りで赤くなっていた。
横を通り過ぎながら、校長はそんな華代を呆れたように見下ろす。
「娘。呼ばれたわけでもないのに、なぜここまで押し掛けたんだ? ずいぶん愉快なことを戸口ではわめいていたようだが、ここでは言わぬのか?」
高雄は入口で跪く華代を見て、いっそ優しく感じられる声音で言う。
けれどその目は冷たく、厳しく華代に向けられていた。
「これこれ、統領。統領の御前で声を出せとは、並みの人間には酷というものじゃよ。人間とは本来、か弱いものじゃからのう。統領の花嫁であらせられる初音様と同じように扱っては気の毒じゃよ」
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