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番外編
IFストーリー【アーダルベルト・フックス(ジーン)】②
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IFストーリー【ジーン】① 続き。
****************
「リツ、もう目を開けてもいいんじゃない?」
アーダルベルトの低い声が耳をくすぐる。薄っすらと目を開けるといつの間にか吹雪は消え、大小様々な建物が立ち並ぶ広い道に立っていた。アーダルベルトの家とは違い石造建物が多く見られる。屋根に雪が分厚く積もっている。分厚いコートを着た人々が行き交い、中々に賑やかな所である。
「リツの好きそうなお店あるよ~」
アーダルベルトに手を引かれやって来たのは菓子の店である。暖かな店の中に足を踏み入れると、甘い匂いで溢れていた。
「いい匂い…美味しそう」
気分が向上し口角が持ち上がる。籠に積まれた砂糖でコーティングされた焼き菓子。アグダン国の菓子とはまた違った良さがある。店の隅にはイートインスペースがあり、買ってその場で食べられるようだ。アーダルベルトは二人分の菓子を購入し椅子に腰かけた。私もそれに倣い隣に座る。彼から菓子を受け取ると、まだほんのりと温かかった。一口齧れば口の中に優しい甘さが広がる。シャリシャリとした砂糖のコーティングの食感が楽しい。
「美味しい」
「ここの菓子、俺が子供の頃からあるんだよ~」
そう話すアーダルベルトの瞳は懐かしそうにふと細められた。その中のわずかな翳りに気づいてしまった。ゆらゆらと揺れるその暗い瞳に言いようもない不安を感じた。
「リツのおかげで久しぶりに来たよ」
「そっか…」
アーダルベルトは何を感じ、そんな顔をするのだろうか。
目を伏せていた彼はふっと顔を上げ笑みを浮かべる。
「他のお店行こっか~」
手を差し伸べられ、一瞬迷った後その上に自分の手を重ねた。ほんの少し、ここで逃げてしまえばどうなるだろうという考えが浮かび、しかしそれをすぐに頭の中から追い払った。逃げる事などできまい。
石畳の上をのんびりと二人で歩く。外はとても寒いというのに繋がれた手は熱く、何を考えるでもなくその繋がれた手を眺めていると次の目的地に到着した様だった。
「雑貨が売っている店だよ~」
言葉の通り、可愛らしい小物や生活に必要な数多くの品物が並んでいる。どことなく北欧を思わせるデザインの物が多く感じた。
ふと一つの小ぶりな花瓶が目に留まった。深い海の様な色合いにアーダルベルトの瞳の色を連想した。
綺麗な青をじっと見つめていると、彼が横からそれをひょいと手に取った。
「これが欲しいの?買ってあげる~」
「え、ちょっと…見ていただけで…」
私の言葉を最後まで聞かずそのまま店主を呼び購入してしまった。
嬉しそうに包まれた花瓶を彼から手渡され苦笑する。男性というものは何故物を買い与えたがるのであろうか。ふとサージェの顔が浮かんで消えた。
「花瓶なら、花も必要だよね~」
そう言いながら店から出るアーダルベルトの背を追いかけた。
それから色んな店に立ち寄り、最後に花屋へ寄り淡い桃色の大輪の花を購入した。彼の家へ戻ったのは日が傾きはじめた頃である。外出自体が久々だった為に体力が大幅に削られた気がする。今日はよく眠れそうだ。窓際に置いた花瓶に花を飾り、横に立つアーダルベルトの笑みに微笑み返した。
その夜うめき声で目が覚めた。隣で体を丸めて眠るアーダルベルトの方から聞こえる。カーテンの隙間から月明かりが差し込み、彼の苦し気な表情を照らす。額からは汗が流れ、何か悪夢を見ているようだった。うめき声が止まる事は無い。
「これは起こした方が良いのかどうか…」
躊躇いつつもアーダルベルトの頭をそっと撫でた。嫌な夢を見ないように優しく撫で続けていると、ふるりと睫毛が揺れ海の色が顔を覗かせた。ほの暗い虚ろな瞳がそろりと私を見つめてくる。
「ねぇ…君は俺を一人にしないよね…?」
アーダルベルトの腕がこちらへ伸び、私の腰に回った。そのままぎゅっと抱きしめられる。突然の事に動揺し何も言えないままでいる私に、彼はその腕に更に力を込める。
「両親と二人の兄が血まみれで這いずってくる夢を見た。俺が殺したと、赦さないって叫びながら這い寄って来るんだ…」
彼は空っぽの瞳で私を覗き込む。
「父も文官だった。父は国のやり方に異を唱えていた。所謂反乱分子ってやつ。家族みんなで国外へ逃亡する計画だったんだ。俺が8歳の頃だった。それで…」
彼はぽつぽつと話しはじめた。
その当時移動魔法は父親と母親しか使えなかった。移動魔法も最高二人までしか移動させる事は出来なかった為、5人で逃げるには馬車で逃げるほか手段は無かった。逃亡当日、家からそれなりに離れた森の中で家族皆で身を寄せて暖を取っている時だった。深夜に逃げ出した為ぼんやりしていた俺は大事にしていた魔法書を忘れた事に気づく。すぐに家に引き返えそうとした俺を、慌てて父親が止める。ため息をついた父親は仕方ないなと苦笑しながら、母親にこのまま長男と次男を連れて目的地まで向かうよう伝え、俺と共に移動魔法で家の近くまで戻った。家の中に不審な様子は無く、周りにも人影は見当たらない事を確認した父親がうなずいたのを見て俺は家に入った。目的の本を手に取り部屋を出ようとした時、急に俺の体が浮いた。手足をばたつかせるも地面に足がつく事はなかった。父親が絶望的な表情を浮かべたのが視界に入る。俺のすぐそばで知らない男の声がした。
「倅の命が惜しくば抵抗せずに膝を付け」
父親はその指示に従い静かに膝をついた。俺はいまだに何が起こっているのか分からなかった。
ただ、俺の首根っこを掴み宙づりにした男の口から漏れ出る笑いが不愉快だった。
そのまま父親と共に見知らぬ大きな建物に連れて行かれ、たくさんの男たちに囲まれた。
父親と男たちが言い争いをはじめた。どのくらいの時間が経ったか分からなかったが、目的地へ向かったはずの母親や兄たちも屈強な男たちに連れられやって来た。母親も兄たちの表情も真っ青になり震えている。
「お前たち、何故…!」
父親の焦りを含んだ声に母親が震えながら答える。
「中々戻って来なかったから、心配で私たちも戻りました」
俺はここでようやく自分が置かれている状況を理解した。自分が忘れ物を取りに家に戻りたいと駄々を捏ねたせいで全員が捕まってしまったのだと。自分の体が震えはじめたのを感じた。
俺たちを捕らえた男たち、おそらく文官であろう。一番偉そうな男が口ひげを触りながら進み出て父親に言い放った。
「今ここで忠誠を誓い直すならば今回の事は許そう」
父親は迷っているようであった。母親が縋るように父親を見ている。
苦痛を堪えるような父親の表情に男は嘲笑を浮かべた。一人の部下であろう男が母親の背後に立ち無言で剣を振るうのが見えた。ぬちゃりと粘着質な音を立て母親の首は父親の足元へと転がって行った。声にならない叫びをあげた。頭が真っ白になる。
「もう一度聞こう、忠誠を…」
男の言葉が続くことは無かった。長男が腰の剣を抜いたのだ。父親が慌てて長男を抑えるも、長男は18歳の体格の良い青年だ。父親を振り切り男へ切りかかった。男が鬱陶しそうな表情を浮かべ、長男に向けて手を横に振った。
「あぁぁぁぁ!」
叫んだのは父親だったのか兄だったのか、もう分からない。長男の腹から鮮血が溢れ出そのまま彼が倒れていく様がいやに遅く見えた。次男が長男の元へと走り寄る。ぴくりとも動かない長男の様子に俺の足はとうとう機能しなくなり、床にへたり込んでしまった。父親の瞳も残った兄の瞳にも光は無かった。
「私もね、気が長いほうでは無いんだよ。海を渡った東の大陸には″神の顔も三度まで"という言葉があるらしいじゃないか」
男が口ひげを触りながらにんまりと笑う。その笑みはどこか死神を思わせる。
父親は俯き何かを考えているようだった。兄は虚ろな瞳を父親へ向け、そして諦めたようにそっと微笑んだ。父親が腹を決めたように顔を上げ口を開いたのと、次男の首が床に転がったのは同時だった。父親の目が見開かれる。
「今…!忠誠を誓うと言おうと…俺は!あぁぁぁぁぁ!」
父親の慟哭が部屋に響き渡った。俺は震える足をどうにか立たせ、床に転がった母親の亡骸に緩慢な動きで近寄った。床はぬるりとした血液が広がり、自分の靴に赤が染みる。命を失った母親の体は冷たかった。俺が、殺したのか。心臓がぎしりと軋む。
文官の男が呆れたように息を吐き、近くに居た部下に指示を出す。父親は膝立ちにさせられ、目の前に剣を突き付けられている。
「もっと早い段階で忠誠を誓っておけば良かったものを。貴重な人材を失うのは残念だが…もうお前はいらないな。選ばせてやろう。残った息子と共に死ぬか…それとも息子がお前を殺すのならば、息子だけは助けてやろう」
どうする?と実に楽し気な表情で男は嗤った。ぼんやりとした頭で聞いていた俺には理解が出来なかった。父親の瞳からは涙が静かに流れている。静かに父親の口が動くのをただ見ていた。
「アーダルベルト、こんなことをさせる父を赦せ…さぁ、父さんを殺しなさい」
自分が本当に父親を殺したのかは、頭に霞がかかったように思い出せない。ただ自分の手の中にはじめて感じる感触と、床に転がる父親の亡骸がある。俺が生きているという事はつまりはそう云う事であろう。
「アーダルベルト、これからはお前が父親の仕事を継ぐのだ。忠誠を誓え」
人間の皮を被った死神が目の前でにんまりと嗤う。俺は跪き頭を垂れた。
話し終えたアーダルベルトの表情には何も浮かんでいないようにも、後悔をしているようにも見えた。私は何も言えずそっと彼の頭を抱きしめる。叫びだしたかった。こんな過去は知りたくなかった。知ってしまったら、彼を捨てて逃げる事などできやしない。これは憐憫だろうか、それとも…。
「俺が殺したんだ。優しかった母を、兄貴たちを、父を…俺が…」
淡々と言葉を紡ぐアーダルベルトを更に強く抱きしめる。彼は私に縋りつき静かに震えはじめた。
私は何を言えば良いのか分からない。ただ心臓を握りしめられているような、そんな息苦しさがあった。
窓際に飾った大輪の花が、月明かりを受けぼんやり青白く浮かんでいる。美しく咲き誇っているそれを見て私の瞳から涙が零れた。景色が滲む。
その花の名も、この感情の名も私にはわからない___。
****************
「リツ、もう目を開けてもいいんじゃない?」
アーダルベルトの低い声が耳をくすぐる。薄っすらと目を開けるといつの間にか吹雪は消え、大小様々な建物が立ち並ぶ広い道に立っていた。アーダルベルトの家とは違い石造建物が多く見られる。屋根に雪が分厚く積もっている。分厚いコートを着た人々が行き交い、中々に賑やかな所である。
「リツの好きそうなお店あるよ~」
アーダルベルトに手を引かれやって来たのは菓子の店である。暖かな店の中に足を踏み入れると、甘い匂いで溢れていた。
「いい匂い…美味しそう」
気分が向上し口角が持ち上がる。籠に積まれた砂糖でコーティングされた焼き菓子。アグダン国の菓子とはまた違った良さがある。店の隅にはイートインスペースがあり、買ってその場で食べられるようだ。アーダルベルトは二人分の菓子を購入し椅子に腰かけた。私もそれに倣い隣に座る。彼から菓子を受け取ると、まだほんのりと温かかった。一口齧れば口の中に優しい甘さが広がる。シャリシャリとした砂糖のコーティングの食感が楽しい。
「美味しい」
「ここの菓子、俺が子供の頃からあるんだよ~」
そう話すアーダルベルトの瞳は懐かしそうにふと細められた。その中のわずかな翳りに気づいてしまった。ゆらゆらと揺れるその暗い瞳に言いようもない不安を感じた。
「リツのおかげで久しぶりに来たよ」
「そっか…」
アーダルベルトは何を感じ、そんな顔をするのだろうか。
目を伏せていた彼はふっと顔を上げ笑みを浮かべる。
「他のお店行こっか~」
手を差し伸べられ、一瞬迷った後その上に自分の手を重ねた。ほんの少し、ここで逃げてしまえばどうなるだろうという考えが浮かび、しかしそれをすぐに頭の中から追い払った。逃げる事などできまい。
石畳の上をのんびりと二人で歩く。外はとても寒いというのに繋がれた手は熱く、何を考えるでもなくその繋がれた手を眺めていると次の目的地に到着した様だった。
「雑貨が売っている店だよ~」
言葉の通り、可愛らしい小物や生活に必要な数多くの品物が並んでいる。どことなく北欧を思わせるデザインの物が多く感じた。
ふと一つの小ぶりな花瓶が目に留まった。深い海の様な色合いにアーダルベルトの瞳の色を連想した。
綺麗な青をじっと見つめていると、彼が横からそれをひょいと手に取った。
「これが欲しいの?買ってあげる~」
「え、ちょっと…見ていただけで…」
私の言葉を最後まで聞かずそのまま店主を呼び購入してしまった。
嬉しそうに包まれた花瓶を彼から手渡され苦笑する。男性というものは何故物を買い与えたがるのであろうか。ふとサージェの顔が浮かんで消えた。
「花瓶なら、花も必要だよね~」
そう言いながら店から出るアーダルベルトの背を追いかけた。
それから色んな店に立ち寄り、最後に花屋へ寄り淡い桃色の大輪の花を購入した。彼の家へ戻ったのは日が傾きはじめた頃である。外出自体が久々だった為に体力が大幅に削られた気がする。今日はよく眠れそうだ。窓際に置いた花瓶に花を飾り、横に立つアーダルベルトの笑みに微笑み返した。
その夜うめき声で目が覚めた。隣で体を丸めて眠るアーダルベルトの方から聞こえる。カーテンの隙間から月明かりが差し込み、彼の苦し気な表情を照らす。額からは汗が流れ、何か悪夢を見ているようだった。うめき声が止まる事は無い。
「これは起こした方が良いのかどうか…」
躊躇いつつもアーダルベルトの頭をそっと撫でた。嫌な夢を見ないように優しく撫で続けていると、ふるりと睫毛が揺れ海の色が顔を覗かせた。ほの暗い虚ろな瞳がそろりと私を見つめてくる。
「ねぇ…君は俺を一人にしないよね…?」
アーダルベルトの腕がこちらへ伸び、私の腰に回った。そのままぎゅっと抱きしめられる。突然の事に動揺し何も言えないままでいる私に、彼はその腕に更に力を込める。
「両親と二人の兄が血まみれで這いずってくる夢を見た。俺が殺したと、赦さないって叫びながら這い寄って来るんだ…」
彼は空っぽの瞳で私を覗き込む。
「父も文官だった。父は国のやり方に異を唱えていた。所謂反乱分子ってやつ。家族みんなで国外へ逃亡する計画だったんだ。俺が8歳の頃だった。それで…」
彼はぽつぽつと話しはじめた。
その当時移動魔法は父親と母親しか使えなかった。移動魔法も最高二人までしか移動させる事は出来なかった為、5人で逃げるには馬車で逃げるほか手段は無かった。逃亡当日、家からそれなりに離れた森の中で家族皆で身を寄せて暖を取っている時だった。深夜に逃げ出した為ぼんやりしていた俺は大事にしていた魔法書を忘れた事に気づく。すぐに家に引き返えそうとした俺を、慌てて父親が止める。ため息をついた父親は仕方ないなと苦笑しながら、母親にこのまま長男と次男を連れて目的地まで向かうよう伝え、俺と共に移動魔法で家の近くまで戻った。家の中に不審な様子は無く、周りにも人影は見当たらない事を確認した父親がうなずいたのを見て俺は家に入った。目的の本を手に取り部屋を出ようとした時、急に俺の体が浮いた。手足をばたつかせるも地面に足がつく事はなかった。父親が絶望的な表情を浮かべたのが視界に入る。俺のすぐそばで知らない男の声がした。
「倅の命が惜しくば抵抗せずに膝を付け」
父親はその指示に従い静かに膝をついた。俺はいまだに何が起こっているのか分からなかった。
ただ、俺の首根っこを掴み宙づりにした男の口から漏れ出る笑いが不愉快だった。
そのまま父親と共に見知らぬ大きな建物に連れて行かれ、たくさんの男たちに囲まれた。
父親と男たちが言い争いをはじめた。どのくらいの時間が経ったか分からなかったが、目的地へ向かったはずの母親や兄たちも屈強な男たちに連れられやって来た。母親も兄たちの表情も真っ青になり震えている。
「お前たち、何故…!」
父親の焦りを含んだ声に母親が震えながら答える。
「中々戻って来なかったから、心配で私たちも戻りました」
俺はここでようやく自分が置かれている状況を理解した。自分が忘れ物を取りに家に戻りたいと駄々を捏ねたせいで全員が捕まってしまったのだと。自分の体が震えはじめたのを感じた。
俺たちを捕らえた男たち、おそらく文官であろう。一番偉そうな男が口ひげを触りながら進み出て父親に言い放った。
「今ここで忠誠を誓い直すならば今回の事は許そう」
父親は迷っているようであった。母親が縋るように父親を見ている。
苦痛を堪えるような父親の表情に男は嘲笑を浮かべた。一人の部下であろう男が母親の背後に立ち無言で剣を振るうのが見えた。ぬちゃりと粘着質な音を立て母親の首は父親の足元へと転がって行った。声にならない叫びをあげた。頭が真っ白になる。
「もう一度聞こう、忠誠を…」
男の言葉が続くことは無かった。長男が腰の剣を抜いたのだ。父親が慌てて長男を抑えるも、長男は18歳の体格の良い青年だ。父親を振り切り男へ切りかかった。男が鬱陶しそうな表情を浮かべ、長男に向けて手を横に振った。
「あぁぁぁぁ!」
叫んだのは父親だったのか兄だったのか、もう分からない。長男の腹から鮮血が溢れ出そのまま彼が倒れていく様がいやに遅く見えた。次男が長男の元へと走り寄る。ぴくりとも動かない長男の様子に俺の足はとうとう機能しなくなり、床にへたり込んでしまった。父親の瞳も残った兄の瞳にも光は無かった。
「私もね、気が長いほうでは無いんだよ。海を渡った東の大陸には″神の顔も三度まで"という言葉があるらしいじゃないか」
男が口ひげを触りながらにんまりと笑う。その笑みはどこか死神を思わせる。
父親は俯き何かを考えているようだった。兄は虚ろな瞳を父親へ向け、そして諦めたようにそっと微笑んだ。父親が腹を決めたように顔を上げ口を開いたのと、次男の首が床に転がったのは同時だった。父親の目が見開かれる。
「今…!忠誠を誓うと言おうと…俺は!あぁぁぁぁぁ!」
父親の慟哭が部屋に響き渡った。俺は震える足をどうにか立たせ、床に転がった母親の亡骸に緩慢な動きで近寄った。床はぬるりとした血液が広がり、自分の靴に赤が染みる。命を失った母親の体は冷たかった。俺が、殺したのか。心臓がぎしりと軋む。
文官の男が呆れたように息を吐き、近くに居た部下に指示を出す。父親は膝立ちにさせられ、目の前に剣を突き付けられている。
「もっと早い段階で忠誠を誓っておけば良かったものを。貴重な人材を失うのは残念だが…もうお前はいらないな。選ばせてやろう。残った息子と共に死ぬか…それとも息子がお前を殺すのならば、息子だけは助けてやろう」
どうする?と実に楽し気な表情で男は嗤った。ぼんやりとした頭で聞いていた俺には理解が出来なかった。父親の瞳からは涙が静かに流れている。静かに父親の口が動くのをただ見ていた。
「アーダルベルト、こんなことをさせる父を赦せ…さぁ、父さんを殺しなさい」
自分が本当に父親を殺したのかは、頭に霞がかかったように思い出せない。ただ自分の手の中にはじめて感じる感触と、床に転がる父親の亡骸がある。俺が生きているという事はつまりはそう云う事であろう。
「アーダルベルト、これからはお前が父親の仕事を継ぐのだ。忠誠を誓え」
人間の皮を被った死神が目の前でにんまりと嗤う。俺は跪き頭を垂れた。
話し終えたアーダルベルトの表情には何も浮かんでいないようにも、後悔をしているようにも見えた。私は何も言えずそっと彼の頭を抱きしめる。叫びだしたかった。こんな過去は知りたくなかった。知ってしまったら、彼を捨てて逃げる事などできやしない。これは憐憫だろうか、それとも…。
「俺が殺したんだ。優しかった母を、兄貴たちを、父を…俺が…」
淡々と言葉を紡ぐアーダルベルトを更に強く抱きしめる。彼は私に縋りつき静かに震えはじめた。
私は何を言えば良いのか分からない。ただ心臓を握りしめられているような、そんな息苦しさがあった。
窓際に飾った大輪の花が、月明かりを受けぼんやり青白く浮かんでいる。美しく咲き誇っているそれを見て私の瞳から涙が零れた。景色が滲む。
その花の名も、この感情の名も私にはわからない___。
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