電車で眠っただけなのに

加藤羊大

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第40話 起点

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 腹は決まった。うじうじ考えていても進まない。
サージェの視線を真正面から受け止める。
退路を断つやり方には釈然としないが、これも惚れた弱みだ。
心臓が早鐘を打つ。緊張で口の中が乾いている。
「…私もあなたの事が好きです」
存外小さな震え声が零れた。
アメジスト色の瞳が大きく見開き、そして口元を綻ばせる。
次の瞬間サージェの腕の中に囲われていた。
爽やかな優しい香りが鼻を掠める。
胸にそっと頬を押し当てると、彼の心臓が激しく脈打っているのを感じた。
あぁ、彼も私と同じなのだ。その事にどこか安心し目を瞑った。
暫く抱きしめ合っていると、扉の隙間から気まずそうなイデアの顔が覗く。
「えっと、お二人さんもう宜しいですか…?」
彼の顔の下には、頬を染めにんまり笑う顔が縦に三つ並んでいた。
 ただ白旗を掲げるだけでは負けたような気がする為、三つのお願いをしてみた。
「すぐに結婚するのではなく、婚約期間を最低一年設けて欲しいです」
少しずつ彼の事を知っていきたい。恋人期間と云うのだろうか、そういった時間が欲しかった。
婚約期間は一緒に暮らすことが出来ないので不服だと云いつつも、サージェは苦い表情で了承する。
イデアが引きつった笑みで彼を宥める。
「あまり束縛すると逃げられますよ」
その一言にすっと視線を逸らすサージェが愛おしい。
「一度は自立した生活を送りたいので、結婚までは一人暮らしを希望します」
独り暮らしは心配だと言われたが、ここは譲れない。いつまでもパルマやアラムに甘えていてはいけないと思ったのだ。日本でも経験した事が無かったので、一度は試してみたかったのである。
自立しないまま彼の元に行くのは何だか気が引けた。
「家の鍵を私にも渡すならば」
凄みのある笑顔を張り付け、サージェは渋々受け入れた。
「絵の仕事はできれば続けたいです。ようやく幼い頃の夢が叶ったので」
これはあっさりと了承を得ることができた。絵を描く私がいかに生き生きしているかをアラムとパルマが語ったのが少々照れ臭かった。
サージェがにっこり笑ってひとさし指を一本立てる。
「私からも一つ。いずれ夫婦になるのだ。敬語は止めるように」
「ぜ、善処します」
サージェの指が私の唇に優しく触れた。
 話がまとまり、儀式の続きを行う事になった。何でも最後まで行わないと、婚姻は上手くいかないという言い伝えがあるそうだ。
本来はあのまま私が答え、書面にサインするものだったらしい。グダグダにして申し訳ないが、本人を抜いて話を進める方が悪いと開き直った。
イデアが仕切りなおすように、咳ばらいをする。
「では、リツ=スライマーンの回答を」
未だに実感が湧かない上に公開告白のようで恥ずかしい。
背筋を伸ばし、サージェを見つめる。しかし自分の気持ちは決まっている。
彼とこの国で生きて行こう。ふっと微笑みが浮かんだ。
「この婚姻、謹んでお受け致します」
イデアが重々しく金縁の紙を掲げる。
「ではこちらに双方の署名を」
ペンを手に取ったサージェが流れるように署名する。
彼からペンを受け取り、自分も紙に名を書き加えた。
「ルフ神の御前で、この男女が婚姻の約束を取り付けた事を宣言す。異議を唱える者は進み出よ」
誰も動かない事を確認したイデアはゆっくりと頷く。
「ではこれにて儀式を終了とする」
イデアの言葉で締めくくられ儀式は終わり、後は食事の間で全員で飲み食いする事になった。
見届け人を交えた交流は大事で、これも儀式のようなものだとサージェは笑った。
菓子や肉料理、スープなど、美味しそうな料理が並ぶ。モルン茶や紅茶もあり、頼めば使用人が持ってきてくれる。まだ結婚していないのに、まるで披露宴の様だ。
この国にも結婚式があり、どんな衣装にするだの、誰を招待するだの私そっちのけで話が盛り上がっているのには苦笑した。
和やかな雰囲気の中皆で酒を呑み交わし、賑やかな一日は終わりを告げる。
見送りの際にサージェから頬に口づけられ、意識が飛びかけた。
声にならずパクパクと口を鯉のように開け閉めする私は滑稽な姿に違いない。
「早く一年が過ぎれば良い」
そう耳元で囁かれ、抱きしめられる。頭から湯気が出そうである。
地に足がつかないような心地のまま帰路に就いた。



 夢を見ている。目の前には真っ白なキャンバスが置かれていた。自分の居る空間は真っ白でキャンバスと空間の境すらあやふやだ。私は絵を描きたくてしょうがない。手には筆が握られ、右側に両親と兄らしき人影、左側にパルマやサージェ達皆の姿があった。家族の顔は霧が晴れはっきりと見えた。あぁこんな顔だったと懐かしさに震える。
「お母さん、お父さん、兄さん。私絵描きになったのよ」
呼びかけても三人は微笑み立っているだけで、それでもただ会えて嬉しかった。
筆を握り直し、最初に誰を描こうかと楽しく選び出す。サージェのアメジスト色の瞳と目が合ってまず彼を描き始めた。そして描き終わり、ふと右側を見ると家族は誰もいなくなっていた。首を傾げ白い空間を探し回る。どうして消えてしまったのだろう。しばらく彷徨っているうちにキャンバスも人影も全て消え、目の前にルフ神が現れた。鳥の頭を持つその女神は私の頭をそっと撫でる。
「愛しい子、ここに根を張り生きなさい」
神が背を向け消えていく。薄っすらと輪郭を残すだけになった彼女に慌てて叫ぶ。
「待って!どういう意味?教えて!」
手を伸ばすが神には届かず、空を切る。

 ぱちりと目が覚めた。私の頬に涙が流れる。
どうして泣いているのか分からずに、片手で拭う。
何か夢を見ていた気がする。朝日が差し込み、細かな塵が星のように輝くのをぼんやり見つめた。
「あぁそうだ、今日は引っ越しの日だった」
こつこつと絵の仕事で貯めた金額は、空き家を借りるのには十分だった。今の家よりも更に西に位置している。広場から遠ければ遠いほど家賃は安いそうだ。
アブダッドの友人が大家である。大通りから一本細い道へ入るが、人通りも多く安心らしい。前の住人が魔法を使えない人だったようで、魔法具が揃っているのが決め手になった。
ザワジェンから10日が経ち、これが人生はじめての独り立ちの日である。
パルマが寂しげに微笑む。
「忙しくても、ちゃんと食べないと駄目よ?」
「うん。教えてもらった料理を毎日作るよ」
「たまに遊びに行ってもいい?」
アラムが明るく振る舞い、私はもちろんと頷く。
共に暮らした家をゆっくりと見渡す。洗面台の魔法具に驚いたり。台所では二人と一緒に並んで食事の用意をした。食材を買い過ぎて冷蔵庫にぎゅうぎゅうに詰めた事もある。三人で一緒に紅茶を飲んだり、パルマの刺繍を見たり。じわりと目頭が熱くなる。
巣立つとはこのような気持ちになるのか。会おうと思えばすぐに会える距離なのに、寂しさが滲む。
存外私は寂しがり屋なのだ。
私物の入った大きな麻袋が部屋の隅に置いてある。中には画材や衣類が詰まっている。
持ち上げると中で顔料の瓶が少し音を立てた。
「いつでも遊びに来てちょうだいね。子が巣立つのがこんなにも…寂しいものだと思っていなかったわ」
「また顔を見せに来るよ。落ち着いたら、二人を招待するからね」
三人でぎゅうぎゅうと抱きしめ合う。
「行ってらっしゃい、リツ」
「行ってきます」
パルマの瞳に薄っすらと浮かぶ涙を見て、私も視界が歪み鼻がツンと痛くなった。
微笑みを浮かべ、私は今までの感謝の思いを込め頭を下げる。
ぽつりと地面に一滴零れ黒い跡が残った。
 新しい生活への一歩。いつもとは逆の方向へ歩き出す。空の青さが目に沁みた。
土壁の庶民の家屋が立ち並ぶ地区。同じ色合いの壁が延々と続く。
扉だけは彩り豊かである。
 新居の前に立ち、ゆっくりと息を吸う。
はじめての独り暮らしに寂しさと期待とが混じり合う。
鍵を開け、一歩家の中に足を踏み入れた。
シンと静まり返った狭い部屋、埃っぽい空気。まずは掃除をしなければなるまい。
食器や調理器具は後で揃える予定だ。棚に置かれたランプは比較的新しい物のようだった。
部屋の隅に巻いた状態で立てかけてある絨毯は、大家が譲ってくれると言っていた物だろう。
そして気づいた。ベッドが無い。空っぽの寝室部分を見つめ項垂れる。
家具屋はあるのだろうか。今まで用が無かった為行ったことが無い。
「一人暮らしは物入りだなぁ」
貯金額を思い浮かべ、苦笑する。
「よし、まずは掃除だ」
鼻と口を布で覆い隠し、窓を全開にする。
部屋に置いてあった箒を使い、掃き掃除をはじめた。掃くたびに箒の通った跡ができる。
前の住人は掃除が苦手だったのだろう。
古い布を破り、洗面台の水で濡らし、水拭きをすると元の床の色が見えた。
時間を掛け丁寧に掃除をしていくと、正午になる頃にはあらかた綺麗になった。
依頼された絵の下書きだけ終わらせ、午後に食器や調理器具を揃えに外出した。
自分の好きな食器を選べる事に心が弾む。
ベッドをどうするかも考えねばなるまい。たったの一年、されども一年。寝具は重要である。
気に入った食器類を手に入れ、その店で家具屋を紹介してもらう。
しっかりとした店構えのその家具屋は、随分と高級感のある店だが財布に優しいのだろうか。
「…ですよね」
結論から言うと高すぎて買えなかった。
桁の書き間違えではないかと思った程だ。
よくよく客を観察すると、どうやら貴族ばかりで私は浮いていた。
食器と調理器具選びに時間をかけすぎたのか、すでに夕焼け空が広がっている。
今日は寝具なしで頑張ろう。
途中、公共浴場にはじめて行った。入り口で3サル払う。大きな建物の中、広いプールのような浴室が広がっており、たくさんの人が利用している。あまり遅くなると暗くなるので、急いで体を洗った。
さっぱりとした気持ちで帰路に就く。新居の窓から明かりが漏れている。昼間にランプが使えるか確認した際につけっぱなしにしたのだろうか。
恐々と扉を開けると、誰も居ないはずの家に人影が見えた。どきりと心臓が跳ねる。
「お帰り、リツ」
続いて聞こえた声に安堵する。何故かサージェが座って待っていた。来訪の予定は無かったはずだと焦り、駆け寄ると彼に抱きしめられた。
「サージェ、どうしたのですか?」
「今日は引っ越しだろう?手伝えなくてすまなかった。あとあれを届けに」
指さした方角には寝室がある。まさかと思い、部屋を覗く。
「寝具が無いと大家から聞いていたのでな」
そこには柔らかそうなベッドが鎮座していた。持つべきものは未来の夫である。
「わぁ…!ありがとうございます!」
「妻には不自由させないつもりだ」
サージェに妻と言われ、内心悶える。ふと敬語を止めるよう言われたのを思い出す。
「もう少しして落ち着いたら、パルマ達を家に招待しようと思って。サージェ来てくれる?」
「あぁ、楽しみにしている」
サージェが嬉しそうに微笑む。
今までのお礼を込めた感謝パーティーを考えている。パルマから教わったたくさん料理を作って、菓子やフルーツティーも入れよう。パルマとアラム。シャヌにも手紙を書いて、イデア、アブダッドや店の皆にも声をかけてみようか。皆来てくれるだろうか。
 この国で無事に生きられたのは皆のおかげだ。この大切な繋がりが途切れない事を切に願う。
大切な人が傍にいて、優しい人たちに囲まれ、本当にやりたい仕事もできている。
サージェの手が頬に触れ、優しく撫でる。アメジスト色の瞳が幸せそうに細められ、互いの指が絡んだ。
たくさんの口づけが降ってくる。
今、人生で一番幸せな時間を過ごしているに違いない。


 もしかしたら。
この世界に突然来た時のように、いつか別れも言えずに消えてしまう日が来るのかもしれない。
それは明日かもしれないし、もっと先の未来かもしれない。
けれど、いつかその日まではどうか温かい日々を。
あなたと共に生きていきたい。
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