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わたしわすれ 〜指輪〜
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朝起きて、まずすることは寝床を抜け出して顔を洗うことだ。
それから朝刊を取りに行って、お仏壇の水を換えて、朝ご飯の準備にとりかかる。
一志さんはあまり朝は食べないからコーヒーを淹れるための準備をする。
トヨさんはご飯派だから、昨日の残りのご飯か冷凍ご飯をレンジにかける。
おかずはいつも、夕飯の残りだ。朝のために夜はいつも多めに作る。
一通り準備ができたところで、自分のためのパンを焼く。
その最中に、だいたいトヨさんが起きてくる。
一緒に朝ご飯を食べながら、テレビのニュースを流して、今日の予定や雑談を交わす。
食べ終わる頃に一志さんが降りてくるから、良い温度にさめたコーヒーを飲んで出発するのを見送る。
それからパートがある日はパートにでかけて、ない日は家の掃除をする。
夕方に向けて買い物をすまして、朝、トヨさんと相談した献立を分担してつくって一志さんの帰りを待つ。
なんてことのない一日だけど、私にとっては穏やかで幸せな日々だった。
こうして並べると退屈に見えるかもしれないけれど、毎日の中には笑いがあって、私たちにとっては事件とも呼べる出来事が定期的に巻き起こって、退屈しない日々だった。
ずっと続くと思っていた。
一志さんはずっと優しかったし、トヨさんはずっと私たちを見守ってくれると思っていた。
だけど、トヨさんの認知症が悪化するにつれて一志さんは母親の変わりようから目を逸らすようになったし、私は自分の力だけでかつての日々を取り戻そうと必死になりすぎた。
いつか壊れてしまう、とうっすら自覚をはじめた頃に、一志さんから有給の話を持ちかけられた。
いつもありがとう。仕事が一段落して、有給休暇が何日かもらえそうなんだ。数日だけど、その間、ゆっくり休んでほしい。
私はその提案に一も二もなく飛びついて、毎夜の徘徊への監視による睡眠不足から解き放たれた。
そして、目を覚ました時には……全てが終わっていた。
当時のトヨさんにとって、いつもと違うことを認識するのは困難だった。
いつも、私と一緒に一階のリビングで過ごしている時間帯に私がいない。
一志さんの存在なんて目に入らないし、私が二階で寝ているなんて夢にも思わない。
リビングにいないのなら、きっと外に出かけたのだろう、と玄関に目を向ける。
そこに結婚指輪が置き去りになっていると気付いたトヨさんは、実際には一志さんの結婚指輪を、私の物だと勘違いして……私を探しに旅立った。
数分後、母親が家から居なくなったことに気付いた一志さんは、慌てて探しに出かける。私を、一人、家に残して。
そうだったんだ。
だれも、悪くない。
二人とも、私のことを考えての行動だった。
私も、いつも二人のことを考えていたのに。
どうして、お別れすることに……なったの、かな。
「志穂さん」
「……っ!」
突っ伏した肩を、誰かに揺すられる。
顔を上げる心配そうに眉をひそめたハツカちゃんがいた。
「あ……すいません、ハツカちゃん私……」
「えーっと……コホン、さきほどのお客様は、無事に次の有涯へと旅立たれました。ご協力、ありがとうございました」
「へ?」
もうトヨさんはいなくなったはずなのに、ハツカちゃんは店主代理の仮面を被り直して鷹揚な態度で続ける。
「その後、また新たなお客様が現れたのですが……その、このたびのお客様の御忘物は、その……」
なにやら奥歯に物が挟まった物の言い方をするハツカちゃん。
私は不思議に思って、ハツカちゃんの背後に立っているお客様の姿を何気なくのぞきこんだ。
「………」
「少々複雑な事情がございまして……この度のお客様の御忘物は、その、トヨさまの御忘物を渡された日置志穂さま、とのことでございます。だから、その……」
私が……わすれ、もの?
小声で「消えないでね、志穂さん」と呟いた後、ハツカちゃんはお客様の名前を呼んだ。
「ですよね? 一志さま」
「志穂」
一志さんは、私が愛した姿のままだった。
うねる髪、薄く皺のある目尻、高い鼻、日に焼けるとすぐ赤くなる青白い肌……。
そして、やさしいまなざし。
椅子から立ち上がって、ヨロヨロと彼に近づく。
「ごめんなさい」
そして、一志さんの匂い。
私は死者に抱きしめられながら、懐かしい十年の日々を思い返した。
「ありがとう」
お礼を言うのは私の方だ。
謝罪をするのは私の方だ。
でも、トヨさんの時と同じく、私はなにひとつとして言葉を発することができなかった。
喉に詰まるたくさんの言葉や感情の苦さに目の前が滲む。
燃えるような熱さの涙が頬を流れていく。
一志さんは、もう私の涙を拭えない。
流れるがまま、そっと目を閉じる。
「さようなら」
最後の欠片まで逃さないよう、私は消えていく一志さんを抱きしめ返した。
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