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わたしわすれ 〜指輪〜
4-5
しおりを挟む一志さんの結婚指輪は、もちろん彼の薬指に常におさまっていた。
外出時に着けて家にいるときは外す癖があったから、玄関の小物入れが指輪の定位置だ。
事故の時は……一志さんもトヨさんも原型を……あまり留めていないからという理由で私は死後の姿を見ていない。薄情なことに。
本人確認は、比較的傷の少ない首から上で行った。それでも、顔の半分以上は包帯に覆われていたから、身体の損傷についてはそれ以上考えるのをやめた。
埋葬前に警察から返された指輪は、事故現場から遠く離れた側溝で発見されたと聞いた。指にはめていた指輪が飛ばされるほど、強い衝撃だったのだと理解していたけれど……真実は、違うのだろうか。
「………」
目を閉じると、瞼の裏に監視カメラ越しに見た二人の最期の姿が浮かび上がる。
自分が徘徊しているとは夢にも思わず交差点の真ん中でキョロキョロと辺りを見渡しながら立ち尽くすトヨさんに向かって、必死の形相で全力疾走する一志さん。
一志さんがトヨさんをかき抱いた瞬間、まばゆい光が一瞬にして二人をさらってしまった。
そしてその同時刻……私は、自宅で、呑気に寝ていた……。
「志穂さん? 志穂さんっ!」
事故のことを考えて、意識が遠のいていたらしい。
ハツカちゃんの声で正気に戻る。
「急に動かなくなちゃうから、びっくりしたよ」
「あ、ああ……すみません、大丈夫ですよ」
「本当に? だってこの指輪、旦那さんの指輪ってことは……」
「そうですね……もしかしたら、これから一志さんに出会えるかもしれません」
「やったじゃん! 志穂さん、旦那さんに会いたくてココにいるみたいなもんだもんねっ!
「えっ……?」
そういえば、最初にハツカちゃんからそう言われた気がする。
「よかったね、会いたい人に会えるよ!」
「え、ええ……」
会いたい、人……。
確かに、そうだ。
事故の日から、私はどれだけ一志さんにもう一度会いたいか渇望しただろう。
喉が灼けそうなぐらい泣き叫んで、どんなダイエットも無駄だった体重が知らない間にするすると落ちた。心は死んでいるのに、身体だけが生きている。
何度、代わりに私が死にますと居もしない神さまに願っただろう。
私の連日連夜の願いは、当然ながら神さまには無視された。
母と弟を一度に亡くした義姉さんも辛いだろうに、十分に詰られたけれど最後には彼女に体調を気遣われるほど私は消耗していた。
一志さんに、もう一度会いたかった。
さよならも言わずに、言えずに、永遠にお別れなんて絶対にイヤだった。
なにより、一志さんとトヨさんと私の三人で十年間幸せに過ごしていた日々が、あの日を境にまるで『トヨさんのせいで』終わってしまったように見えるのが心苦しくて、心臓がはちきれそうだった。
外野がなにを言おうが大事なのは自分の気持ちだと分かってはいるけれど、心の支えをいっぺんに失った私には、それほど強い自分の軸は持てなかった。
視点を変えれば、私たちの事故は『悪』の所在がコロコロと転換された。
フルタイム勤務でもない主婦の癖に介護すらまともにできず居眠りしている間に夫と姑を見殺しにした私、妻に介護を押しつけた挙げ句に格好つけて手伝いしようとしたものの勝手が分からず徘徊を許して死んだ自業自得の夫、認知症で息子夫婦の幸せを無に帰した最低な姑……それら全てが、正解で間違いだ。
耳を塞いでも、目を閉じても、事故直後は私たちへの好奇の目と罵詈雑言が村中に響き渡った。
誰も悪くない、絶対的な悪なんてない。
私は、私たちは……ただ、幸せに三人で、十年間も時を過ごしたのに。
春にはおにぎりを握ってお花見をして、夏には大汗をかきながらスイカのジュースを作って、秋は近くの山まで三人で紅葉を見に行って、帰りにお汁粉を食べて、秋は雪かきをしながら互いの働きを労った。なんでもない一日でも、トヨさんと一緒に献立を考えて、作って、一志さんのお土産のお菓子をみんなで食べたりして……穏やかで、楽しい日々だった。
それが、あの事故の日から……まるでなかったことのようにされて、私は、私は……。
「……っはあ、はぁ……」
私だけなんだ。
一志さんもトヨさんもいないのなら、私だけが、あの十年の日々を覚えていられる存在なんだ。
「し、志穂さん……?」
ここで私が折れたら、本当に幸せだった日々がなくなってしまう。
『故人は常に心の中に』という言葉は、覚えている存在がいてこその言葉。血のつながりがなくても、私たちは間違いなく同じ名字でつながった家族だった。
ゆらぐな、私。
思い出すんだ。一志さんにもう一度会いたかった理由を。
他人の言葉に惑わされちゃいけない。みんな好き勝手なことを言う。
私の辛さやかなしみを分かるのは、私しかいない。
私だけは、私の味方であれ。
「……だい、じょうぶ……です」
「ほんとに? なんか、辛そうだよ……アタシ、何か変なこと言ったかな?」
「まさか。ハツカちゃんのおかげで、私はずいぶん助かっています。いつもありがとうございます」
「いや、別にお礼を言ってほしいわけじゃないんだけど……まあ、その……」
素直に感謝の気持ちを伝えると、ハツカちゃんは年相応に恥ずかしがった。
彼女がどう思っているのかは分からないけれど……なにもかも失った私にとって、ハツカちゃんと過ごす時間はまるでまた家族ができたような心地で、とても救われた。
友人としての私を受け入れてくれてた時も、純粋に嬉しかった。
「志穂さんは、一応、友達……なんだし、アタシは志穂さんの味方だよ。誰が来ても、絶対に護ってあげるからね」
「………」
「あ、でもどうしてもダメだったら、おばあちゃんやお兄ちゃんに助けを求めるかもしれないけど……」
「………」
「どうしたの志穂さん? また何か……えっ? ちょ、ちょっと待ってよ」
「待つ、って……なにをですか?」
「えーっとえーっと、あっ、あった! ホラ、これこれ」
差し出されたのはテッシュペーパーの箱だった。
「……あ」
自分の頬に触れて、なまあたたかい涙が頬を伝っているのに気付く。
「なに泣いてるのよー! まぁアタシも人のこと言えないけどさ……。辛いことがあったばかりの志穂さんに、無神経なこと言ったかも……」
「いっ、いえいえ、そんなことないですよ……」
差し出されるまま数枚のテッシュペーパーを引き出して、涙を拭うついでに鼻をかんだ。
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