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第四話 境界標騒動
⑩
しおりを挟む「アイリス? そんなことはないハズだよ。今日だって二階で寝ているからね」
「ちょっと抜けてるところのある奥さんですから、連絡を返し忘れているのかもしれません」
「そうだよ。きっとそうだ」
「それでも、二週間も音信不通っていうのはおかしくないですか?」
「そうかな? 人それぞれじゃない?」
「さぁ、どうでしょう」
二人の会話を頭の上で聞きながら、嗅ぎ慣れた煙草の香りで段々気持ちが落ち着いてきた。ありったけの力を振り絞って上体を起こし、頭を押さえる。
「朝くん、大丈夫か?」
「急に体調を崩してしまったみたいで、ボクも心配していたんだよ」
「し、しらじら、し……」
思わず悪態をついてしまった。
そんな僕を諫めるようにシッと所長が舌打ちをする。
「じゃあ、ちょっとお会いしてもいいですか?」
「いいよ。呼んでこようか」
なかなかに酷い状態の僕を置いて、志田さんは二階へと上がっていく。
ほ、本当に僕にはあんまり興味ないんだな……。
志田さんが目の前から消えると、いきなり場の空気がゆるんだような気がした。
「朝くん! 平気か? なにもされてないか?」
「所長……。な、なにもされてはないですが……あの、その……」
僕が見たものを、所長に伝えるべきだろうか。
あんな凄惨な現場を、再び所長に思い出させる意味なんてあるのか?
でも、心底心配そうに僕を見ている所長を見ていると、そんな気遣いすら却って失礼かもしれない……なんて思った。
「僕の部屋にあった写真……本当に所長が撮ったものだったんですね」
「そうだけど? 俺が言ったじゃん……」
「妹さん、所長が写真を撮ってもらってとっても嬉しそうでしたよ。……所長、写真撮った後どこに行っちゃったんですか? 妹さん、ずっと所長に手を振っていたのに、一度も振り返らないんだから……」
特に悲しくないのに、何故か涙が一筋落ちて頬を伝った。
「あ、朝くん……」
所長が信じられないものを見るような目で僕を見る。
無特記物件を通して、僕なんかよりも奇々怪々なものなんてイヤほど見てるはずなのにな。
「すいません、ごめんなさい。み、見てしまいました……所長の言うとおり、あの……」
『志田さんが犯人です』とは何故か喉がつかえて言えなかった。これも、恐怖のなせる技だろうか。
「そっか……。分かった。良いよ、みなまで言うな」
僕がモタツいていたら、所長が察してくれた。
邪気を払うように背中をバンバンと叩かれる。
それは頬を叩くときのような力任せの衝撃ではなくて、労を労うような優しさがあった。……いつもは優しくないとか、そういう意味ではないけれど。
「頑張ってくれたんだな。大丈夫か? 狂ってないか?」
「い、今のところは……。おそらく」
「本当はもっと早く助け船を出してやるつもりだったんだが、電話が思いの外長引いてな。それに、どうしても気になることがあったんだ」
「気になること?」
「人間っていうのは、皆それぞれオーラと言うか波長を身にまとっている。色が付いて見えるという奴もいるし、匂いや音に例える奴もいる。そこはまぁ、感性の違いだろうな」
「バラエティ番組で、たまにやっていますよね」
こんな時になんで関係のない会話をしているんだ? と思わないこともないけれど、今はこの場違いさに救われる。
ついさっきまで、犯して殴られて切られて殺されるという追体験をしていたのだから、尚更だ。
「生きている人間には、なにかしらのサインがあるんだ。……でも、この家には三人分の気配しかない」
「三人って言うと……僕と所長と、志田さんですかね」
「案外、俺か朝くんがもうすでに死んでましたってオチかもしれないな」
「まさか。そんなわけないでしょう。すでに死んでいるとしたら、志田さんのほうですよ」
「おっ、朝くんも言うようになったな~」
所長だって、憎い相手がこんなに近い距離にいて(しかも、相手からは生霊を飛ばされるほどの執着されている)辛くないはずがない。
できるだけ恐怖に支配されてしまわないように、努めて明るく話した。
「……ありがとな」
「えっ?」
そんな僕の努力を知ってか知らずか、所長は急にしんみりと切り出した。
「どんな形であれ、今更妹の話を誰かと新しくできるなんて思ってなかったぜ。俺が望んで妹を縛り付けたっていうのに、安らかでいてくれなんて勝手すぎるよな」
「そんな、こと……」
「なぁ、本当に大丈夫か? 俺、キミのことを利用していないか? 協力、できているか?」
「………」
所長は今まで、自分一人だけで生きてきたんだろう。
だから、『利用』と『協力』の違いが分からないんだ。
僕だって、団体行動が苦手だし友達も少ないからちゃんとしたことはうまく言えないけど、でも……。
「里見くーん! ちょっと来てくれないかな?」
二階から志田さんの猫なで声がする。
行かないわけにはいかない。
僕は所長に肩を貸してもらって、なんとか立ち上がった。
フラフラだけど、地面に足は着く。
うん、まだやれる。
「……お礼を言われるのは、まだ早いってことですね」
汚れ果てたリビングを脱出すると、玄関に戻ってきた。
所長は今でも「先に帰れば」と僕に言いたそうだけれど、気がつかなかったフリをして二階に続く階段へと向かう。
途中にあるトイレやお風呂は、リビングと一転してとても清潔だった。
「部分的に汚れていたり綺麗だったり、っていうのは魔境館の一件を思い出しますね」
「そうだな。あれもケガレを閉じこめてお目当ての幽霊を逃さないようにするためだったっけな」
「……汚れている環境の方が幽霊にとって居心地が良いっていうのは、どこからきた考えなんでしょうね」
「おそらく、消えかけの雑多霊にとっての話だろ。自分で自分を保てないから、環境に依存するんだ。綺麗な場所であれば成仏しやすくなるし、汚い場所であればこの世により縛られる。居心地が良い、って主張するのは生きている人間の都合のいい解釈だろうさ。幽霊を利用したい奴らの詭弁ってところだな」
ギシギシと音を立てて階段を上がる。
二階は階段を上がりきったところで三つ部屋があった。
右側に一つ、左側に二つ。
おそらく、一つしかない方が夫婦の寝室でのこり二つがまだ見ぬ子供たちの部屋なんだろう。
二階から声を掛けられたと思ったのに、志田さんの姿はどこにもない。
「志田さん……どこにいるんでしょうか」
「ここだよ」
独り言のつもりで呟いたら、夫婦の部屋だろうと予想していたドアが開かれる。
いきなりだったので、開いた扉で鼻の頭をぶつけそうになってしまった。
「わっ……」
「ああ、ごめんね浅田くん。……ちょっと、いまアイリスは寝ているみたいなんだ。里見くんはもう何度もアイリスに会ってるからいいけど……浅田くんは初対面だし、ちょっと遠慮してくれないかな?」
「あ、はい……それはもちろん……」
もう名前間違いなんて些細な問題は気にしないでおこう。
扉が開いた瞬間、10月の気候からは考えられないほどの冷気が外に漏れだしてきた。
まさか、冷房をつけているんだろうか。僕なんかそろそろマフラーでも出そうとしているのに?
……よくこんな部屋で寝ていられるなぁ。
外国の方らしいから、体感温度が僕たちとは違うかもしれない。
大きなダブルベッドは人の形に盛り上がっていて、カーテンが締め切られた暗い室内には枕に沈む金髪が僅かに見えた。
「えぇ~。良いじゃないですかっ! 朝くんも志田サン自慢のパツキン美女のお顔みたいだろ? たとえ寝顔でもさっ!」
「里見くん、バカなことを言わないでくれよ。キミならともかく、初対面の人に妻の寝姿をみられたい奴なんていないだろう?」
「いやいや、蓼食う無視も好き好きって言うでしょ? 朝くんに聞いてみましょうよ」
なっ? と所長が僕を振り返る。
どう答えるのが正解か分からなかったけれど、所長の意向に沿った方が良いと思って「はい」と言おうとしたところでベッドの横に立つ志田さんに物凄い勢いで睨まれた。
「……ッヒ!?」
今までの柔和な表情が嘘のようだ。
常に優しそうに細められた目はキツくつり上がり、唇から血が出るんじゃないかとお思うほど下唇を噛んでいる。
……さっき、妹さんの過去を追体験したときの志田の顔と同じだ。
ただ、僕に対しては妹さんに向けていたような邪な感情はない。
純粋な、悪意だ。
僕でも分かる。
「……ッ!」
悪意を察している、とバレた途端に誰かから首を締め付けられているような感覚を覚えた。
いや……誰か、なんて考える余地もない。
五本の指が全部首のどこにかかっているのか分かるほど鮮明な錯覚だ。
本当に、馬乗りになって首を締められているんじゃないかと勘違いしそうになる。
立っていられない。
もしかして、これが生霊ってやつなのだろうか。
幽霊に取り憑かれる時とは全く勝手が違う。
幽霊相手の時は、自分の弱いところにつけ込まれて恐怖心に支配される感覚があった。その分、気持ちの持ちようで取り憑かれ具合は大きく変化した。
でも今は、僕の気持ちなんて全くお構いなしだ。
恐怖心が強いとか弱いとか、そんな問題じゃない。
そんなのとはお構いなしに、強制的にのしかかられて羽交い締めにされてふりほどけない。
手を伸ばせば実際に僕の首を締めることができる距離にいるのに、わざわざ生霊を飛ばしてくるなんて意味が分からない……っ!
首にかかっている幻の手を引き剥がそうとするけれど、もちろん実体がないので僕が自分で自分の首を締めているような形になってしまう。
「ぐぇ……っ」
何もないところで一人、盛大に尻餅をついた僕に駆け寄ろうとした所長は志田さんの「どうかした?」の一言で動きを止める。
「いえ……新人が、滑って転んだみたいなのでちょっと……」
「さっきも転んでたし、体調が悪いなら車で待っててもらおうよ」
ねっ? と有無を言わさぬ笑みを浮かべる。
所長は迷っていた。今まで積み上げてきた志田さんとの関係もあるだろう。志田さんは所長に揺さぶりをかけたいだけなんだ。ここで思うツボに嵌まってはいけない。
「しょちょ……大丈夫ですから……」
なんとかそれだけ絞り出す。
所長は目を細めて僕を見ていたけれど、小さく頷いて部屋の中へ入っていった。
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