34 / 38
第四話 境界標騒動
⑧
しおりを挟む野次馬たちを遠巻きに見ながら分かったのは、何の前触れもなくいきなり隣人たちが境界標を巡って争い始めたということだった。
それまではつかず離れず、通常の隣人関係だったらしい。
志田さんが言う『隣人トラブル』なんてそもそもなかったわけだ。
「嘘、ついていたんですかね」
「だろうな。アイツは息を吐くように嘘をつくから」
「所長は、あの境界標になにか感じましたか?」
「全然、なにも。……境界標自体には」
「……には?」
「境界標から、なにかうっすい糸みたいなもんが見えたんだよ。でも、途中で気配をたどれなくなったし、朝くんに見えないのなら人間に害はないかと思って放っておいたんだが……しくじったな」
「糸、ですか……。でも実際に張ってあるわけじゃあないですよね」
「そうだな。さっきから境界標のまわりを警察やら消防やらが荒らしまくってるのに、ウンともスンとも変わってない」
糸か……。
なんだろう。なんのためにそんなことを?
それに境界標と言えば……。
「あ」
「どうした?」
「境界標って、境界標同士を結んで境界確定図を設定しますよね……?」
「教科書通りならな」
「そっ、それじゃあ……あの境界標はどこと対になっているんでしょうか」
「そんなの、周りを見渡してみれ、ば……」
ザワザワと騒がしい人混みの中、視線を泳がせてもう一つの境界標を探す。
それは問題の住宅の向かい、志田さんの家の前にあった。
だけど、一見しただけではそれが境界標だとは分からない。
なぜならば、隣人トラブルが起きた家の境界標よりも、もっとドス黒く濁っていて、ただの黒い塊に見えたからだ。ゴミかと思った。
人の波は事件があった家に集中しているから、お向かいさんである志田さんの家の前にもはみ出している。
僕たちはできるだけ野次馬の関心を引かないように注意しつつ、そっと家の前にたどり着いた。
「これ……霊感のない人にはどんなふうに見えているんでしょうか」
「たぶん、ただの金属の板だろうな。なんなら周りの奴らに聞いてみる?」
「き、聞きませんよ……。所長にも黒く見えていますか?」
「朝くんと同じものが見えているぜ。証明はできないけどな」
「さっきまでは全然、そんな気配なかったのに……なぜでしょうか」
ここまで禍々しい境界標なら、いくらなんでも目に止まったはずだ。
『そこにある』と認識したことでそれは力を増したのか、殊更に存在感を主張しだしている。
「……あんま、見るなよ。引っ張られる」
「引っ張られる……?」
「もうバッチリ向こうにバレてるからな。生者に気づいてもらいたいのは、死者に限った話じゃない。たとえ無機物でも、そこに宿る想いがあればそれは人間よりもタチが悪いってことだ」
所長に言われて、釘付けになっていた境界標からなんとか目を逸らす。
眼を閉じても、瞼の裏にまだ残像が残っているようで気持ちが悪い。
境界標は黒く変色していて、その輪郭はまるで生き物のようにウネウネと蠢いていた。
「うぐ……」
「当てられたか? 一発いっとく?」
所長が平手を振りかぶる。
「ま、まだ大丈夫です……!」
「まぁまぁ、遠慮するなよ」
「あいたっ!?」
一応、お望み通り一言断ったからな、と所長は僕の頬を叩いた後で言う。
人が人を打った盛大な音に、野次馬たちが振り返った。
「あっ、なんでもないです~。お騒がせしてすいません~」
所長の切り替えの早さには本当に頭が下がる。
隣人トラブルとは無関係だと知った野次馬たちはすぐに僕たちへの興味をなくしてしまった。
最近は僕が叩いてばかりだったから、この痛みを忘れていた。
もう、瞼の裏に変な残像なんて見えない。
足下の境界標は相変わらず普通の姿には見えないけれど、視界の端にとどめておく程度で、引っ張られてなんかいない。
大丈夫だ。
まだ調査できる。
「………」
シャッ、とカーテンが開く音がした。
顔を上げると、志田さんが部屋の窓から頬杖をついて無言でコチラを見ている。
「やぁ、志田サン。大変ですね」
「………」
「まさか向かいであんな騒動が起きるなんて。やっぱり志田さんには先見の明がありますねぇ」
「………」
志田さんは微かな笑みを浮かべたままビクともしない。
「もうちょっとお時間いただければ、グッドバイで解決したんですが……間に合わなかったようで残念です」
「………」
「志田サンに害がなくて良かったですね。だけどもしかして、お子さんができない呪いっていうのはお向かいさんに取り憑いた悪霊のせいかもしれませんねぇ」
「………」
志田さんは本当に何も喋らない。
所長はまるでそんなことには気がついていないとでも言うようにペラペラと話を続ける。
「一度依頼を受けた身としては……責任もって解決させてもらいますよ。先ほどお話しさせてもらったばかりで恐縮ですが、もう少しお話を聞かせてもらえませんか?」
「………」
志田さんは無言のまま玄関を指さして、一言「あいてるよ」と言った。
玄関を開けると、そこには志田さんが待ちかまえていた。
「何もないところだけれど、上がってよ。夫婦二人のささやかな暮らしさ」
スリッパまで出してくれようとするので、自前の物件案内用の簡易スリッパがあることを伝えて丁重に辞退する。
「すいませんねぇ。外は野次馬が多くって」
「それが、部下を平手で殴る理由なの?」
「えっ? 見てましたか?」
「見えたって言うよりも、聞こえたんだよ。良い音だったね。大丈夫? ええと、浅田くんだったっけ?」
「僕は朝前です……。あの、お気遣いありがとうございます。あれはちょっと、僕の頬に虫がとまっていたからで特に他意は……」
しなくてもいい苦しい言い訳をしようとモゴモゴ口を動かしている間に、リビングへの扉が開かれる。
志田さんのお宅は4LDKで、玄関を入ると左右正面それぞれに道があった。
正面がリビングダイニングでだいたい15畳ぐらい。
右手がキッチンやトイレなどの水回りで、左手にも部屋があるのだろう。
職業病なのか、お邪魔する家の平面図を頭に描いてしまう。
夫婦二人と、さらに子供が二人ぐらい生まれて四人家族になっても十分暮らせる広さだと思う。
「適当に座ってくれればいいから」
「ありがとう、ご、ざ……」
お礼の言葉は途中で空気中に飛散してしまった。
志田さんは細身の黒いパンツに緩いニットで中に白いシャツという清潔感あふれる服装なのに、室内はまるで清潔さとは無縁だった。
リビングダイニングであるということは、ダイニングテーブルが辛うじてそれとわかるおかげでなんとか保たれている。
でも床には食べ物の空き袋や埃が散乱していて、何に使うのか分からない機械や立派なソファがあるのに中途半端な一人掛けのイスなど、ゴミ置き場で拾ってきたのかと言いたくなるぐらい明らかにこの家には必要ではないもので溢れていた。
匂いもひどい。
こんな場所に暮らしていて、どうして志田さんは涼しい顔をしているんだろう? 奥さんは何も言わないのかな?
適当に座ってくれればいい、と言われても座る場所が見あたらない。
「お宅にあがらせてもらうのも久しぶりですね~」
「あんまり代わり映えしないでしょ」
「そうでもないですよ? また一段と、頑張っているじゃないですか」
が、頑張る……? なにを?
「朝くんにも聞かせてやってくださいよ」
所長はスーツが汚れるにも関わらず、埃が分厚くたまったダイニングテーブルのイスに腰掛ける。
細身な所長が座っただけなのに、イスは今にも死にそうな断末魔を上げる。
「びっくりしたでしょ? 何も知らない人にとっては」
「え、ええと……。その」
「志田サンは慈しみ深い人だからな! こうして、あえて自分の周囲を汚すことで幽霊タチに安らぎを与えてるんだぜ」
「幽霊たちにとって、一番いいのはケガレの環境だからね」
……なにを言っているんだろう?
所長が普段言うこととはまるで逆だ。
「そうですね~。志田サンはいつだって幽霊の安らぎのことを考えていますもんね~」
目は全く笑っていないのに、口からケラケラと笑い声をだす所長も不気味に感じてしまう。
僕は二人の会話にまったく入れずに、どこに座るかすらまだ決めかねて右往左往している。
「朝くん? 突っ立ってないでさっさと座れよ」
「えっと、それじゃあ……」
「遠慮しないで良いよ」
なんだか座らない方がおかしい雰囲気だったので、仕方なくギリギリ座れそうなイスを引っ張ってちょっとだけ腰をつける。うっ……なんだか変な感触……!
「幽霊たちにとってこの世はシンドいものだからね。せめて、空気を良くしてあげないと。ケガレているほど、幽霊たちにとって居心地が良いんだ」
だからといって、あえて自分の家を汚す必要はないと思うんですけど……。
「朝くん、しっかり勉強させてもらえよ。それで、お向かいさんはどんな経緯であんなんになったんですか?」
僕たちに着席することを勧めておいて、志田さん本人はニコニコと微笑んだままどこにも座ろうとしない。
「それが、ボクにも分からないんだよ。キミたちを見送った後、家に戻ったらすぐに言い争いが始まってね」
「へぇ。どんな感じでした?」
「煙草の吸い殻がどうとか……言っていたかな?」
「えっ?」
そ、その吸い殻は志田さんが生産したものじゃないんですか? と、言いそうになった僕を所長が手のひらで制する。黙って聞いてろ、と目配せされた。
「やっぱり、元々流れが悪いんだろうね。疫病で亡くなった後継者の霊が悪さをしているんだと思うよ」
「なるほどなるほど~」
所長は完全に話を聞き流している。
志田さんの話が途切れた隙を狙っていたけれど、運悪く丁度良いタイミングで仕事用の携帯電話が鳴ってしまった。
「おっと。失礼ですが、ちょっと席を外しますよ」
「相変わらず仕事熱心だね」
「志田サンには負けますって」
軽口を叩き合いながら所長はリビングから出て行ってしまった。
ほぼ初対面の僕と志田さんが取り残される。
「………」
「あ、あの………」
「………」
「なんの電話でしょうね。すぐ戻ってきてくれると、いいんです、けど……」
「………」
「あはは……」
最高に気まずい。
所長から志田さんのネガティブな情報ばかり聞かされている上に、室内の汚れようと不気味な笑みが絡み合って居心地が悪い。
しかも、志田さんは所長がいなくなってから全く喋らなくなってしまった。
どうしよう……。どうするのが正解なんだ!?
コミュニケーション能力の強い人、誰か教えて欲しい……!
0
お気に入りに追加
68
あなたにおすすめの小説
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
【完結】呪いの館と名無しの霊たち(仮)
秋空花林
ホラー
夏休みに廃屋に肝試しに来た仲良し4人組は、怪しい洋館の中に閉じ込められた。
ここから出る方法は2つ。
ここで殺された住人に代わって、
ー復讐を果たすか。
ー殺された理由を突き止めるか。
はたして4人のとった行動はー。
ホラーという丼に、恋愛とコメディと鬱展開をよそおって、ちょっとの友情をふりかけました。
悩みましたが、いいタイトルが浮かばず無理矢理つけたので(仮)がついてます…(泣)
※惨虐なシーンにつけています。
「ペン」
エソラゴト
ホラー
「ペン」は、主人公の井上大輔が手に入れた特殊なペンを通じて創作の力が現実化する恐怖を描いたホラー短編小説です。最初は喜びに包まれた井上ですが、物語のキャラクターたちが彼の制御を離れ、予期せぬ出来事や悲劇が次々と起こります。井上は創造物たちの暴走から逃れようとするが、ペンの力が彼を支配し、闇に飲み込まれていく恐怖が後味を残す作品です。
サハツキ ―死への案内人―
まっど↑きみはる
ホラー
人生を諦めた男『松雪総多(マツユキ ソウタ)』はある日夢を見る。 死への案内人を名乗る女『サハツキ』は松雪と同じく死を望む者5人を殺す事を条件に、痛みも苦しみもなく松雪を死なせると約束をする。 苦悩と葛藤の末に松雪が出した答えは……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる