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第三話 特定街区の飛び降り団地
⑤
しおりを挟む今回の団地は十階建てだ。
一応エレベーターはあるけれど、住民の方の邪魔になってはいけないので格子のはまった外階段を上がっていく。
一階から二階に着いた時にはなんともなかったのに、三階、四階、五階と上がるごとに段々胸が苦しくなってきた。
こ、これはまさか……と思ったけれど、たぶん運動不足だろう。いや、でも判断に困るな……と迷っていたら六階で所長が上るのをやめた。
「所長? どうしたんですかこんなところで……」
流石の所長も疲れたのだろうか。
思わぬ休憩にちょっと喜んだのに、所長はスタスタと603号室の前まで進んだ。
所長だって細っこいくせに、僕より年上なのに、どうしてこうも体力差があるんだろう。僕が貧相すぎるだけかな?
「ここ、今回の代表者の部屋なんだと」
「そうですか。じゃあさっそく……」
「待て待て」
チャイムを押そうとした僕を所長が制する。
「これ、見てみろ」
指さしたのは、一枚の白い小皿に盛られた塩だった。
山盛り円錐状に乗っていて、こぼれ落ちた塩が床を汚している。
「なんか、相当……心霊現象に悩まされているんでしょうね」
「だろうな」
よく見ると、全部ではないけれど玄関先に盛り塩を置いている家庭が多い。よっぽど困って僕たちに依頼してきたのだろう。
出来るだけのことをしてあげたいと思う。
「ふむ……」
所長はせっかく盛られていた塩をチョンチョンとつついて、山の一角を崩してしまった。
「なっ、何しているんですか!?」
「何って、調査だよ調査」
「は、はやく直して下さい!」
「無理無理。崩れた塩なんて直せないって。こんなん意味ないし、崩した方がいいぜ」
所長は全く悪びれた様子もなく、チャイムを押した。
「こんにちは~。お約束していたグッドバイの里見です!」
「わざわざすいません……」
出迎えてくれたのは線の細い感じの小柄な女性で、内坂さんと名乗った。
依頼者の代表らしいけど、一見するとリーダーとかそういうことをするのに向いているとは思えない。
部屋はよくある2DK。
玄関を入るとすぐに二手に分けられていて、右手にはダイニングとリビングがぶち抜きになった14帖ぐらいのスペースと、襖で仕切られた和室が6帖ほど。左手は寝室らしく、扉が閉められていた。
「いや、とんでもない! ご依頼ありがとうございます! 数ある会社の中からグッドバイを選んでいただき、恐悦至極です!」
所長はこういうとき、人が変わったのかと思うほどニコニコ愛想が良くなる。もしかして、番場さんが言っていたのはこういうことなのかな? いやいや、仕事中に明るくなるのは普通のことだしな……。
「えっと、そちらの方は……」
「ご挨拶遅れました! コッチは私の部下です。ホラ、挨拶挨拶」
「あっすいません、朝前と申します」
内坂さんは探るような目で僕を見る。
依頼のやりとりは所長とだけやっていたみたいだから、たぶん所長が一人で来ると思っていたのだろう。
「部下の方……ということは」
「ハイ! 彼がメールでお話させていただいたレーダーです!」
や、やっぱり所長は僕のことをそんなふうに思っていたのか……!
大した働きもできていない手前、抗議することもできないけれどやはり少し傷つく……。
「朝前さん!」
ひそかに落ち込んでいたら、内坂さんにいきなり両手を握られる。
「へっ!?」
「メールでお話はお伺いしています。どうか、私たちを助けて下さい!」
い、一体どんなメールをやりとりしたんですか……! という目線を所長に送ったら、わざとらしいぐらいのウインクを返されたので不可抗力でイラッとする。
でもお客様の前なので、努めてにこやかに表情を戻した。
「も、もちろんです。我々が出来る限りのことをさせていただきたいと思って善処するつもりで……」
僕は除霊なんてできない。
自信のなさが語尾に現れてどんどん曖昧になってしまったのに、内坂さんはまるで気づいていない。プレッシャーを感じる……。
「とりあえず、どうぞ座って下さい」
リビングのソファに座らせてもらうと、室内がよく分かった。
小さな子供がいるのか、所々におもちゃが散乱している。でも全体的にはすっきり片づいていて、大きな窓からはさわやかな風が流れ込んでいた。
うん、素敵な部屋だと思う。
「あの、メールに添付したデータは聞かれましたか?」
「ええ。大変興味深かったですよ」
「あんなにハッキリ足音が聞こえるとは思いませんでした……。あの子の言っていたことは本当だったんです」
あの子? と疑問に思ったらすぐに所長が「ここのお子さんだよ」と教えてくれた。
「空子です。今は幼稚園に行っていて、そろそろお迎えの時間なんですが……空子は昔から変なことを言う子供で……」
内坂さんはお茶を出しながらため息をつく。
「最初は、子供特有の遊びだと思っていました。でも最近は、全然寝なくなったんです」
「今日もですか?」
「はい……。足音が気になって眠れないって布団の上に一晩中座っているんです。でも、朝になると元気に動き出して、普通に通園バスに……」
「何日前からでしたっけ?」
「もう一ヶ月です! 幼稚園での過ごし方は全く問題ないって保育士さんは言ってくれるんですが……心配で心配で」
よく見ると、内坂さんの目の下には濃い隈がある。所長と依頼者だけで会話が進んでいくので、手持ちぶさたになった僕は出してもらったお茶に口を付けた。
……ん? これ、ほとんどお湯じゃないか?
色も薄いし、全く味がしないんだけど……。
「最近じゃ、足音が聞こえる方へ行こうと夜中に外に出たがるんです。今は私たちが止めていますが、いつか本当に出て行ってしまいそうです」
「足音は、奥さんにも聞こえますか?」
僕抜きで進む話にも耳を傾けつつ、所長に出されたお茶を盗み見たらすでに中身はからっぽだった。所長はなんとも思わなかったのかな?
「主人は何も聞こえないと言っています。私も、最初は聞こえなかったんですが段々聞こえるようになってきました。空子は、足音の他に楽しそうな話し声が聞こえると……」
た、楽しそう?
あの呪詛が?
……もしかして、あんな物騒な台詞に聞こえるのは僕だけなのか?
何が正しくて何が間違っているのか、よく分からなくなりそうだ……!
「私の家だけじゃなくて、他のご家庭でも同じように足音が聞こえるって訴えがあるんです! ……ただ、気になるのは訴えてる人と何もない人と、差がありすぎることなんですが……」
内坂さんは自信なさげに視線を落とす。
気弱そうな雰囲気だけど、その奥には他人と違っていても自分の子供を守りたいという強い意志が見えた。
「被害を訴えてる人に、なにか共通点などありますか?」
「いえ……。てっきり、子供だけなのかと思いましたが老若男女それぞれなんです。被害を感じている人は玄関先に盛り塩をしているんですが、ご覧になっていただけましたか?」
所長が壊してたやつじゃないか……。
「はい。しかし、あの盛り塩はあまり意味がないですね」
「えっ!?」
「ああいうものは、二つセットで使うんです。一つだけじゃ、結界にはなりません。それどころか、霊を呼び寄せる結果になることもあります」
「そんな……。それじゃ、二日と持たずに塩が溶けるのは……」
「外の気温変化や湿気もあるとは思いますが、おそらく霊を引きつけてますね。でも、毎日取り替えているおかげで被害は最小限にとどめているようですが」
所長の言葉に青ざめる内坂さん。
いきなり盛り塩に触ったのは、いつ取り替えたのか調べていたからなのか。
「ひとつ、お聞きしたいんですが……あの盛り塩のやり方は誰に教わったんですか?」
「わ、私たちは幽霊への対処の仕方なんて全くの素人なので、グッドバイさんを紹介していただいた方から教えてもらいました」
「……そうですか。いろんな情報が錯綜する世の中ですからね。間違ったやり方が蔓延するのは仕方のないことです。どうか紹介者を悪く思わないで下さい」
「は、はい……」
僕たちを紹介してくれた人って誰なんだろう?
またそっと所長を伺うと、にこやかな笑みと台詞とは裏腹に膝の上に置かれた握り拳が微かに震えていた。
えっ?
所長が先に取り憑かれてしまったのかな。
でも、その他の様子はいつもと変わらない。
僕は黙ったまま、もう少し様子をみることにした。
「ひとまず、盛り塩は全部一旦撤去するようにみなさんにお伝えして下さい。他になにか、気になることはありますか?」
「身体に影響がでているのは私の家ぐらいです。その他の住民の方は家にいるときは問題ないんですが、外にでると足音が聞こえたり、後は夜になるとエレベーターの動きがとても悪くなるんです。でもいくら管理会社に連絡してみてもらっても、異常はないと……」
「なるほど。それじゃあ、それもあわせて調べておきましょうか」
「はい……よろしくお願いします。……あの」
ずっと俯きながら喋っていた内坂さんがバッと顔を上げて僕たち二人を交互に見た。
「ほ、本当にありがとうございます……。こんなこと、なかなか誰にも頼めなくて。その……今回の依頼、主人には話していないんです。あの人は全然そういうの信じていないから、足音も聞こえないって言うし、空子のことだって一時的なものだろうっていつも楽観的で。でもあの足音が、空子や私だけじゃなく他の方々にも聞こえだしたと知ってからはもう怖くて……、私たち、みんなして段々おかしくなっているんじゃ……」
確かに、普通に生きている人間にとって幽霊だの亡霊だの呪いだのは完全にフィクションの出来事だ。全くもって現実味がない。
きっと内坂さんもひどく悩んだのだろう。でも子供さんのため、藁にもすがる思いで僕たちに相談したんだと分かった。
「奥さん、安心して下さい」
所長はちょっと身を乗り出して、ぎゅっ、とスカートの裾をきつく握りしめていた内坂さんの手に触れるか触れないかの距離で自分の手を翳す。
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