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第一話 田舎の鉄筋三階建て
②
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「いやぁ、ごめんごめん。そういや、キミが来るのは今日だったか。社長から連絡は受けてたんだけどなぁ。インターホン鳴らしてくれればよかったのに」
「鳴らしましたけど……」
「そぉ? 全然気がつかなかった。ちょっとお楽しみ過ぎたな~」
血相を変えて飛び込んだ僕と、アダルトビデオの鑑賞真っ最中だった所長とは数秒の間無言で見つめ合った。
テレビの中からは、僕が最初に聞いた女性の呻き声が続いている。
呻き声じゃなくて、喘ぎ声でしたっていうオチだというわけだ。なんだこれは。
不可解な状況ですっかり混乱していたら、所長はビデオを一時停止にして僕をダイニングテーブルに座らせた。そのまま自分はキッチンに入って、カチャカチャとお茶の準備をはじめる。
「えっと、キミは朝飯前くんだっけ?」
「いえ、その、朝前です。朝前 夕斗といいます」
「へぇ、不思議な名前だね。朝なんだか夕方なんだか」
「よく言われます……」
「俺は里見大数。この支店の所長だよ。これからよろしくな」
すっかり萎縮していた僕に、所長はニカッと屈託のない笑みを向けてくれた。
口は笑っていても目は笑っていないタイプじゃなくて、目も口も一緒にクシャッと綻ぶような笑い方だから、ほんの少しだけ僕の気持ちも緩む。
「ホイ、どーぞ」
「あっ、ありがとうございます……」
テレビの画面にはAV女優のあられもない姿(巧妙な一時停止能力のおかげで微妙にブレて局部は見えていない)が映し出されているけれど、ダイニングテーブルもそこから見えるキッチンも、どこもかしこもピカピカに磨かれて清潔そのものだった。
テーブルの上にはやっぱり竜胆の花が活けられていて、目の前に置かれた湯飲みからはお茶の良い匂いが鼻をくすぐる。
「緑茶、飲める? 紅茶の方が好きかい?」
「いえっ! 大丈夫です!」
慣れない旅と緊張と不思議体験で身体はヘトヘトだ。僕は早速お茶に口をつけた。
「……! 美味しい、です!」
「そりゃ、良かったよ」
正直、コーヒー党だから緑茶はあまり飲んだことがなかったけれど、疲れのせいか今まで飲んだどんなお茶よりも飲みやすくて美味しかった。
「あんまり高い茶葉じゃないんだけどさ、ちゃぁんと、最初に湯飲みをお湯で温めてから注ぐだけでも結構味は変わるもんなんだよ」
細やかな心配りを口にしつつも、所長は煙草に火をつけながらだらしなく僕の正面に座る。
綺麗に整った室内と、ボサボサ頭にヨレたワイシャツ。なんでこんなにチグハグなんだろう?
「これから先、お客様のお茶くみは朝くんにやってもらうことになると思うから、ちゃんと覚えてね」
「は、はいっ……!」
できるだろうか。
以前の職場ではお茶くみすら満足にできないことで有名だったのに。
「あー、えっと朝前クン?」
「ひゃいっ!」
「あはは、あんまり緊張しないでよ。コッチまで伝染するぜ。この支店にはこれから、キミと俺の二人だけなんだからさ」
「そっ、そうなんですか……」
いくら田舎の支店といえども、たった二人だけというのは珍しい。
なかなかの田舎っぷりだし、顧客も少なそうだから、僕が来るまでは一人でもやれていたのかな? いや、それよりも……。
「あの、所長……」
「ん?」
「この事務所には、所長しかいないんですか?」
てっきり、所長の他に事務員さんかそのお子さんがいるのだとばかり思っていた。そうでなきゃ、さっきの女の子の説明がつかない。
「そうだよ。ここには俺が一人だけ。まぁ、事務所って言うか店舗兼住宅って感じだけどね。俺は三階に住んでるんだ。二階が事務所。んで、一階が今日からキミの部屋」
「えっ……!? 僕もここに住むんですか!?」
予想が裏切られたことよりも、衝撃的な事実に耳を疑う。
「そりゃそうでしょ。毎日片道四時間近くかけて通勤できんの? 社長から聞いてない?」
「社長からは、寮を紹介してくれると……」
「それにしたって、異動の日までに寮の住所も教えてくれないなんておかしいだろ。不思議に思わなかったのか?」
「そ、そういえば……」
社長からは、支店の住所と所長の名前を教えられただけ。
遺志留支店はホームページにも乗っていない支店名だったし、同僚に聞いても首を傾げられるだけだったのでもうそれ以上自分で調べることを諦めてしまっていた。
「ま、好きに使ってくれて構わないからさ。掃除だけはしっかりしてね」
所長は煙草の煙を僕に向かって吹き出した。突然の煙たさに、思わず顔をしかめる。
「やっぱ、キミさぁ」
「げほっ……」
「だいぶ、混じってるね」
「まじ……?」
どういうことだろうか。
遠回しに、前の支店での失態を伝え聞いているのかもしれない。所長の薄茶色の目がジッと僕を射抜く。あまりにまっすぐな瞳にたじろいてしまい、つい視線を逸らして所長の肩口あたりを見たら……。
「ぅわっ……!?」
「どうしたんだ?」
反射的に腰が浮いた。
急に立ち上がったから、椅子が後方にガタンと勢い良く倒れる。
「しょ、所長……! う、うしろ……!」
所長の背中には、灰色の靄がぐるぐると蜷局を巻いて後ろからおぶさるような形でくっついていた。形は蜃気楼のように流動的で、目を凝らさないとすぐにまた見失ってしまいそうだけれど、確かにそこにある。
「あぁ、後ろね。ウンウン。分かる」
「分かるじゃなくてっ……! 振り向いてください!」
「ヤダよ」
ピカピカの灰皿に伸びた灰を落として、再び肺いっぱいに煙を吸い込みながら所長は呑気に話す。
「だって、俺が見たら消えちゃうもん」
消える……?
所長は一体何を言って……?
「この子ね、俺の妹なんだ」
「いも、うと……です、か」
「俺は見るのに向いてないからなぁ。朝くんがちゃんと見といて」
本当に靄が見えていないらしく、スカスカと所長の手が虚空を掴む。
「かわいいでしょ?」
「いえ、姿は……見えないんですけど。なんか、靄みたいな形で……」
「残念だなぁ。じゃあ今度、妹の写真見せてやるよ。そしたらイメージも固まるだろうさ」
テーブルの上に飾られた竜胆の花の一つが、突然枯れてテーブルに落ちた。
確か、さっきまで瑞々しく咲いていたはずだったのに、見るも無惨な姿だ。
「いやぁ、キミが来てくれて本当に助かった」
さっきは安心感や親しみを覚えた所長のクシャッとした笑みが、途端に胡散臭く見える。得体の知れない恐怖が、再び僕を包み込んで思わず後ずさってしまう。
その間にも、家のあちこちからピシピシと家鳴りが起きている。いや、仮にも不動産業に従事している身で家鳴りに反応するなんておかしいだろう。
特にこの家は新築で、まだ建材が馴染んでいないから家鳴りが起きやすいだけなんだ……!
「だから緊張しないで、ってば」
「あ、あなたは一体……」
「俺は、所長だよ。この、ホームページにも企業案内にもどこにも載っていない遺志留支店の所長。そしてキミは新人社員。オーケイ?」
後ろに身を引いた僕を追いかけるように、所長も身を乗り出してまた鼻先の距離で煙を吐き出す。
「げほっ、げほっ……」
さっきよりもヒドい煙たさだ。鼻も喉も目も痛くて、せき込んだら涙が出た。
なんなんだこの人は。
もしかして、これは救済措置なんかじゃなくて体の良い厄介払いなのかもしれない、なんて気づきたくもないことに気がつきそうになってしまう。
「まだ、見える?」
「え?」
思わず睨んでしまわないようにするだけで精一杯だ。
「俺のココ」
所長は自分の肩あたりをぐるぐると指差す。そこにはさっきまでおかしな靄が渦巻いていたはずだけれど……。
「あれ……?」
生理的な涙に歪む視界には、もうそんなものは映っていなかった。やっぱり、見間違いだったのだろうか?
「なにも、見えません……」
「そうか! それなら良かったな」
所長はまたクシャッと僕に笑いかける。
さっきまで散々鳴り響いていた家鳴りも止まったようだ。
……訳が分からない。
でも、問いただすにしても相手はここの所長だ。変なことを尋ねて機嫌を損ねてしまってはまた以前の二の舞になるかもしれない。
色々聞きたいことはあるのに、なにも口に出せず呆然としていたら「まぁ、座れよ」と所長が促してくれたのでそれに従う。
「朝くん、本当になにも知らないんだな。ちょっとは社長から聞いているのかと思ってた」
「な、なにも聞いてないです……」
「ふーん。あの狸ジジイ、相変わらず人が悪ぃや」
まだ十分な長さを残している煙草を灰皿に押しつけて消した所長は、枯れ落ちた竜胆の花を指先でつまみ上げてそのままグシャリと潰してしまった。
塵一つ落ちていない清潔なテーブルに、枯れた花の残骸が無惨に飛び散る。
「わっ、あの、掃除します……!」
「いいよ。俺の話が終わってからで」
「良いんですか……?」
「おぅ。別に俺、綺麗好きってわけじゃないからな」
……それは、少し気になっていた。
モデルルーム並に行き届いた掃除がなされた綺麗な家なのに、そこの住民で所長だけが……なんというかだらしないのだ。
来客にも気がつかないような大音量で昼間っからアダルトビデオを流すところだったり、寝起きのままだと思われるボサボサ頭も、襟の折れたシャツも、どこかちぐはぐだった。
「この家を綺麗に保つのは、仕事のうちなんだ」
「……モデルルームとして、提供でもしているんですか?」
「違う違う、そんなんじゃない。そんなことよりもっと重要さ。あのな……」
「はい」
「ユーレイに、負けないようにするためだよ」
「……はぁ?」
場にそぐわない素っ頓狂な声が出てしまった。あわてて取り繕おうとするけれど、所長の台詞は止まらない。
「幽霊って言葉がしっくりこないなら、アヤカシ・悪霊・ケガレ・怨念・あの世のもの・この世にあらざるもの・悪しきもの……なんでもいいぜ? とにかく、目には見えない奴らに負けないようにするために、掃除や清潔さは必要不可欠ってこと。アイツら、とにかく不潔やネガティブな感情を好むからなぁ」
「……幽霊って、霊能力者が除霊するものじゃ、ないんでしょうか……?」
聞くべきところはそこじゃない! と脳内の僕が叫ぶ。
幽霊なんて見たことも聞いたこともない。所長はなにを言っているんだ?
……いや、見たことは、あるかもしれない。まだ分からない。確定じゃない。
今日の仕事が終わったら眼科に行こう。さっき見た灰色の靄の正体が、明らかになればいいけれど。
「一般的にはな。まぁ、そういうことにしておいたほうがわかりやすいってだけだよ。どんなに強い霊能者でも、精神的に弱ればつけ込まれる。一番大切なのは、気持ちを強く持つことだ。古今東西、除霊の方法は様々だが、やり方をなぞるだけじゃ意味がない。まずは、自分の行動ありきだ!」
所長は僕に向かってビシッと人差し指を向けた。
「鳴らしましたけど……」
「そぉ? 全然気がつかなかった。ちょっとお楽しみ過ぎたな~」
血相を変えて飛び込んだ僕と、アダルトビデオの鑑賞真っ最中だった所長とは数秒の間無言で見つめ合った。
テレビの中からは、僕が最初に聞いた女性の呻き声が続いている。
呻き声じゃなくて、喘ぎ声でしたっていうオチだというわけだ。なんだこれは。
不可解な状況ですっかり混乱していたら、所長はビデオを一時停止にして僕をダイニングテーブルに座らせた。そのまま自分はキッチンに入って、カチャカチャとお茶の準備をはじめる。
「えっと、キミは朝飯前くんだっけ?」
「いえ、その、朝前です。朝前 夕斗といいます」
「へぇ、不思議な名前だね。朝なんだか夕方なんだか」
「よく言われます……」
「俺は里見大数。この支店の所長だよ。これからよろしくな」
すっかり萎縮していた僕に、所長はニカッと屈託のない笑みを向けてくれた。
口は笑っていても目は笑っていないタイプじゃなくて、目も口も一緒にクシャッと綻ぶような笑い方だから、ほんの少しだけ僕の気持ちも緩む。
「ホイ、どーぞ」
「あっ、ありがとうございます……」
テレビの画面にはAV女優のあられもない姿(巧妙な一時停止能力のおかげで微妙にブレて局部は見えていない)が映し出されているけれど、ダイニングテーブルもそこから見えるキッチンも、どこもかしこもピカピカに磨かれて清潔そのものだった。
テーブルの上にはやっぱり竜胆の花が活けられていて、目の前に置かれた湯飲みからはお茶の良い匂いが鼻をくすぐる。
「緑茶、飲める? 紅茶の方が好きかい?」
「いえっ! 大丈夫です!」
慣れない旅と緊張と不思議体験で身体はヘトヘトだ。僕は早速お茶に口をつけた。
「……! 美味しい、です!」
「そりゃ、良かったよ」
正直、コーヒー党だから緑茶はあまり飲んだことがなかったけれど、疲れのせいか今まで飲んだどんなお茶よりも飲みやすくて美味しかった。
「あんまり高い茶葉じゃないんだけどさ、ちゃぁんと、最初に湯飲みをお湯で温めてから注ぐだけでも結構味は変わるもんなんだよ」
細やかな心配りを口にしつつも、所長は煙草に火をつけながらだらしなく僕の正面に座る。
綺麗に整った室内と、ボサボサ頭にヨレたワイシャツ。なんでこんなにチグハグなんだろう?
「これから先、お客様のお茶くみは朝くんにやってもらうことになると思うから、ちゃんと覚えてね」
「は、はいっ……!」
できるだろうか。
以前の職場ではお茶くみすら満足にできないことで有名だったのに。
「あー、えっと朝前クン?」
「ひゃいっ!」
「あはは、あんまり緊張しないでよ。コッチまで伝染するぜ。この支店にはこれから、キミと俺の二人だけなんだからさ」
「そっ、そうなんですか……」
いくら田舎の支店といえども、たった二人だけというのは珍しい。
なかなかの田舎っぷりだし、顧客も少なそうだから、僕が来るまでは一人でもやれていたのかな? いや、それよりも……。
「あの、所長……」
「ん?」
「この事務所には、所長しかいないんですか?」
てっきり、所長の他に事務員さんかそのお子さんがいるのだとばかり思っていた。そうでなきゃ、さっきの女の子の説明がつかない。
「そうだよ。ここには俺が一人だけ。まぁ、事務所って言うか店舗兼住宅って感じだけどね。俺は三階に住んでるんだ。二階が事務所。んで、一階が今日からキミの部屋」
「えっ……!? 僕もここに住むんですか!?」
予想が裏切られたことよりも、衝撃的な事実に耳を疑う。
「そりゃそうでしょ。毎日片道四時間近くかけて通勤できんの? 社長から聞いてない?」
「社長からは、寮を紹介してくれると……」
「それにしたって、異動の日までに寮の住所も教えてくれないなんておかしいだろ。不思議に思わなかったのか?」
「そ、そういえば……」
社長からは、支店の住所と所長の名前を教えられただけ。
遺志留支店はホームページにも乗っていない支店名だったし、同僚に聞いても首を傾げられるだけだったのでもうそれ以上自分で調べることを諦めてしまっていた。
「ま、好きに使ってくれて構わないからさ。掃除だけはしっかりしてね」
所長は煙草の煙を僕に向かって吹き出した。突然の煙たさに、思わず顔をしかめる。
「やっぱ、キミさぁ」
「げほっ……」
「だいぶ、混じってるね」
「まじ……?」
どういうことだろうか。
遠回しに、前の支店での失態を伝え聞いているのかもしれない。所長の薄茶色の目がジッと僕を射抜く。あまりにまっすぐな瞳にたじろいてしまい、つい視線を逸らして所長の肩口あたりを見たら……。
「ぅわっ……!?」
「どうしたんだ?」
反射的に腰が浮いた。
急に立ち上がったから、椅子が後方にガタンと勢い良く倒れる。
「しょ、所長……! う、うしろ……!」
所長の背中には、灰色の靄がぐるぐると蜷局を巻いて後ろからおぶさるような形でくっついていた。形は蜃気楼のように流動的で、目を凝らさないとすぐにまた見失ってしまいそうだけれど、確かにそこにある。
「あぁ、後ろね。ウンウン。分かる」
「分かるじゃなくてっ……! 振り向いてください!」
「ヤダよ」
ピカピカの灰皿に伸びた灰を落として、再び肺いっぱいに煙を吸い込みながら所長は呑気に話す。
「だって、俺が見たら消えちゃうもん」
消える……?
所長は一体何を言って……?
「この子ね、俺の妹なんだ」
「いも、うと……です、か」
「俺は見るのに向いてないからなぁ。朝くんがちゃんと見といて」
本当に靄が見えていないらしく、スカスカと所長の手が虚空を掴む。
「かわいいでしょ?」
「いえ、姿は……見えないんですけど。なんか、靄みたいな形で……」
「残念だなぁ。じゃあ今度、妹の写真見せてやるよ。そしたらイメージも固まるだろうさ」
テーブルの上に飾られた竜胆の花の一つが、突然枯れてテーブルに落ちた。
確か、さっきまで瑞々しく咲いていたはずだったのに、見るも無惨な姿だ。
「いやぁ、キミが来てくれて本当に助かった」
さっきは安心感や親しみを覚えた所長のクシャッとした笑みが、途端に胡散臭く見える。得体の知れない恐怖が、再び僕を包み込んで思わず後ずさってしまう。
その間にも、家のあちこちからピシピシと家鳴りが起きている。いや、仮にも不動産業に従事している身で家鳴りに反応するなんておかしいだろう。
特にこの家は新築で、まだ建材が馴染んでいないから家鳴りが起きやすいだけなんだ……!
「だから緊張しないで、ってば」
「あ、あなたは一体……」
「俺は、所長だよ。この、ホームページにも企業案内にもどこにも載っていない遺志留支店の所長。そしてキミは新人社員。オーケイ?」
後ろに身を引いた僕を追いかけるように、所長も身を乗り出してまた鼻先の距離で煙を吐き出す。
「げほっ、げほっ……」
さっきよりもヒドい煙たさだ。鼻も喉も目も痛くて、せき込んだら涙が出た。
なんなんだこの人は。
もしかして、これは救済措置なんかじゃなくて体の良い厄介払いなのかもしれない、なんて気づきたくもないことに気がつきそうになってしまう。
「まだ、見える?」
「え?」
思わず睨んでしまわないようにするだけで精一杯だ。
「俺のココ」
所長は自分の肩あたりをぐるぐると指差す。そこにはさっきまでおかしな靄が渦巻いていたはずだけれど……。
「あれ……?」
生理的な涙に歪む視界には、もうそんなものは映っていなかった。やっぱり、見間違いだったのだろうか?
「なにも、見えません……」
「そうか! それなら良かったな」
所長はまたクシャッと僕に笑いかける。
さっきまで散々鳴り響いていた家鳴りも止まったようだ。
……訳が分からない。
でも、問いただすにしても相手はここの所長だ。変なことを尋ねて機嫌を損ねてしまってはまた以前の二の舞になるかもしれない。
色々聞きたいことはあるのに、なにも口に出せず呆然としていたら「まぁ、座れよ」と所長が促してくれたのでそれに従う。
「朝くん、本当になにも知らないんだな。ちょっとは社長から聞いているのかと思ってた」
「な、なにも聞いてないです……」
「ふーん。あの狸ジジイ、相変わらず人が悪ぃや」
まだ十分な長さを残している煙草を灰皿に押しつけて消した所長は、枯れ落ちた竜胆の花を指先でつまみ上げてそのままグシャリと潰してしまった。
塵一つ落ちていない清潔なテーブルに、枯れた花の残骸が無惨に飛び散る。
「わっ、あの、掃除します……!」
「いいよ。俺の話が終わってからで」
「良いんですか……?」
「おぅ。別に俺、綺麗好きってわけじゃないからな」
……それは、少し気になっていた。
モデルルーム並に行き届いた掃除がなされた綺麗な家なのに、そこの住民で所長だけが……なんというかだらしないのだ。
来客にも気がつかないような大音量で昼間っからアダルトビデオを流すところだったり、寝起きのままだと思われるボサボサ頭も、襟の折れたシャツも、どこかちぐはぐだった。
「この家を綺麗に保つのは、仕事のうちなんだ」
「……モデルルームとして、提供でもしているんですか?」
「違う違う、そんなんじゃない。そんなことよりもっと重要さ。あのな……」
「はい」
「ユーレイに、負けないようにするためだよ」
「……はぁ?」
場にそぐわない素っ頓狂な声が出てしまった。あわてて取り繕おうとするけれど、所長の台詞は止まらない。
「幽霊って言葉がしっくりこないなら、アヤカシ・悪霊・ケガレ・怨念・あの世のもの・この世にあらざるもの・悪しきもの……なんでもいいぜ? とにかく、目には見えない奴らに負けないようにするために、掃除や清潔さは必要不可欠ってこと。アイツら、とにかく不潔やネガティブな感情を好むからなぁ」
「……幽霊って、霊能力者が除霊するものじゃ、ないんでしょうか……?」
聞くべきところはそこじゃない! と脳内の僕が叫ぶ。
幽霊なんて見たことも聞いたこともない。所長はなにを言っているんだ?
……いや、見たことは、あるかもしれない。まだ分からない。確定じゃない。
今日の仕事が終わったら眼科に行こう。さっき見た灰色の靄の正体が、明らかになればいいけれど。
「一般的にはな。まぁ、そういうことにしておいたほうがわかりやすいってだけだよ。どんなに強い霊能者でも、精神的に弱ればつけ込まれる。一番大切なのは、気持ちを強く持つことだ。古今東西、除霊の方法は様々だが、やり方をなぞるだけじゃ意味がない。まずは、自分の行動ありきだ!」
所長は僕に向かってビシッと人差し指を向けた。
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