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なぜこうなったのか。知らない男と2人きり、馬車に揺られながら考えを巡らせる。
ドレスを注文しに行った。結婚式で着る為のドレスだ。
まず良くなかったのが、公爵様の衣装も私好みで仕立ててしまおうかと邪念を持ち、公爵様を置いてきてしまったことだろう。いや、でも、採寸中に誘拐されたわけだから、結果的には変わらないかもしれない。
私が向かう予定の仕立て屋情報が、敵に漏れていたらしかった。敵が誰かは知らないが。
恐らく私が入店する前に、あの仕立て屋はすでに敵の手中にあったのだ。襲撃されて脅されていたのかもしれない。
入店時の対応に特に変わった点は見られず、採寸をするからと護衛騎士と離れて別室へ通された。部屋に入るなりドアの影に隠れていた男に後ろから口を塞がれ、別の男に後ろ手に縛られ、また別の男に布袋を被され、手際よく誘拐されてしまった。
粗々しく馬車に乗せられてからは袋を外して貰えたが、手は縛られたままで、口には布を詰められてそれを塞ぐようにさらに布で結ばれた。
馬車に乗っていた男は「はじめまして。」と不敵に口角を上げながら、酷く冷めた目を向けてきた。
歳は40代後半といったところだろうか。赤毛にちらほらと白髪が混じっている。
くっきりとした目鼻立ちに薄い唇、鼻の下と顎に生やした髭はきちんと整えられていて、悪人面と言われればそうも見えるが、なかなか見栄えの良い作りをしている。もちろん公爵様とは比べ物にならないが。
身なりからして貴族のようだが、この顔で私のチェックを逃れていたとなると、社交の場にはあまり顔を出さないタイプなのだろう。爵位も高くはないのかもしれない。
「貴女を見れば見るほど、疑問が尽きません。」
こちらのセリフです。
「なぜ、貴女のような女性が、あの男と結婚しようなどと思ったのですか?」
私の口は塞がれているわけだから、本当にその疑問を解決しようなどとは思っていないのだろう。
ただその口ぶりから、公爵様を敵視しているのだということは分かった。
「若くて、人形のように可愛らしく、家柄も申し分ない。貴女に惹かれる男は、五万といるでしょうに。」
赤毛の男は、はぁ、とため息を吐いた。
窓が塞がれていて外は見えないが、だんだんと揺れが大きくなり、道が悪いのだと気がついた。
舗装のされていない田舎道でも通っているのかもしれない。
「私もね、できれば手荒な真似はしたくなかったのですが、あの男が私に対立してきたものですから、仕方なく強硬手段を取ったのですよ。」
まるで公爵様よりも上にいるかのような話し口だ。しかし公爵様は貴族で最高位であるし、王族だというのなら、徹底した教育を受けてきた私が知らないはずがない。
頭がおかしい人なのかもしれない。自分は偉いと思い込んでる系の。考えるだけ無駄なのかも。
私はそっと顔を背けた。すると顎を掴まれ、無理矢理、目を合わせられた。
じっと見つめられ、「デボラには全く似てないな。」と顎を離された。
デボラ。聞き覚えのある名前だ。デボラ・バルバストル。前公爵夫人。
「その顔。どうやら妹のことはご存知のようですね。」
どうやらこの男は前公爵夫人の兄らしい。つまり公爵様の義兄になるわけだ。
顔はどうなのだろう。兄妹で似ているのだろうか。だとしたら前公爵夫人もなかなかの美人だったのでは。気が強そうだけれど。
公爵様はこういう顔が好みなのだろうか。今度は私が男をまじまじと見つめた。
「さすが侯爵令嬢ですね。この状況下で文句も言わず、それだけ落ち着いていられるとは。」
文句の言いようが無いでしょう。口を塞がれているのだから。
「それとも私の顔がお好みでしたか?」
少しだけ!
はっとした。そんなことを考えている場合ではない。私が視線を逸らすと、男は愉快そうにくつくつと笑った。
「そういう反応は傷つきますね。」
喋れない私に、男のひとり語りは続く。
「貴女も運が悪いですね。あの男が人殺しだと知っていたら、婚約なんてしなかったでしょうに。あの男が死神だって、知らなかったのですか?」
だから、問いかけられても喋れないのよ。
「プルトン・バルバストルという男はね、子を流した妻を見限って、放置しておくような男なのですよ。知っていましたか?いや、知っていたら結婚しようなんて思うはずがありませんね。」
私の知っている公爵様は、そんなことができるような方ではない。
「信じられないような顔ですね。真実ですよ。子を失って悲しみの底にいたデボラは、夫からも見放され、夫人の義務を果たせずにいる罪悪感から、池に飛び込んだのです。」
公爵様との約束が思い出された。契約結婚の交渉成立時に言われた、あの約束だ。
きっとこの男は公爵様を誤解している。そして何年もそうやって恨んできたのだろう。
きっと、公爵様もそれをご存知なのだ。それでも強く出れないのは、義理の兄に対して後ろめたい気持ちがあるからかもしれない。
もしかして、死神などと言い広めたのはこの男ではあるまいな?
きっ、と睨みつけると同時に、馬車が止まった。バランスを崩して前のめりになった私を、男が受け止める。
そのまま二の腕を掴まれて馬車を降ろされた。
もう夜になっていた。
赤毛の義兄と御者が持つランタン、それから目の前の木小屋から漏れる灯り以外、暗くて何も見えない。
ずかずかと小屋に向かう義兄に引っ張られる形で私も歩いた。地面がでこぼこで所々つっかえた。
義兄が、ぎぃ、と不気味な音を立てて小屋の戸を開けると、中には見覚えのある人物がいた。
公爵邸で執事をやっていた男だ。公爵様が追い出して出身地へ送ったという男だった。
そうか、あの嫌がらせの協力者ということは、義兄の手下だったということ。だから公爵様の罰も手ぬるかったのだ。
その手に縄を持っているのが見え、私の身は一気に強張る。
「準備はできているか?」
「あ、はい…あとは首にかけて吊るすだけです。」
よし、と義兄は口角を上げて私を見た。
本気だ。私を殺す気なのだ。わざわざ首を吊らせるということは、自殺に見せかけるつもりなのかもしれない。
「すみませんね、侯爵令嬢。貴女に恨みはないが、ここで死んで頂くよ。」
どくどくと鼓動は速まるのに、手足は凍りついたように動かない。
しかし偽兄は容赦なく私の腕を掴み、縄を持つ元執事に放った。どん、と私は元執事に受け止められる。
途端、奥の部屋から、そして小屋の戸口から、どかどかと武装した騎士たちが入ってきて義兄の周囲を取り囲んだ。
義兄はその内の2人の騎士にあっという間に取り押さえられた。
「怪我はありませんか?」
私の前に片膝を付いた人物に目を瞬く。
公爵様。
「遅くなって申し訳ありません。」
周りを見渡せば、その騎士たちの制服はバルバストル家のもので、胸元には誇らしくもその紋章が輝いていた。
唖然としている間に元執事の男が私の手と口の拘束を解いてくれた。勢いよく入ってきた空気に少しむせる。
「ダレス!裏切ったのか!」
義兄の怒号に、元執事がバツの悪そうな顔をした。
視界が暗くなったと思えば、私の額に公爵様のそれがくっついている。目を閉じて、祈るような静かな声にどきりと心臓が跳ねた。
「すみません。少し待っていてください。」
そう言って立ち上がると、公爵様は騎士の間を縫って進み、義兄と向き合った。
「お久しぶりです、クリング伯爵。」
「これは一体どういうつもりだ、プルトン・バルバストル?」
「貴方はフローラを殺そうとしました。これは紛れもない殺人未遂です。私自身も、ここにいる騎士たちもその言葉を聞いています。言い逃れはできません。」
「俺にこんな仕打ちをしていいと思っているのか!」
クリング伯爵と呼ばれた公爵様の義兄は、今にも公爵様に飛びかかりそうな剣幕だったが、騎士がそれをしっかりと押さえていた。
公爵様は微動だにしない。
「それはこちらのセリフです。私の婚約者に危害を加えようとしたのですから、覚悟してください。」
はっ、と伯爵は鼻で笑った。その目には避難の色が浮かんでいる。
「お前だけ幸せになるつもりなのか?デボラを忘れて?その女に子供を産ませるのか!」
恐らく痛いところを突かれたのだ。公爵様の息を呑む音が聞こえた気がした。
体の緊張は解けた。恐怖も消えた。公爵様を刺すあの男を止めなければ。
私は拳を握って立ち上がった。元執事の足元から輪っか状の縄を拾い、お嬢様、と焦ったような声を置き去りにして、つかつかと伯爵と公爵様の間に歩み出る。
フローラ、と公爵様に腕を掴まれたが、それも振り払う。
形勢逆転。睨み付けてくるクリング伯爵に躊躇うことなく、その胸ぐらを掴んだ。じわじわと積年の、というほど長いわけではないが、公爵様と一緒にいるようになってから積もってきた不満が溢れてきた。
「公爵様に余計な罪悪感を植え付けていたのはあなただったのね。」
「なんだと?」
「前公爵夫人を忘れて幸せになるのか、ですって?それができたら私は苦労しないのよ。公爵様がいつまでも前夫人を忘れられずにいるせいで、前夫人の部屋はそのまま残されているし、私は蚊帳の外だし、恋愛対象外だし!」
目を丸くする伯爵に追い打ちをかける。
「デボラを忘れる?ええ、ええ、そうなればいいなと願っておりますよ。あなたが消えてくだされば、その為の近道になりそうですね。ちょうどここに縄がありますの。」
伯爵の首に、縄の輪っかを掛けてやる。
「用意周到で助かりますわ。」
にっこり笑えば、伯爵の顔が真っ青になった。
いい気味だわ。そう思った時、腕を後ろに引かれた。
振り返れば、公爵様の困ったようなお顔。
しまった。またやった。公爵様だけではない。周りの騎士たちも、なんとも言えないような顔をしていた。
要するに、引いている。
「…なーんちゃって…えへ。」
空気が死んでいる。
「フローラ、彼には然るべき処置をとりますので。」
「…分かっています。」
なにも本気で吊ろうと思っていたわけではいないのに。
というか、私の怒りの演説、捉え方によっては愛の告白になるのでは。いや、でも鈍い公爵様のことだからお気づきにはならないかもしれない。もしくは相変わらずのネガティブ思考でそうは捉えない可能性もある。
それならその方がいい。
そもそも愛の告白以前に、前公爵夫人に対してとても無礼な発言をしてしまった。そっちの方がよっぽどまずい。半分本音だっただけに余計に。
よし、話題を変えよう。
「最初からいらっしゃったなら、もう少し早く出てきてくれても良かったじゃないですか。」
「すみません。言質を取りたかったのです。」
「私を囮にしたのですか。」
両手で手を握られた。自分の手がずいぶん冷えていたのだと気が付く。
「誓って言いますが、わざとそうしたわけではありません。誘拐は完全に想定外です。程度の低い嫌がらせくらいはあると思っていましたが、こんなことまでしでかすとは思っていませんでした。申し訳ありません。」
私が口を尖らせると、公爵様は困ったように笑い、すり身にするので許してください、と顔を覗きこんできた。
「そのネタ引っ張るのやめてください。」
くすりと優しく微笑む公爵様を見て、複雑な感情に襲われた。
公爵様のことが好きだ。前よりずっと。だからこそ、こんな契約結婚など、良くないのではないか。
そんな思いが生まれてきた。
ドレスを注文しに行った。結婚式で着る為のドレスだ。
まず良くなかったのが、公爵様の衣装も私好みで仕立ててしまおうかと邪念を持ち、公爵様を置いてきてしまったことだろう。いや、でも、採寸中に誘拐されたわけだから、結果的には変わらないかもしれない。
私が向かう予定の仕立て屋情報が、敵に漏れていたらしかった。敵が誰かは知らないが。
恐らく私が入店する前に、あの仕立て屋はすでに敵の手中にあったのだ。襲撃されて脅されていたのかもしれない。
入店時の対応に特に変わった点は見られず、採寸をするからと護衛騎士と離れて別室へ通された。部屋に入るなりドアの影に隠れていた男に後ろから口を塞がれ、別の男に後ろ手に縛られ、また別の男に布袋を被され、手際よく誘拐されてしまった。
粗々しく馬車に乗せられてからは袋を外して貰えたが、手は縛られたままで、口には布を詰められてそれを塞ぐようにさらに布で結ばれた。
馬車に乗っていた男は「はじめまして。」と不敵に口角を上げながら、酷く冷めた目を向けてきた。
歳は40代後半といったところだろうか。赤毛にちらほらと白髪が混じっている。
くっきりとした目鼻立ちに薄い唇、鼻の下と顎に生やした髭はきちんと整えられていて、悪人面と言われればそうも見えるが、なかなか見栄えの良い作りをしている。もちろん公爵様とは比べ物にならないが。
身なりからして貴族のようだが、この顔で私のチェックを逃れていたとなると、社交の場にはあまり顔を出さないタイプなのだろう。爵位も高くはないのかもしれない。
「貴女を見れば見るほど、疑問が尽きません。」
こちらのセリフです。
「なぜ、貴女のような女性が、あの男と結婚しようなどと思ったのですか?」
私の口は塞がれているわけだから、本当にその疑問を解決しようなどとは思っていないのだろう。
ただその口ぶりから、公爵様を敵視しているのだということは分かった。
「若くて、人形のように可愛らしく、家柄も申し分ない。貴女に惹かれる男は、五万といるでしょうに。」
赤毛の男は、はぁ、とため息を吐いた。
窓が塞がれていて外は見えないが、だんだんと揺れが大きくなり、道が悪いのだと気がついた。
舗装のされていない田舎道でも通っているのかもしれない。
「私もね、できれば手荒な真似はしたくなかったのですが、あの男が私に対立してきたものですから、仕方なく強硬手段を取ったのですよ。」
まるで公爵様よりも上にいるかのような話し口だ。しかし公爵様は貴族で最高位であるし、王族だというのなら、徹底した教育を受けてきた私が知らないはずがない。
頭がおかしい人なのかもしれない。自分は偉いと思い込んでる系の。考えるだけ無駄なのかも。
私はそっと顔を背けた。すると顎を掴まれ、無理矢理、目を合わせられた。
じっと見つめられ、「デボラには全く似てないな。」と顎を離された。
デボラ。聞き覚えのある名前だ。デボラ・バルバストル。前公爵夫人。
「その顔。どうやら妹のことはご存知のようですね。」
どうやらこの男は前公爵夫人の兄らしい。つまり公爵様の義兄になるわけだ。
顔はどうなのだろう。兄妹で似ているのだろうか。だとしたら前公爵夫人もなかなかの美人だったのでは。気が強そうだけれど。
公爵様はこういう顔が好みなのだろうか。今度は私が男をまじまじと見つめた。
「さすが侯爵令嬢ですね。この状況下で文句も言わず、それだけ落ち着いていられるとは。」
文句の言いようが無いでしょう。口を塞がれているのだから。
「それとも私の顔がお好みでしたか?」
少しだけ!
はっとした。そんなことを考えている場合ではない。私が視線を逸らすと、男は愉快そうにくつくつと笑った。
「そういう反応は傷つきますね。」
喋れない私に、男のひとり語りは続く。
「貴女も運が悪いですね。あの男が人殺しだと知っていたら、婚約なんてしなかったでしょうに。あの男が死神だって、知らなかったのですか?」
だから、問いかけられても喋れないのよ。
「プルトン・バルバストルという男はね、子を流した妻を見限って、放置しておくような男なのですよ。知っていましたか?いや、知っていたら結婚しようなんて思うはずがありませんね。」
私の知っている公爵様は、そんなことができるような方ではない。
「信じられないような顔ですね。真実ですよ。子を失って悲しみの底にいたデボラは、夫からも見放され、夫人の義務を果たせずにいる罪悪感から、池に飛び込んだのです。」
公爵様との約束が思い出された。契約結婚の交渉成立時に言われた、あの約束だ。
きっとこの男は公爵様を誤解している。そして何年もそうやって恨んできたのだろう。
きっと、公爵様もそれをご存知なのだ。それでも強く出れないのは、義理の兄に対して後ろめたい気持ちがあるからかもしれない。
もしかして、死神などと言い広めたのはこの男ではあるまいな?
きっ、と睨みつけると同時に、馬車が止まった。バランスを崩して前のめりになった私を、男が受け止める。
そのまま二の腕を掴まれて馬車を降ろされた。
もう夜になっていた。
赤毛の義兄と御者が持つランタン、それから目の前の木小屋から漏れる灯り以外、暗くて何も見えない。
ずかずかと小屋に向かう義兄に引っ張られる形で私も歩いた。地面がでこぼこで所々つっかえた。
義兄が、ぎぃ、と不気味な音を立てて小屋の戸を開けると、中には見覚えのある人物がいた。
公爵邸で執事をやっていた男だ。公爵様が追い出して出身地へ送ったという男だった。
そうか、あの嫌がらせの協力者ということは、義兄の手下だったということ。だから公爵様の罰も手ぬるかったのだ。
その手に縄を持っているのが見え、私の身は一気に強張る。
「準備はできているか?」
「あ、はい…あとは首にかけて吊るすだけです。」
よし、と義兄は口角を上げて私を見た。
本気だ。私を殺す気なのだ。わざわざ首を吊らせるということは、自殺に見せかけるつもりなのかもしれない。
「すみませんね、侯爵令嬢。貴女に恨みはないが、ここで死んで頂くよ。」
どくどくと鼓動は速まるのに、手足は凍りついたように動かない。
しかし偽兄は容赦なく私の腕を掴み、縄を持つ元執事に放った。どん、と私は元執事に受け止められる。
途端、奥の部屋から、そして小屋の戸口から、どかどかと武装した騎士たちが入ってきて義兄の周囲を取り囲んだ。
義兄はその内の2人の騎士にあっという間に取り押さえられた。
「怪我はありませんか?」
私の前に片膝を付いた人物に目を瞬く。
公爵様。
「遅くなって申し訳ありません。」
周りを見渡せば、その騎士たちの制服はバルバストル家のもので、胸元には誇らしくもその紋章が輝いていた。
唖然としている間に元執事の男が私の手と口の拘束を解いてくれた。勢いよく入ってきた空気に少しむせる。
「ダレス!裏切ったのか!」
義兄の怒号に、元執事がバツの悪そうな顔をした。
視界が暗くなったと思えば、私の額に公爵様のそれがくっついている。目を閉じて、祈るような静かな声にどきりと心臓が跳ねた。
「すみません。少し待っていてください。」
そう言って立ち上がると、公爵様は騎士の間を縫って進み、義兄と向き合った。
「お久しぶりです、クリング伯爵。」
「これは一体どういうつもりだ、プルトン・バルバストル?」
「貴方はフローラを殺そうとしました。これは紛れもない殺人未遂です。私自身も、ここにいる騎士たちもその言葉を聞いています。言い逃れはできません。」
「俺にこんな仕打ちをしていいと思っているのか!」
クリング伯爵と呼ばれた公爵様の義兄は、今にも公爵様に飛びかかりそうな剣幕だったが、騎士がそれをしっかりと押さえていた。
公爵様は微動だにしない。
「それはこちらのセリフです。私の婚約者に危害を加えようとしたのですから、覚悟してください。」
はっ、と伯爵は鼻で笑った。その目には避難の色が浮かんでいる。
「お前だけ幸せになるつもりなのか?デボラを忘れて?その女に子供を産ませるのか!」
恐らく痛いところを突かれたのだ。公爵様の息を呑む音が聞こえた気がした。
体の緊張は解けた。恐怖も消えた。公爵様を刺すあの男を止めなければ。
私は拳を握って立ち上がった。元執事の足元から輪っか状の縄を拾い、お嬢様、と焦ったような声を置き去りにして、つかつかと伯爵と公爵様の間に歩み出る。
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「公爵様に余計な罪悪感を植え付けていたのはあなただったのね。」
「なんだと?」
「前公爵夫人を忘れて幸せになるのか、ですって?それができたら私は苦労しないのよ。公爵様がいつまでも前夫人を忘れられずにいるせいで、前夫人の部屋はそのまま残されているし、私は蚊帳の外だし、恋愛対象外だし!」
目を丸くする伯爵に追い打ちをかける。
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振り返れば、公爵様の困ったようなお顔。
しまった。またやった。公爵様だけではない。周りの騎士たちも、なんとも言えないような顔をしていた。
要するに、引いている。
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「…分かっています。」
なにも本気で吊ろうと思っていたわけではいないのに。
というか、私の怒りの演説、捉え方によっては愛の告白になるのでは。いや、でも鈍い公爵様のことだからお気づきにはならないかもしれない。もしくは相変わらずのネガティブ思考でそうは捉えない可能性もある。
それならその方がいい。
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「すみません。言質を取りたかったのです。」
「私を囮にしたのですか。」
両手で手を握られた。自分の手がずいぶん冷えていたのだと気が付く。
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私が口を尖らせると、公爵様は困ったように笑い、すり身にするので許してください、と顔を覗きこんできた。
「そのネタ引っ張るのやめてください。」
くすりと優しく微笑む公爵様を見て、複雑な感情に襲われた。
公爵様のことが好きだ。前よりずっと。だからこそ、こんな契約結婚など、良くないのではないか。
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