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あーあ。以前のまま残されていた家具に人差し指を滑らせ、掃除済みであることを確認し、殺伐とした、けれど見慣れた部屋をぐるりと見渡したスヴェリオは、髪をくしゃっとさせた。
上手く行って欲しいことは上手くいかず、上手くいって欲しくないことは上手くいってしまう。
「…よく許して貰えたなぁ。」
スヴェリオがそう呟けば、渋々だけれど、とニコは困ったように笑った。
「暴動を抑える策の一環として、と提案したら許可してもらえたわ。」
なんだかんだ人を思い通りに動かす能力が、魔性性が備わっているんだろうなと、スヴェリオはハープナーを連想した。
「嫌だなぁ。どんどん純粋無垢なニコ様じゃなくなってくようで。」
「何を言っているの。私が純粋無垢だったら、スヴェリオと初めて会ったあの日、あなたは近衛騎士隊に引き渡されているでしょう。」
「いやいやそう考えると、あんたが純粋無垢だったら、あの日、俺の手を取って外に連れ出せたはずだな。」
「それなら、今、取っているじゃない。」
「今は俺が縄で縛られて引きずり出されてるんだ。」
ニコが声を出して笑う。覚悟を決めたからなのだろうか。スヴェリオがこんなに明るいニコを見たのは久しぶりだった。内心複雑ではあったが。
ニコはやはり窓際の椅子に腰かけた。以前の定位置で、街を眺められる場所。その景色は以前とは変わってしまった。街に対する想いも、前とは違う。
カルダと心を通わせるまで、ニコにとってアイローイはよその土地でしかなかった。民は他国の民であったし、窓から見える街は知らない街だ。王妃という肩書はあれど、決して妻ではなかった。それが今ではどうだ。カルダが治めるこの国がニコにとってのホームとなり、反王妃を謳う民ですら守りたいと思える。
ニコは窓から小さく見える石造りの家々を眺め、目を細めた。
ニコの考えている方法は、カルダを酷く傷つけるだろう。最善とは言い難いのかもしれない。叔父様もこんな気持ちだったのだろうか、とニコはふと思った。誰かを傷つけると分かっていても、譲れないモノの為に、身を切る思いで罪悪感に背を向けることができたのかもしれない。
「カルダ様に、私を幽閉させたと言い広めるようにと進言したの。」
「多少は効くかな?」
ニコは首を横に振ってスヴェリオに視線を移した。
「幽閉くらいではね。私の処遇を先延ばしにしただけに感じるでしょうし。」
「じゃあどうする。」
「同情を誘うような噂を流せないかしら。」
「…塔に押し込められて毎日しくしく泣いてるって?」
「もっとこう…反乱軍側には、あなたたちのせいで王妃が辛い目に合っている、という印象を与えて、反王妃派の人たちには、そうだもっと立場を弁えろー、ってなるような言い方で。」
スヴェリオは顔を曇らせた。そんなことを言われたら、どっちがだ、と頭を押さえ付けてしまいそうだ。
「なんで反王妃派を調子に乗らせるんだよ。」
「死ぬべきだ、とたくさん責め立てた方が、本当にそうなった時に衝撃を受けるでしょう?」
こんなことは言いたくないけれど、とニコは伏し目がちに続ける。
「…カルダ様がお嘆きになるのを目の当たりにした時に、強く非難したその分だけ、自分に返ってくるのよ。」
スヴェリオの口がぽかんと開いた。
「やりすぎたかもしれないと、ほんの少しでも思ってくれたら成功ね。…少しは頭も冷えるでしょう。」
「…でもさ、反乱軍の方は逆に怒る可能性もあるんじゃないのか?よくもニコ様をー、って。」
「だから、あなたたちのせいで、というニュアンスが必要なの。これが響くのは反乱軍全軍ではないわ。ユハネスを覚えている?トードで会った。」
スヴェリオはこくりと頷く。名前まではうろ覚えであったが、トードで会った反乱軍といえばハープナーとそれにくっついていた金魚の糞だけだ。スヴェリオの中で、糞のことだろうとすぐに見当がついた。
「確か、あんたの護衛をしてたんだっけ?」
「私を専属で護衛していたわけではないけれど、王族護衛騎士団の団長よ。彼が反乱軍にいるということは、私についていた隊の人たちもいる可能性があるわ。」
「で、そいつらに、お前たちのせいだと伝えるとどうなるわけ?」
「王族護衛騎士団は忠義に厚いのよ。」
確かにあの糞はニコ様に礼節を尽くしていた、とスヴェリオは思い出す。1度も王妃様とは呼ばなかったが。
「彼らなら、私の死に動揺してくれると思うわ。」
「仲間割れでも起こさせるのか?」
「そこまで即効性があればいいけれど、そうでなくても多少は人の和が乱れるはず。それが1番厄介でしょう?」
現にアイローイは人の調和を乱され混乱に陥った。ハープナー程の影響力が無くとも、少しでも波風を立たせたい。それがニコの想いだった。
「はいはい分かりましたよ。悲愴感溢れる噂を広めておくよ。」
最期の最後にゴスティラードをこき使ってやろう。スヴェリオはそう決めた。
お願いね、とニコが頷いた。
ドンドンドン。
スヴェリオは外套のフードを深く被り、夜中にバーバリオの家の戸を叩いていた。ニコは幽閉されているという底なので、作戦の準備はスヴェリオ頼りとなっていた。
用心深く戸が開き、バーバリオがスヴェリオの姿を確認し次第、素早く中に引き入れる。
スヴェリオがフードを取っていつものダイニング席へと座る。バーバリオも心配そうな顔つきで向かいに腰を降ろした。
「しばらく来れないんじゃなかったのか?何かあったのか?」
「ちょっと事情が変わったんだ。悪いな、こんな時間に。」
「悪いニュースか?」
こそっとバーバリオが声を潜める。
「ニュースを持ってきたわけじゃない。頼みがあるんだ。」
あぁ、まただ。バーバリオは悪い予感がした。俺たちを危険にさらさない為に距離を置いたスヴェリオが、自分から顔を出して頼みがあるなどと言ってくる。どう考えても非常事態だ。
スヴェリオを見れば、真剣な眼差しを向けられ、そこにいつものへらへらとした気安さはない。
なんだ。そう聞いてしまえばその頼みがどんなものだろうと承諾してしまうだろう。そんな予感がバーバリオの口を閉ざした。
「分かったと言ってくれ。」
「…内容を聞いてからだ。」
「最初に絶対受け入れるって言え。それから話す。」
バーバリオはテーブルに肘をつき、その手の平に額を乗せる。下を向く頭を片手で支え、決意を固めてから顔を上げた。
「…頼みってのは、なんだ。」
スヴェリオはそれを了承と受け取り、1度こくりと頷いた。
「馬をくれ。できれば2頭。難しければ1頭でもいい。」
ぴくりとバーバリオの背筋が伸びる。
「貸せ、ではなく?」
「あぁ。たぶん返せない。」
それの意味するところは1つだった。スヴェリオは王都を出て、そして戻る気がないということだ。
なぜ。王妃様はどうする。様々な疑問がバーバリオの頭の中を駆け巡ったが、最も占めているのは、スヴェリオが自分の手を離れようとしている、ということだった。
子を持った父が子離れする時、こんな感じなんだろうか、とぼうっと考える。
あと、とスヴェリオは懐から四つ折りに畳んだ紙を取り出して、バーバリオに向けてテーブルの上を滑らせる。
「ティテルに渡してくれ。読んだら燃やせって。」
「俺が読んではいけない物か?」
「…別にいいけど。ま、せっかく見るなら手伝ってやってくれ。」
バーバリオがかさかさとそれを開く。手紙というわけではなく、用意をしておくようにと言付けられたリストだった。
商人用の通行手形、行商人用の荷馬車、必要な日数分の食料や着替え等、いかにも秘密裏に王都を抜け出しますというような物がずらりと書き並べられていた。
「馬もティテルに持たせてくれ。」
それだけ言ってスヴェリオはさっと立ち上がり、フードを被った。
バーバリオは反射的にその腕を掴む。
「なぜこれが必要なんだ。」
スヴェリオは笑って誤魔化そうとすらしない。真っ直ぐにバーバリオを見た。
「聞くな。」
「スヴェリオ!」
「バーバリオ、俺からの最後の頼みだ。」
フードの影から赤茶色の瞳が覗く。
「何も聞くな。」
ゆっくりと、スヴェリオの腕からごつごつした職人の手が離れた。
スヴェリオは、じゃーな、といつもの軽い口調で戸口に向かい、さっさと行ってしまった。
上手く行って欲しいことは上手くいかず、上手くいって欲しくないことは上手くいってしまう。
「…よく許して貰えたなぁ。」
スヴェリオがそう呟けば、渋々だけれど、とニコは困ったように笑った。
「暴動を抑える策の一環として、と提案したら許可してもらえたわ。」
なんだかんだ人を思い通りに動かす能力が、魔性性が備わっているんだろうなと、スヴェリオはハープナーを連想した。
「嫌だなぁ。どんどん純粋無垢なニコ様じゃなくなってくようで。」
「何を言っているの。私が純粋無垢だったら、スヴェリオと初めて会ったあの日、あなたは近衛騎士隊に引き渡されているでしょう。」
「いやいやそう考えると、あんたが純粋無垢だったら、あの日、俺の手を取って外に連れ出せたはずだな。」
「それなら、今、取っているじゃない。」
「今は俺が縄で縛られて引きずり出されてるんだ。」
ニコが声を出して笑う。覚悟を決めたからなのだろうか。スヴェリオがこんなに明るいニコを見たのは久しぶりだった。内心複雑ではあったが。
ニコはやはり窓際の椅子に腰かけた。以前の定位置で、街を眺められる場所。その景色は以前とは変わってしまった。街に対する想いも、前とは違う。
カルダと心を通わせるまで、ニコにとってアイローイはよその土地でしかなかった。民は他国の民であったし、窓から見える街は知らない街だ。王妃という肩書はあれど、決して妻ではなかった。それが今ではどうだ。カルダが治めるこの国がニコにとってのホームとなり、反王妃を謳う民ですら守りたいと思える。
ニコは窓から小さく見える石造りの家々を眺め、目を細めた。
ニコの考えている方法は、カルダを酷く傷つけるだろう。最善とは言い難いのかもしれない。叔父様もこんな気持ちだったのだろうか、とニコはふと思った。誰かを傷つけると分かっていても、譲れないモノの為に、身を切る思いで罪悪感に背を向けることができたのかもしれない。
「カルダ様に、私を幽閉させたと言い広めるようにと進言したの。」
「多少は効くかな?」
ニコは首を横に振ってスヴェリオに視線を移した。
「幽閉くらいではね。私の処遇を先延ばしにしただけに感じるでしょうし。」
「じゃあどうする。」
「同情を誘うような噂を流せないかしら。」
「…塔に押し込められて毎日しくしく泣いてるって?」
「もっとこう…反乱軍側には、あなたたちのせいで王妃が辛い目に合っている、という印象を与えて、反王妃派の人たちには、そうだもっと立場を弁えろー、ってなるような言い方で。」
スヴェリオは顔を曇らせた。そんなことを言われたら、どっちがだ、と頭を押さえ付けてしまいそうだ。
「なんで反王妃派を調子に乗らせるんだよ。」
「死ぬべきだ、とたくさん責め立てた方が、本当にそうなった時に衝撃を受けるでしょう?」
こんなことは言いたくないけれど、とニコは伏し目がちに続ける。
「…カルダ様がお嘆きになるのを目の当たりにした時に、強く非難したその分だけ、自分に返ってくるのよ。」
スヴェリオの口がぽかんと開いた。
「やりすぎたかもしれないと、ほんの少しでも思ってくれたら成功ね。…少しは頭も冷えるでしょう。」
「…でもさ、反乱軍の方は逆に怒る可能性もあるんじゃないのか?よくもニコ様をー、って。」
「だから、あなたたちのせいで、というニュアンスが必要なの。これが響くのは反乱軍全軍ではないわ。ユハネスを覚えている?トードで会った。」
スヴェリオはこくりと頷く。名前まではうろ覚えであったが、トードで会った反乱軍といえばハープナーとそれにくっついていた金魚の糞だけだ。スヴェリオの中で、糞のことだろうとすぐに見当がついた。
「確か、あんたの護衛をしてたんだっけ?」
「私を専属で護衛していたわけではないけれど、王族護衛騎士団の団長よ。彼が反乱軍にいるということは、私についていた隊の人たちもいる可能性があるわ。」
「で、そいつらに、お前たちのせいだと伝えるとどうなるわけ?」
「王族護衛騎士団は忠義に厚いのよ。」
確かにあの糞はニコ様に礼節を尽くしていた、とスヴェリオは思い出す。1度も王妃様とは呼ばなかったが。
「彼らなら、私の死に動揺してくれると思うわ。」
「仲間割れでも起こさせるのか?」
「そこまで即効性があればいいけれど、そうでなくても多少は人の和が乱れるはず。それが1番厄介でしょう?」
現にアイローイは人の調和を乱され混乱に陥った。ハープナー程の影響力が無くとも、少しでも波風を立たせたい。それがニコの想いだった。
「はいはい分かりましたよ。悲愴感溢れる噂を広めておくよ。」
最期の最後にゴスティラードをこき使ってやろう。スヴェリオはそう決めた。
お願いね、とニコが頷いた。
ドンドンドン。
スヴェリオは外套のフードを深く被り、夜中にバーバリオの家の戸を叩いていた。ニコは幽閉されているという底なので、作戦の準備はスヴェリオ頼りとなっていた。
用心深く戸が開き、バーバリオがスヴェリオの姿を確認し次第、素早く中に引き入れる。
スヴェリオがフードを取っていつものダイニング席へと座る。バーバリオも心配そうな顔つきで向かいに腰を降ろした。
「しばらく来れないんじゃなかったのか?何かあったのか?」
「ちょっと事情が変わったんだ。悪いな、こんな時間に。」
「悪いニュースか?」
こそっとバーバリオが声を潜める。
「ニュースを持ってきたわけじゃない。頼みがあるんだ。」
あぁ、まただ。バーバリオは悪い予感がした。俺たちを危険にさらさない為に距離を置いたスヴェリオが、自分から顔を出して頼みがあるなどと言ってくる。どう考えても非常事態だ。
スヴェリオを見れば、真剣な眼差しを向けられ、そこにいつものへらへらとした気安さはない。
なんだ。そう聞いてしまえばその頼みがどんなものだろうと承諾してしまうだろう。そんな予感がバーバリオの口を閉ざした。
「分かったと言ってくれ。」
「…内容を聞いてからだ。」
「最初に絶対受け入れるって言え。それから話す。」
バーバリオはテーブルに肘をつき、その手の平に額を乗せる。下を向く頭を片手で支え、決意を固めてから顔を上げた。
「…頼みってのは、なんだ。」
スヴェリオはそれを了承と受け取り、1度こくりと頷いた。
「馬をくれ。できれば2頭。難しければ1頭でもいい。」
ぴくりとバーバリオの背筋が伸びる。
「貸せ、ではなく?」
「あぁ。たぶん返せない。」
それの意味するところは1つだった。スヴェリオは王都を出て、そして戻る気がないということだ。
なぜ。王妃様はどうする。様々な疑問がバーバリオの頭の中を駆け巡ったが、最も占めているのは、スヴェリオが自分の手を離れようとしている、ということだった。
子を持った父が子離れする時、こんな感じなんだろうか、とぼうっと考える。
あと、とスヴェリオは懐から四つ折りに畳んだ紙を取り出して、バーバリオに向けてテーブルの上を滑らせる。
「ティテルに渡してくれ。読んだら燃やせって。」
「俺が読んではいけない物か?」
「…別にいいけど。ま、せっかく見るなら手伝ってやってくれ。」
バーバリオがかさかさとそれを開く。手紙というわけではなく、用意をしておくようにと言付けられたリストだった。
商人用の通行手形、行商人用の荷馬車、必要な日数分の食料や着替え等、いかにも秘密裏に王都を抜け出しますというような物がずらりと書き並べられていた。
「馬もティテルに持たせてくれ。」
それだけ言ってスヴェリオはさっと立ち上がり、フードを被った。
バーバリオは反射的にその腕を掴む。
「なぜこれが必要なんだ。」
スヴェリオは笑って誤魔化そうとすらしない。真っ直ぐにバーバリオを見た。
「聞くな。」
「スヴェリオ!」
「バーバリオ、俺からの最後の頼みだ。」
フードの影から赤茶色の瞳が覗く。
「何も聞くな。」
ゆっくりと、スヴェリオの腕からごつごつした職人の手が離れた。
スヴェリオは、じゃーな、といつもの軽い口調で戸口に向かい、さっさと行ってしまった。
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