私たちの歪な三角形

daru

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 午前のうちに街へ出て、昼過ぎに戻ってくると、数日ぶりに執務室に父がいた。

 そこへノックもせずに戸を開けてしまったから、一瞬にして背筋が凍りついた。

「あ、申し訳ありません!」

 すぐに戸を閉めようとしたが、「ミラン。」と低い声で呼び止められ、逃げることも叶わなかった。

 母と対面時の発作以来、父は数日の間、自室で養生していた為に、代わりに私が父の執務を処理していたのだ。
 といっても、候爵領へ引っ越してきた時に男爵領には代官を立てた為、大した量でもなかったが。

 私は観念して一歩踏み出し、戸を閉めた。

「お加減は、いかがですか?」

 見たところ軽い咳は出ているようだが、苦しそうな呼吸音は無いようだ。

「見ての通りだ。」

 症状が軽くなったと受け取れば良いのか、それとも、まだ咳が続いていると受け取れば良いのか。ただ、「そうですか。」と返した。

「あの書類はどこにある?」

 あの書類?

「と、申しますと?」

 理解が遅いとまた父の怒りに触れるのではと、おずおずと訊き返したが、父は珍しく自分から視線を逸し、平静に答えた。

「離婚届だ。シャールナーが持ってきた。」

 ああ、と私は書棚の下の戸を開け、筒状に丸めて保管していたそれを取り出した。

 席から動く様子のない父に、それをおずおずと持っていき、デスクの上にそっと置く。

 サインをするのだろうか。
 シャールナーの喜ぶ姿が目に浮かぶ。

 父は書類を広げてペンを持ったが、勿体ぶるようになかなか手を動かさなかった。

 もしかして私が出ていくのを待っているのだろうか。
 どちらにせよ、殴られる前に出ていく方が賢明かもしれない。

「あ、では、私は失礼いたします。」

 軽く頭を下げると、「いいのだな?」とぼそりと低い声が放たれた。

 いいのだな?何がだろう。

 このまま部屋を出ていっていいのだな?いけない理由があるだろうか。
 サインをしていいのだな?とっくに破綻していて遅すぎるくらいだし、そもそも子である私が首を突っ込む問題ではない。

 どれだけ考えを巡らせても、父の言葉の意が分からない。
 自分を落ち着かせるように胸元をぎゅっと掴み、ごくりと唾を飲み込んだ。

 父にじろりと睨まれれば、正直に言うしかない。

「な…何がでしょう、か…。」

 すでに肩が竦み上がり、暴力に備えている。
 しかし、父は軽く息を吐き出しただけで再び書類に視線を落とし、「いや。」と低く答えて、滑らかにペン先を走らせた。

 いつになく父が静かだ。医師にそうするように言われているのだろうか。

 それならば今のうちに。

「では、私はこれで。」

「座れ。」

「…はい。」

 逃げられない。

 私がデスクの前にあるソファに座ると、父も席を立ち、私の対面へと腰を下ろした。
 テーブルに何やら紙の束が置かれる。

 もしかして私が処理した事項の中に、何かミスがあったのだろうか。
 額から汗が吹き出た。

「まずはこれだ。」

 そう言って渡された書類の束を、恐る恐る受け取る。

「これまでも度々行っていたのだから、問題ないだろう。」

 何の話かと急いで書類に目を通すと、そこには驚くことが書かれていた。

「委任状?ど、どういうことですか?」

「爵位が終身でなければ継がせるところだが。」

「何を仰って…。」

「お前を当面のあいだ私の代理とし、私の持っている権限を託そうと思う。」

 詳細は別途資料を読むようにと言われ、焦ってそちらを開いた。そしてすぐ閉じる。
 まず、読むのは後だ。

「なぜ急に…。」

 私が父を見つめると、また父の方から視線を逸した。

「私の体調を考えれば当然だろう。」

 その穴はフォローしてきたつもりだった。
 父が寝込むことになっても、自分にできることを精一杯やってきたつもりだったが、足りなかったのだろうか。

 すると、父はまた書類の束を渡してきた。

 今度は私が候爵にアドバイスと支援を貰って起案していた、男爵領の用水路建設推進事業の書類だった。
 父の決裁を貰いしだい、着手しようと思っていた。

「な、何か不備がありましたか?」

 侯爵にも合格を貰えた起案書だったのだが。

「侯爵閣下にご助力頂いて大きな事業を始めるのだ。今後、私の発作ごとに決裁が遅れては、支障を来たすだろ。」

 そうは言っても、私が通った学校は平民と同じだし、領地管理はほとんど独学で、父の見様見真似でしかない。
 それを一任されるのは荷が重い。

「父上がゆっくりご養生できるよう、私がもっと頑張ります。ですから、権限はそのまま父上が…!」

「ミラン。」

 諫めるような、重い声だった。

「お前はもう、母の帰りを待つような、幼い子供ではないんだろ。」

 こんこんと咳をして、ふうと軽く息を吐いた父の目は、いつものような怒りを孕んだ目とは違い、どこか力が抜けていて、消えてなくなってしまいそうな儚さを感じた。

 じわりと目頭が熱くなった。

 もしかして、父は、もしかすると、私のことを認めてくれようとしているのではないか。
 そんな期待が胸を強く締め付けた。

「それから、これを読め。」

 次に渡されたのは侯爵からの手紙だった。

 そこには、騎士団の訓練の参加を快く認めると書いてある。
 事態が飲み込めない。

「騎士団とは…?」

「サーディッド家の騎士団だ。」

 騎士などとんでもないと言おうと思ったが、ごっほごっほと父の咳が出て口を閉じた。

「騎士になれと言っているわけじゃない。ただ、まともな武芸も習ったことがなかっただろ。」

 確かにそうだ。

 オクシーという姓は変わらずとも、名の通ったサーディッド家の娘を嫁に貰った身だ。結婚式の参列者も、お祝いの贈り物も、心臓を落とすかと思ったほどの量だった。

 父の言う通り、あらゆる面で恥をかくことのないように、ある程度は学ぶべきかもしれない。

 私はこくりと頷いた。

「分かりました。やれるだけやってみます。」

 父同士で連絡を取り合っていたことに少し驚いた。
 侯爵はあまり父を快く思っていないようだったから、少し意外だ。

「私は、前の邸の改装が終わったら、領地へ戻ろうと思う。」

「えっ?!…な、なぜですか?」

 突然の告白に度肝を抜かれた。

「改装後は邸も十分立派になるしな。それに、お前は侯爵閣下に好かれているが、私は睨まれている。」

 父が出て行ってしまっては、私がシャールナーに睨まれる。

「父上が戻っては、代官を立てた意味が無くなります。それに、領主ご自身が領地におられるなら、私に委任する意味も無くなります。」

 どうにか父を引き留めようとすると、父の眉間にしわが寄った。

「お前は…私がいない方がいいんじゃないのか…。」

 まっすぐと見つめられた視線から、今までの暴力の話をしているのだと悟った。
 無意識に肩がすぼむ。

 だが父を逃した後のシャールナーを考えると、その方が恐ろしい。
 それに、阻止しようとするシャールナーの手によって、父自身が危険な目に合わされる可能性もある。

「父上には、いて頂かないと、困ります。ええと、領地の件の相談もできませんし…。」

「その件は一任すると言っただろ。」

 無情にも、立ち上がってデスクに戻り、話を終わらせようとする父。
 慌てて私も立ち上がった。

「だ、だめなんです!」

 父が怪訝な表情を浮かべるのは仕方がない。不自然過ぎた。

「あ、ええと、一任されるのが嫌というわけではなく、いえ、もちろん不安はありますが、そうではなく…。」

「何かあるならはっきり言え。」

 これ以上の言い訳が思いつかない。

 もう正直に話してしまった方が早いかもしれない。
 シャールナーには悪いが、その方が父としても対策が取れるし、私が復讐の為に彼女を差し向けているという誤解も解ける。

 前は聞く耳を持って貰えなかったが、今の父なら耳を傾けてくれるかもしれない。

「あの…これは、他言しないで頂きたいのですが…。」

「早く言え。」

「シャールナーのことです。」

「彼女がどうした。」

「その…実は…人の苦しむ姿が好きで…。」

 さすが被害者である父は、眉ひとつ動かさない。

「その…好きな人を、虐めたくなる性分のようでして…。」

 ここまで言えば気づくだろうか。
 ちらりと様子を窺ったが、表情にあまり動きはなかった。

「あの子が困った性分なのは分かるが、だからと言って離婚は認められないぞ。」

 だめだ。伝わっていない。

「そ、そうではなく…彼女が好いているのは、父上だと…いうこと、です。」

 父の目が見開かれた。

「ですからシャールナーは父上ばかりを…。」

 虐める、痛めつける、虐げる。適当な言葉が見つからない。

 父はごほっごほっと咳をして、どさりと椅子に座ると、デスクに肘をついて頭を抱えた。

「そんなわけが…。」

「ですから、父上にはここにいいてもらわなければ…。彼女がどういう反応をするかも分かりませんし…。」

 だんだん父の咳の頻度が狭まってきた。

 失敗した。
 せっかく体調が落ち着いたところだったのに、精神的にストレスを掛けてしまったかもしれない。

「父上、あの、私もシャールナーに振り向いてもらえるように努力しますので!」

 おかしい。父を安心させる為に言ったのに、なぜさっきよりも訝しげな顔をされるのだろう。

「お前は…彼女を好いているのか?」

 一気に顔が火照った。
 結婚までしておいてとも思うが、こんな話を父とするのはもちろん初めてのことだったので、余計に気恥ずかしい。

 しかし嘘をつく必要もないので、素直に「はい。」と頷くと、父の眉は増々寄った。

 何か間違えただろうか。
 それとも恋愛など考えず、サーディット家のご機嫌取りに集中しろということだろうか。

「まあ…私の…せい、か。」

「あっ!ちっ、違います!」

 ようやく父の言わんとしていることに気がついた。

「そういう趣味ではありません!私も痛いのは嫌いです。」

 あ、今度はまるで父に向けたような言葉になってしまった。

 父が視線を逸して「そうか。」と濁す。

「ですから、その…シャールナーにはとても支えて貰っていて、不本意というのも言葉が悪いですが…でも、そのように、いつの間にか惹かれてしまったんです。」

「そうか。」

 それで、領地に戻るという考えは改めてくれただろうか。

「とりあえず、その件はまた話そう。」

 こんなこっ恥ずかしい話を、また。

「昼食は食べたのか?」

「いえ、これからです。父上は召し上がりましたか?」

「シャールナーに誘われてな。」

 不在にしていてすみません。
 もしかして父は、彼女から逃げる為に執務室にいたのかもしれない。

「では私も頂いてきます。」

「ああ。」

 私は軽く頭を下げてから背を向けて歩き出したが、部屋を出るところで、ぴたりと足を止めた。

 そういえば、父の信頼に対する返事を、まだちゃんとしていなかった。

 くるりと踵を返す。

「父上、当主代理の件ですが、謹んでお受けいたします。父上のご期待に添えるよう、より一層努力して参ります。」

 今度は深々と頭を下げた。

 返ってきた返事は「ああ。」と短いものだったが、その一言が、私の胸をいっぱいにした。
 
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