私たちの歪な三角形

daru

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「父上!」

 咄嗟にシャールナーが父を支えてくれた。
 私は急いで立ち上がって部屋の外まで走り、掃除をしていた使用人を呼び止めて、すぐに薬を持ってくるように伝えた。

 部屋に戻ると、目に入った光景に胸を殴られたような衝撃を受けた。

 父がシャールナーの胸元に頭を預け、彼女の手がその背を擦っている。
 息が苦しくてもたれ掛かっているという状況なのは理解しているが、一見すると抱き合っているかのようだ。

「ミラン、薬は?」

「すぐに持ってくるよう言いました。」

 母には悪いが、やはりここにいてもらっては困る。

 ちらりと見ると心配そうにする母の濡れた目と視線がぶつかり、私の心情を察してくれたのか、「私は早く出た方が良いわね。」とそそくさとペンを取り、サインを済ませた。

「ミラン、これだけは覚えていてちょうだい。」

 母はまた瞳を潤ませながら、私に微笑んだ。

「あなたにしたことは本当に申し訳ないと思っているわ。けれど、あなたを忘れた日なんて、1日だって無かったの。本当よ。」

 普通の息子なら、感動するのだろうか。

 喜びは確かに感じる。けれど、自分の中でとっくに折り合いをつけた物事に、今更どう言われても心は動かなかった。

「母上、私は、母上を恨んではいません。母上の愛が無かったとも思っていません。」

 ただ、多くなかっただけだ。
 そして、全ての愛情を子供に捧げるべきだなんて、横暴な事を言うつもりもない。

「母上が私に囚われず、幸せな道を歩まれたのであれば、それで良かったと思います。」

 父はそうはいかなかった。
 私の道連れにしてしまった。

 だから、私が最も大切にすべき人は、父なのだ。

「けれど、ここはもう母上のいるべき場所ではありません。今後は邸に来るのはお控えください。長く苦しんできた父を、これ以上刺激しないであげてください。」

 母の涙に心は軋むが、こう言うほかにどうしようもない。

「母上、馬車を用意させますので、暫くお待ちください。」

 そう言うと、慌ただしく戸が鳴り、眼鏡の執事が入ってきた。

「大旦那様が発作とお聞きしました!」

 その手に持つ薬の小瓶を受け取り、馬車の用意を頼んだ。

 未だひゅうひゅうと苦しむ父の傍らに跪く。

「父上、お薬です。飲めそうですか?」

 もはや空気を吸えているのかも疑いたくなる呼吸音に、恐怖が滲む。

 父は慣れているのか、震える手で小瓶を受け取り、その中身を一気に喉に流し込んだ。
 すぐに手で口を塞ぐ。しかし咳を抑えきれず、飲んだ薬が少し指の間から滴った。

 メイドに用件を申し付けて帰ってきた執事が、瞬時にナプキンを差し出す。

「奥様、お支えする役、交代致します。」

 本来は私が言わなければならない言葉なのだろうが、きっと私では拒否されるだろう。

 このまま執事に任せようと思ったが、シャールナーがきっぱりと断った。

「いえ、今動くとお辛いでしょうから、もう少しこのままでいいわ。その代わり、お医者様を呼んでちょうだい。」

 それは心配して言っているのか、それとも下心か、言わずもがな後者だろう。
 役得、と顔に書いてある。

 私はもやもやとした気持ちを苦笑に変えて、母に手を差し出した。

「馬車まで送ります。」

 すると、ミラン、とシャールナーに呼ばれた。

「何でしょう?」

「お義母様に決められた分の金額を持たせてね。」

「え?」

 シャールナーが指で示した離婚届を手に取り1枚捲ると、財産分与についての書類があった。

「そんな、シャールナーさん。もうとっくに家を出た身です。頂けません。」

「いいえ、お義母様。これは一方的な婚姻の無効化ではなく、しっかりと手順を踏んだ離婚です。といっても、お義母様が長らくご不在だったのは事実ですので、分与といっても雀の涙ですが。」

 それでも平民として生きる母には大金だろう。

「馬車を用意したとはいえ、そのお金を持って移動するのは不安でしょうから、お父様が置いていった騎士を連れて行ってください。」

「そんな、護衛まで…。」

「いえ、あの2人が家にいるとうるさいので。お行儀が悪くて、邸のお菓子を全て食べられてしまいそうですわ。」

 あ、私がそのようにもてなすように言ったからか。

「どのみちあの2人もペンティへ行く予定でしたので。」

 確かにその通りだが、少し休憩させてあげようと思っただけなのに、なんだか申し訳ない。

 シャールナーは本心だったのだろうが、母は気づかいと受け取ったらしく、何度もシャールナーにお礼を言って頭を下げた。

「さあ、行きましょう、母上。」

 今度こそ母の手を取り、シャールナーに言われた通りの処理をして、母を馬車に乗せた。
 何かあれば手紙をくださいと母に伝え、でこぼこ騎士に旅費と侯爵への手紙を託し、手を振って見送った。

 私にとってはなんとも清々しい最後だったが、父はどう思っているのだろうか。

 父の様子が気になって母が泊まった客間に戻ってみたが、既に移動したらしく、部屋を片付けているメイドしかいなかった。

 どっちにしろ疎まれている私が顔を見せても仕方がない。

 父の代わりに執務室へ行って自分のできることをやろう。

 しかし、はたと気がついた。

 シャールナーが父の安静を邪魔しているのでは。

 今日の発作はいつもよりも重かった。
 そんな父を余計に虐めているのでは。

 不安になった私は、少し早いが、シャールナーを昼食に誘うことにした。

 結婚式を挙げた日、窓から見惚れた庭園に席を用意してもらい、そこへシャールナーを呼んでもらった。

 彼女は、父を支えていた時にドレスが汚れたのか、別のドレスに着替えていた。

 キラキラと刺繍が光る淡いブルーのドレスに、光芒のような金の髪も相まって、彼女1人だけがライトで照らされているかのように眩しく感じた。

「どうしました?このようにロマンチックなお誘いをなさるなんて。」

 なるべく父から遠ざける作戦ですとは、口が裂けても言えない。
 けれど、それに代わる理由をちゃんと用意していた。

「お礼です。母を丁重に扱ってくださって、ありがとうございました。」

 彼女の席の椅子を引いて座ってもらい、彼女のグラスにワインを注いだ。
 そうしてから自分の分も注いで、彼女にグラスを傾けた。

 彼女も同じようにしてから口を付け、にこやかにグラスを置いたかと思うと、ガンッ、と穏やかではない音が鳴った。

 シャールナーの礼儀作法は完璧だ。もちろん食事のマナーも。
 普通にしていれば、このような音が鳴るはずがなかった。

 つまり、怒気を感じる。

「まったく、家族を捨てたにしては、堂々となさった方でしたね。」

 そうだろうか。肩身狭そうに身を縮めていたけれど。

「ラディム、ですって。どうして身分を捨てた者が、ラディム様を呼び捨てに?」

 ああ、嫉妬か。
 父を玩具にしているように見えるが、嫉妬をするほどちゃんとした好意を持っているのだ。

 まただ。胸がもやもやとする。

「父は大丈夫ですか?」

「まだ呼吸は苦しそうですがだんだん落ち着いてきておりましたし、薬も処方して貰いましたので、安静にしていれば大丈夫でしょう。」

 サインして頂くのはまた後日ですね、と口を尖らせるシャールナー。

 そこで、ふと疑問に思った。

 父を慕っていて、父が独身になることを喜ぶのは、分からなくもない。
 けれどシャールナーは独身ではない。私の妻だ。

「あ、あの、シャールナー…。」

「何でしょう?」

「まさか…私との離婚まで、お考えでは…ありません、よね?」

 シャールナーは一瞬きょとんとした後、妖美に口角を上げた。

「うふふ、どうしましょう?」

 私は無意識にフォークを落としていた。
 しかしそんなことを気にしている場合ではない。

「シ、シャールナー、離婚など考えないでください。貴女のお気持ちを1番に考えます。蔑ろにしたり、不利益を被せてしまうようなことは絶対にしません。貴女の好みではなくても、気に入って頂けるように努力します!」

 いやいや気に入って貰ったら困るだろう。
 しかし勝手に動く口が止まらない。

「貴女の幸福の為に、精一杯努力しますから…どうか…。」

 彼女と離婚をしたくないのは本心だ。
 彼女と過ごす時間を手放したくない。

 けれど、これではまるで、愛の告白ではないか。

 ドキドキドキドキと、心臓がこれまでに無いほど暴れている。

「あらまあ、頭の天辺まで赤くなさって、爆発でもしてくださるの?」

「で、できません。」

 背をだらだらと汗が伝い、頭が上手く働かない。

 違う。違うはずだ。そう何度も頭の中で唱えた。

「ふうん。」

 と彼女から漏れる微かな相槌まで、心地よく耳に届くものだから厄介だ。

 彼女はさらに悪戯に微笑んだ。

「そういえば、ミランもあのようにはっきりと自己主張できるのですね。」

「え、何のお話ですか?」

「お義母様に対してです。あの方がいるべき場所ではありません、と。」

「あ、あれは…。」

 彼女には、家庭のごたごたの全てを見られてしまった。
 今更ながら、情けなくなる。

「お恥ずかしい場面をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。」

「いえいえ、ご立派でしたよ。格好良かったです。」

「かっ…!」

 彼女は分かって言っている。そういう顔をしている。
 そう理解してはいるが、顔に登って来る熱は、制御不能だった。

 言われたことが無いわけではない。むしろ多々あった。
 それなのに、この胸が満たされるような感覚は何なのだろう。

 まさか。ありえない。
 でもこれ以上、誤魔化しようがない。

 私は、地獄から現れたようなサディストの化身に、恋をしてしまったのかもしれない。
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