19 / 43
第1部
18.
しおりを挟む
街を歩くのは久しぶりだ。それどころか、邸の敷地外に出ることすら久しぶりなのだ。
とはいえ散歩気分でスキップするわけには行かなかった。
尾行されている。こっそりと邸を抜け出してからずっとだ。
恐らくトレシュの私兵の誰かだろう。見覚えがある。
なぜ私を引き留めず尾行にとどめているのかは解らないが、トレシュに伝わる前に、一刻も早く撒かなければならない。
トレシュとはもう縁を切るのだ。
これ以上、関わってはいけない。側にいてはいけない。望んではいけない。
足早に人の多い通りに出た。いきなり小道に入っても、ぴったりとマークされるだろうと思ったからだ。
その為まずは人込みに紛れた。
人を避けて歩くのは得意だ。視線や膝やつま先の向きで、なんとなく、どう動くのかが予測できる。
体の麻痺があってから、元通りに動けるか不安があったが、これくらいはなんともなかった。
荷物を肩に乗せた体の大きい奴隷がこちらの方へ歩いてくるのが見え、私もそちらへ向かった。
その大きな図体と影が重なった瞬間、素早くしゃがむ。地面の何かを拾うふりをして、くるりと方向転換をして立ち上がった。再び人込みに紛れて歩みを進める。
集合住宅が並ぶ細い小道に入ると同時に、警戒しながら後ろを振り向く。
尾行者がきょろきょろと頭を動かしているのが見えた。どうやら見失ってくれたらしい。
尾行者はすれ違う人々と肩をぶつけながら、私がしゃがむ前に向かっていた方向へと探しに行った。
私は通りに背を向け、街中に張り巡らされた小道の中を進んだ。
散乱したゴミの異臭に耐え、角を何度か曲がると、出会い頭にフードの男に腕を掴まれそうになった。ぎりぎりで腕を引いて避け、反対の手で男の喉に突きを食らわそうとしたが、その手は男に掴まれた。
「はは、おっかないな。」
声を聞いて、すぐに手を引っ込めた。すると男はフードを外し、耳の高さまでの波打つ赤毛を露わにした。
「ナイジェル!」
胸の内で喜びが弾け、ナイジェルの胸に飛び込んだ。彼も笑ってハグを返してくれる。
「元気そうで安心した。」
強く抱き合い、満足してから離れた。
顔を見れたのは嬉しいが、喜んでばかりもいられない。
ナイジェルが孤児院を離れるということは、非常事態が起きたということだったからだ。
「こっちへ。」
ナイジェルは再びフードを被り歩き出した。私もショールで金髪を隠し、後を追う。
多岐に渡る細い小道を、ナイジェルは迷いもせずに進んだ。
考えてみれば、ここはナイジェルの故郷だ。ナイジェルは自分のことをあまり話そうとしない為、私もセスも無理に訊いたりしなかったが、慣れた場所なのかもしれない。
懐かしさを感じたりもしているのだろうか。
しかしナイジェルの表情からは、なんの感情も読み取れない。
驚いたことに、ナイジェルの目的地は神殿だった。トレシュとも来たメローニネナ神殿。
どこかに馬でも用意しているのかと思ったが、なぜわざわざこんなに目立つ場所に来たのだろう。
ナイジェルは足を止めることなく敷地内へと進入し、以前行った薬草園とは反対方向に伸びる遊歩道へと進む。
ただの散歩道なのか、ところどころに花壇や彫刻像はあるものの、人が少なく静かな場所だった。
「こんな所に来て大丈夫?」
不安で口に出したのだが、ナイジェルは余裕そうにくすりと笑った。
「シノアだったら怪しい奴を探す時、どこを探す?」
「…なるほど。」
裏路地や治安が悪く、きな臭い地区を探すだろう。神殿など言語道断だ。
「ああいう場所は臭いし汚いし。こっちの方が話をしやすいだろ?」
それを聞いて、指先をもじもじと絡ませた。神経がピリつく。
「ただ帰るだけじゃない、ということね。」
ナイジェルは表情を引き締めた。
「リリーが死んだ。」
聞き間違いかと思った。なぜならリリーは私たちの中で1番若い。
急激に心臓が冷え込み、冷たい血が全身へ送られていく。
「どうして…。」
「トレシュからの書簡を追って帝都へ行ったことは、セスから聞いてるな?」
小さく頷いた。
「リリーは、皇帝からの返信を奪う為に伝令使を襲ったんだ。セスが合流した時には、既に深手を負っていたらしい。」
片手で頭を抱える。
「リリー、どうして…。」
「あいつはシノアが怪我したことで気が立っていた。いや、それだけじゃない。私が殺しをさせない事にもだ。」
リリーは早く一人前になりたがっていた。その為に暗殺任務をしたいと、よく愚痴を溢していた。そうすることで本当に私たちの仲間になれるのだと、そう思っているようだった。
「きっと、成果を上げようと…。私の責任だ。リリーを帝都へ行かせるべきではなかった。無理をするなとは言ったが、聞ける状態ではなかったんだ。」
ナイジェルは俯き、眉間に親指を付けた。
また1人で背負おうとしている。
私はナイジェルの眉間にある手を掴み、その顔を見上げた。
「違う、ナイジェル。これは怪我をした私のせい。リリーを刺激してしまった。」
ナイジェルはくっきりと整った目を見開き、私の首元に指先を這わせた。そして苦しそうに顔を歪ませる。
「お前のことも、あの男の元に送り込むんじゃなかった。」
「どうして?」
「シノア、あの男に抱かれたのか?」
ナイジェルは私の両肩を掴み、真っ直ぐに目を合わせた。
抱かれたとは、つまりそういうことだろうか。
一気に顔が熱を帯び、隠すように俯いて、手の甲を口に押し付けた。
なぜ気づかれたのだろう。
「何を言って…。」
「あの男を慕っているのか?」
「そんなわけ、ない。」
声を絞り出してそう言うと、ナイジェルは顔をしかめて、ゆっくりと瞬きをしながら深く呼吸をした。
「シノア、お前は東に向かい、セスと合流しろ。旅の準備を整えているはずだから。」
「どういうこと?ナイジェルは?」
「私はやることをやってから、後を追う。」
ナイジェルの、決意を込められた瞳を見て、胸中が不安でいっぱいになった。
何か良くない事が起きている。そう直感した。
「もしかして、リリーの仇をとるの?だったら私もついて行く。」
「違う。」
「じゃあ何?ナイジェル、納得できない内は、1人でここを離れることはできない。」
ナイジェルは一瞬驚いた顔をして、少し躊躇ってから重そうに口を開いた。
「トレシュを殺す。」
束の間、呼吸を忘れていた。
心臓を貫かれたような衝撃が走った。冷たい刃が突き立てられ、傷口を広げようとしているような感覚だ。
「殺さないんじゃ…なかったの?」
「事情が変わったんだ。リリーが奪った書簡から、あの男の目的が分かったんだ。」
「目的?」
衝撃に備え、胸を擦ってどうにか自分を律した。
「あの男は、私たちを探していたんだ。帝国高官の連続暗殺犯を。自分が餌になりやすいようにこの地へふらりとやって来て、秘密裏に捜査していたんだ。」
その餌に喰いついてしまったわけだが、とナイジェルは苦い顔をした。
「シノア、恐らくお前は既に捕捉されている。孤児院にも物品の寄付を口実に、あいつの私兵たちが来た。今も見張られている。」
「いつ?もっと早く知らせてくれたら!」
「1週間前だ。早く連絡を取りたかったが、お前は厳重に見張られていて近づけなかった。だからこうやって、お前から出てくるのを待つしかなかった。」
ああそうか。トレシュのあれは、心配でも過保護でもなく、容疑者を監視していたのだ。
甘い言葉も、優しい手も、全て私を閉じ込めておく為の鍵だったのか。
そう考えるとしっくりきた。と同時に、目の奥が熱くなる。唇が震えた。
それでも嫌いになれないのは、今までのトレシュの考え方や人柄全てが演技だとは思えないからだ。
「孤児院…は。」
「全てマニャに任せてきた。ナッザリオも置いていく。」
10年前、孤児院を乗っ取ってすぐに亡くなってしまったアウローラの子、ナッザリオ。ナイジェルが勉強を教え、剣の稽古をつけ、まるで自分の子供のように目をかけている子供だった。
別れるのは辛いが、賢明な判断だと思った。素直で聡明なナッザリオまで、光の届かないこちら側へくる必要はない。
それに、面倒見の良いマニャが付いているなら安心だ。
私はナイジェルの服を掴んだ。
「私はこうやって出てきたわけだから、このまま2人でセスの所へ行こう。田舎で、3人で静かに暮らそう。」
ナイジェルは首を横に振った。
「シノア、あの男は有能かもしれない。社会に必要な人材かもしれない。しかし生かしておけば、いずれまた危機的状況に陥る可能性もある。」
言わんとしていることは分かる。唇を噛みしめた。
「10年前私は、私が守るべき者たちに守られ、逃げ延びてしまった。私にはもう、シノアとセス、お前たちだけだ。力のある者に睨まれた以上、ここで逃げるわけにはいかない。あの男を殺して、お前たちの安全だけは確保する。」
本気だ。本気でトレシュを殺そうとしている。
こうなってはナイジェルの考えはもう変わらないだろう。
けれど、ナイジェルとセスしかいないのは私だって同じ事。
ナイジェル1人に危険を押し付けるなんてできるわけがない。トレシュを見殺しにすることも。
”考えることを止めちゃいけないよ。”
考えてる。足りない頭なりに考えてるよ。
脳内で響くトレシュの声に、苛立ち、反論する。
「無理だよ。」
「無理でもやるんだ。」
死を覚悟している。そう聞こえた。
咄嗟にナイジェルの胸元を掴んだ。
「そんなの許さない。」
「シノア、分かってくれ。」
「トレシュの側にはいつも私兵が護衛についてる。彼らの訓練を見てたから分かるけど、みんな鍛え上げられた精鋭。近づく事すら難しいはず。」
言い返そうとしてくるナイジェルを、「私なら。」と声を強にして遮った。
「近づける。私の方がチャンスはあるはず。」
ナイジェルは目を見開き、瞬きを繰り返した後、眉根を寄せた。
「だめだ。危険すぎる。」
「ナイジェルほどじゃない。」
頭の良いナイジェルを説得しなければならないのだ。感情的になるのが1番良くない。
気を落ち着かせる為に、小さく息を吐いてから続けた。
「ナイジェルは私とセスを守りたいのかもしれないけど、そんなの私もセスも一緒。さっき逃げ延びてしまったって言ってたのに、私とセスにも同じ思いをさせるつもり?」
「それは…私の役目だ…。」
「そんな役目は無い。私もセスも、ナイジェルと同じ道を行くと決めてる。1人で背負って、1人で死なれたら困るの。」
「失敗を覚悟しているだけで、死のうとしているわけじゃない。」
「つまり成功した方がいいんだよね?」
「それはそうだけど。」
「それなら、警戒されつつも恋人という名目で丁重に扱われる私と、何の面識もないナイジェルと、どっちの方が近づけると思う?」
そんなことはバカでも分かるだろう。前者の私に決まっている。
「それにそもそも、私とナイジェル、暗殺に向いているのは?」
これも私だ。
ナイジェルは行儀の良い剣術を得意とし、そのナイジェルに私もセスも剣術を習ったが、そもそもの身体能力や瞬発力、環境に合わせて戦える対応力等は、森を遊び場としていた私とセスの方が勝っていた。
「ナイジェル、この暗殺は私に任せて、ナイジェルが先にセスと合流して。私が後を追う。」
ナイジェルは簡単には頷かなかった。
片手で頭を支えるようにして、先ほどまでとは打って変わって、弱々しい視線を私に向ける。
「大丈夫なのか?」
「何を今更。何度もやってることでしょ。」
「あの男のことが、好きなんじゃないのか。」
核心を突かれ、抗うようにナイジェルの胸にどんと拳をぶつけた。
「違うって言ってる。」
「…やれるのか?」
「うん。…トレシュを、殺す。」
断固たる決意を見せたつもりだが、内心は不安で心臓が大きく暴れていた。
ナイジェルの目に私はどう映っているだろうか。ちゃんと暗殺者の顔になっているだろうか。
ナイジェルは頷くことはせずに、そっと私を抱きしめた。
「シノア、無理だけはするな。危なくなったらすぐに逃げてこい。」
「うん。」
「ごめん…私のせいで。」
違うよナイジェル。そういう思いでナイジェルの背を優しく撫でた。
誰かが彼を肯定してあげなければならなかった。ナイジェルはいつも苦しんでいたから。
ナイジェル、私に罪悪感なんて抱く必要はない。
なぜなら私は、これからあなたの期待を裏切ろうとしているから。
とはいえ散歩気分でスキップするわけには行かなかった。
尾行されている。こっそりと邸を抜け出してからずっとだ。
恐らくトレシュの私兵の誰かだろう。見覚えがある。
なぜ私を引き留めず尾行にとどめているのかは解らないが、トレシュに伝わる前に、一刻も早く撒かなければならない。
トレシュとはもう縁を切るのだ。
これ以上、関わってはいけない。側にいてはいけない。望んではいけない。
足早に人の多い通りに出た。いきなり小道に入っても、ぴったりとマークされるだろうと思ったからだ。
その為まずは人込みに紛れた。
人を避けて歩くのは得意だ。視線や膝やつま先の向きで、なんとなく、どう動くのかが予測できる。
体の麻痺があってから、元通りに動けるか不安があったが、これくらいはなんともなかった。
荷物を肩に乗せた体の大きい奴隷がこちらの方へ歩いてくるのが見え、私もそちらへ向かった。
その大きな図体と影が重なった瞬間、素早くしゃがむ。地面の何かを拾うふりをして、くるりと方向転換をして立ち上がった。再び人込みに紛れて歩みを進める。
集合住宅が並ぶ細い小道に入ると同時に、警戒しながら後ろを振り向く。
尾行者がきょろきょろと頭を動かしているのが見えた。どうやら見失ってくれたらしい。
尾行者はすれ違う人々と肩をぶつけながら、私がしゃがむ前に向かっていた方向へと探しに行った。
私は通りに背を向け、街中に張り巡らされた小道の中を進んだ。
散乱したゴミの異臭に耐え、角を何度か曲がると、出会い頭にフードの男に腕を掴まれそうになった。ぎりぎりで腕を引いて避け、反対の手で男の喉に突きを食らわそうとしたが、その手は男に掴まれた。
「はは、おっかないな。」
声を聞いて、すぐに手を引っ込めた。すると男はフードを外し、耳の高さまでの波打つ赤毛を露わにした。
「ナイジェル!」
胸の内で喜びが弾け、ナイジェルの胸に飛び込んだ。彼も笑ってハグを返してくれる。
「元気そうで安心した。」
強く抱き合い、満足してから離れた。
顔を見れたのは嬉しいが、喜んでばかりもいられない。
ナイジェルが孤児院を離れるということは、非常事態が起きたということだったからだ。
「こっちへ。」
ナイジェルは再びフードを被り歩き出した。私もショールで金髪を隠し、後を追う。
多岐に渡る細い小道を、ナイジェルは迷いもせずに進んだ。
考えてみれば、ここはナイジェルの故郷だ。ナイジェルは自分のことをあまり話そうとしない為、私もセスも無理に訊いたりしなかったが、慣れた場所なのかもしれない。
懐かしさを感じたりもしているのだろうか。
しかしナイジェルの表情からは、なんの感情も読み取れない。
驚いたことに、ナイジェルの目的地は神殿だった。トレシュとも来たメローニネナ神殿。
どこかに馬でも用意しているのかと思ったが、なぜわざわざこんなに目立つ場所に来たのだろう。
ナイジェルは足を止めることなく敷地内へと進入し、以前行った薬草園とは反対方向に伸びる遊歩道へと進む。
ただの散歩道なのか、ところどころに花壇や彫刻像はあるものの、人が少なく静かな場所だった。
「こんな所に来て大丈夫?」
不安で口に出したのだが、ナイジェルは余裕そうにくすりと笑った。
「シノアだったら怪しい奴を探す時、どこを探す?」
「…なるほど。」
裏路地や治安が悪く、きな臭い地区を探すだろう。神殿など言語道断だ。
「ああいう場所は臭いし汚いし。こっちの方が話をしやすいだろ?」
それを聞いて、指先をもじもじと絡ませた。神経がピリつく。
「ただ帰るだけじゃない、ということね。」
ナイジェルは表情を引き締めた。
「リリーが死んだ。」
聞き間違いかと思った。なぜならリリーは私たちの中で1番若い。
急激に心臓が冷え込み、冷たい血が全身へ送られていく。
「どうして…。」
「トレシュからの書簡を追って帝都へ行ったことは、セスから聞いてるな?」
小さく頷いた。
「リリーは、皇帝からの返信を奪う為に伝令使を襲ったんだ。セスが合流した時には、既に深手を負っていたらしい。」
片手で頭を抱える。
「リリー、どうして…。」
「あいつはシノアが怪我したことで気が立っていた。いや、それだけじゃない。私が殺しをさせない事にもだ。」
リリーは早く一人前になりたがっていた。その為に暗殺任務をしたいと、よく愚痴を溢していた。そうすることで本当に私たちの仲間になれるのだと、そう思っているようだった。
「きっと、成果を上げようと…。私の責任だ。リリーを帝都へ行かせるべきではなかった。無理をするなとは言ったが、聞ける状態ではなかったんだ。」
ナイジェルは俯き、眉間に親指を付けた。
また1人で背負おうとしている。
私はナイジェルの眉間にある手を掴み、その顔を見上げた。
「違う、ナイジェル。これは怪我をした私のせい。リリーを刺激してしまった。」
ナイジェルはくっきりと整った目を見開き、私の首元に指先を這わせた。そして苦しそうに顔を歪ませる。
「お前のことも、あの男の元に送り込むんじゃなかった。」
「どうして?」
「シノア、あの男に抱かれたのか?」
ナイジェルは私の両肩を掴み、真っ直ぐに目を合わせた。
抱かれたとは、つまりそういうことだろうか。
一気に顔が熱を帯び、隠すように俯いて、手の甲を口に押し付けた。
なぜ気づかれたのだろう。
「何を言って…。」
「あの男を慕っているのか?」
「そんなわけ、ない。」
声を絞り出してそう言うと、ナイジェルは顔をしかめて、ゆっくりと瞬きをしながら深く呼吸をした。
「シノア、お前は東に向かい、セスと合流しろ。旅の準備を整えているはずだから。」
「どういうこと?ナイジェルは?」
「私はやることをやってから、後を追う。」
ナイジェルの、決意を込められた瞳を見て、胸中が不安でいっぱいになった。
何か良くない事が起きている。そう直感した。
「もしかして、リリーの仇をとるの?だったら私もついて行く。」
「違う。」
「じゃあ何?ナイジェル、納得できない内は、1人でここを離れることはできない。」
ナイジェルは一瞬驚いた顔をして、少し躊躇ってから重そうに口を開いた。
「トレシュを殺す。」
束の間、呼吸を忘れていた。
心臓を貫かれたような衝撃が走った。冷たい刃が突き立てられ、傷口を広げようとしているような感覚だ。
「殺さないんじゃ…なかったの?」
「事情が変わったんだ。リリーが奪った書簡から、あの男の目的が分かったんだ。」
「目的?」
衝撃に備え、胸を擦ってどうにか自分を律した。
「あの男は、私たちを探していたんだ。帝国高官の連続暗殺犯を。自分が餌になりやすいようにこの地へふらりとやって来て、秘密裏に捜査していたんだ。」
その餌に喰いついてしまったわけだが、とナイジェルは苦い顔をした。
「シノア、恐らくお前は既に捕捉されている。孤児院にも物品の寄付を口実に、あいつの私兵たちが来た。今も見張られている。」
「いつ?もっと早く知らせてくれたら!」
「1週間前だ。早く連絡を取りたかったが、お前は厳重に見張られていて近づけなかった。だからこうやって、お前から出てくるのを待つしかなかった。」
ああそうか。トレシュのあれは、心配でも過保護でもなく、容疑者を監視していたのだ。
甘い言葉も、優しい手も、全て私を閉じ込めておく為の鍵だったのか。
そう考えるとしっくりきた。と同時に、目の奥が熱くなる。唇が震えた。
それでも嫌いになれないのは、今までのトレシュの考え方や人柄全てが演技だとは思えないからだ。
「孤児院…は。」
「全てマニャに任せてきた。ナッザリオも置いていく。」
10年前、孤児院を乗っ取ってすぐに亡くなってしまったアウローラの子、ナッザリオ。ナイジェルが勉強を教え、剣の稽古をつけ、まるで自分の子供のように目をかけている子供だった。
別れるのは辛いが、賢明な判断だと思った。素直で聡明なナッザリオまで、光の届かないこちら側へくる必要はない。
それに、面倒見の良いマニャが付いているなら安心だ。
私はナイジェルの服を掴んだ。
「私はこうやって出てきたわけだから、このまま2人でセスの所へ行こう。田舎で、3人で静かに暮らそう。」
ナイジェルは首を横に振った。
「シノア、あの男は有能かもしれない。社会に必要な人材かもしれない。しかし生かしておけば、いずれまた危機的状況に陥る可能性もある。」
言わんとしていることは分かる。唇を噛みしめた。
「10年前私は、私が守るべき者たちに守られ、逃げ延びてしまった。私にはもう、シノアとセス、お前たちだけだ。力のある者に睨まれた以上、ここで逃げるわけにはいかない。あの男を殺して、お前たちの安全だけは確保する。」
本気だ。本気でトレシュを殺そうとしている。
こうなってはナイジェルの考えはもう変わらないだろう。
けれど、ナイジェルとセスしかいないのは私だって同じ事。
ナイジェル1人に危険を押し付けるなんてできるわけがない。トレシュを見殺しにすることも。
”考えることを止めちゃいけないよ。”
考えてる。足りない頭なりに考えてるよ。
脳内で響くトレシュの声に、苛立ち、反論する。
「無理だよ。」
「無理でもやるんだ。」
死を覚悟している。そう聞こえた。
咄嗟にナイジェルの胸元を掴んだ。
「そんなの許さない。」
「シノア、分かってくれ。」
「トレシュの側にはいつも私兵が護衛についてる。彼らの訓練を見てたから分かるけど、みんな鍛え上げられた精鋭。近づく事すら難しいはず。」
言い返そうとしてくるナイジェルを、「私なら。」と声を強にして遮った。
「近づける。私の方がチャンスはあるはず。」
ナイジェルは目を見開き、瞬きを繰り返した後、眉根を寄せた。
「だめだ。危険すぎる。」
「ナイジェルほどじゃない。」
頭の良いナイジェルを説得しなければならないのだ。感情的になるのが1番良くない。
気を落ち着かせる為に、小さく息を吐いてから続けた。
「ナイジェルは私とセスを守りたいのかもしれないけど、そんなの私もセスも一緒。さっき逃げ延びてしまったって言ってたのに、私とセスにも同じ思いをさせるつもり?」
「それは…私の役目だ…。」
「そんな役目は無い。私もセスも、ナイジェルと同じ道を行くと決めてる。1人で背負って、1人で死なれたら困るの。」
「失敗を覚悟しているだけで、死のうとしているわけじゃない。」
「つまり成功した方がいいんだよね?」
「それはそうだけど。」
「それなら、警戒されつつも恋人という名目で丁重に扱われる私と、何の面識もないナイジェルと、どっちの方が近づけると思う?」
そんなことはバカでも分かるだろう。前者の私に決まっている。
「それにそもそも、私とナイジェル、暗殺に向いているのは?」
これも私だ。
ナイジェルは行儀の良い剣術を得意とし、そのナイジェルに私もセスも剣術を習ったが、そもそもの身体能力や瞬発力、環境に合わせて戦える対応力等は、森を遊び場としていた私とセスの方が勝っていた。
「ナイジェル、この暗殺は私に任せて、ナイジェルが先にセスと合流して。私が後を追う。」
ナイジェルは簡単には頷かなかった。
片手で頭を支えるようにして、先ほどまでとは打って変わって、弱々しい視線を私に向ける。
「大丈夫なのか?」
「何を今更。何度もやってることでしょ。」
「あの男のことが、好きなんじゃないのか。」
核心を突かれ、抗うようにナイジェルの胸にどんと拳をぶつけた。
「違うって言ってる。」
「…やれるのか?」
「うん。…トレシュを、殺す。」
断固たる決意を見せたつもりだが、内心は不安で心臓が大きく暴れていた。
ナイジェルの目に私はどう映っているだろうか。ちゃんと暗殺者の顔になっているだろうか。
ナイジェルは頷くことはせずに、そっと私を抱きしめた。
「シノア、無理だけはするな。危なくなったらすぐに逃げてこい。」
「うん。」
「ごめん…私のせいで。」
違うよナイジェル。そういう思いでナイジェルの背を優しく撫でた。
誰かが彼を肯定してあげなければならなかった。ナイジェルはいつも苦しんでいたから。
ナイジェル、私に罪悪感なんて抱く必要はない。
なぜなら私は、これからあなたの期待を裏切ろうとしているから。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】番である私の旦那様
桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族!
黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。
バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。
オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。
気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。
でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!)
大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです!
神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。
前半は転移する前の私生活から始まります。

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される
風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。
しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。
そんな時、隣国から王太子がやって来た。
王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。
すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。
アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。
そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。
アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。
そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる