夕月の欠片

daru

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第1部

13.

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 なぜブランドンと菜園に来るはめになったのか。それは少し時を遡る。

 朝の診察で、特に気になることがなければ出歩いて良し、と診断された。軽い運動とマッサージ、入浴等が効果的だろうと。

 しかし部屋から出るのはトレシュと一緒の時、と条件付けされているので、午前中はおとなしく部屋で過ごした。
 トレシュが忙しくしており、少し待つようにと言われていたのだ。

 彼が現れたのは昼食時だった。
 一緒に食べよう、と私の部屋に豪華なメニューを用意してくれたのだ。

 今まで何度かトレシュが食べている菓子やフルーツを貰ったことはあったが、目の前に並べられた贅沢品を、好きな物を好きなだけ食べて良いと言われると胸がときめいた。

 食いしん坊、と言ってきたセスの顔が思い浮かぶ。
 今の光景を見たら、さぞ羨むに違いない。
 
 中でも感動したのはワインだった。ワインは水かお湯で割るのだが、トレシュはそこに蜂蜜を混ぜてくれたのだ。
 ほんのりと甘い香りに包まれ、口の中が幸福で溢れた。

「美味しいです。」

 ワインをまじまじと見つめてそう言うと、トレシュは可笑しそうに目を細め、肩を揺らした。

「そんなに目を輝かせてくれるなら、もっと早く飲ませてあげたらよかったなぁ。」

 感情が顔に出ていたのだと気がつき、少しだけ頬が熱くなった。ワインを置き、指がもじもじと絡まった。
 遠慮しないで飲んで、と言われると余計に飲みにくく、誤魔化すように焼き菓子に手を伸ばした。

「午後は何をしたい?」

「もう用事は済んだのですか?」

「とりあえず、シノアを優先しようと思ってね。」

 トレシュの笑顔に胸がざわつく。居心地が悪くなり、視線を外した。

「そうだ、入浴でもしようか?医師も効果的だと言っていたし。」

 すっと頭が冷える。
 絶対嫌だ。

 帝都はもちろん、あちこちの栄えた都市では公衆浴場が流行している。
 しかし、単に身を清める場というよりは、男同士では談話の場、男女となれば密会や売春の場となった。

 公衆浴場ではなく個人の浴室とはいえ、男女で入るのはいかがわしい。が、トレシュも男だ。やはりそういうことに興味があるのだろうか。

 じとりと睨むと、トレシュは再び笑って肩を揺らした。

「あ、じゃあ菜園はどうかな?」

 菜園は主人の居住棟とは別エリアにあり、私が元々使っていた部屋もこのエリアにあった。
 ただ、菜園には菜園の担当者がいた為、いつも通る視界の端に映る程度の存在で、念入りに見たことはない。

「食べたい野菜を収穫したらいいよ。」

「いいんですか?」

「シノアが嫌じゃなかったら。」

 嫌なわけがない。
 孤児院にも小さい菜園があった。ナイジェルや子供たちと世話をしていたが、ここの野菜はやはり他と比べて美味なのだ。

 お礼を言おうとすると、コンコン、とノック音が割り込んできた。

 戸が開き、相変わらず戸の前で待機させられているブランドンが、顔を覗かせた。

「トレシュ様。」

 目でトレシュを呼んでいることが分かると、トレシュは杖を掴み、すぐに向かった。

 大きな声で話したくない内容なのだろう。気にはなるが、何を話していようと任を解かれた私にはもう関係ない。

 トレシュがブランドンと話しているのを確認し、遠慮していた甘いワインを喉に流した。

 不意にトレシュがこちらに目を配り、ばっちりと視線が重なってしまったので、ゆっくりと、なんでもないかのようにカップを置いた。
 しかしトレシュは先程と違い、笑わなかった。真面目な顔をして話を続けている。

 私の話をしているのだろうか。そう考えて、気がついた。

「トレシュ様。」

 彼がこちらを振り向く。

「もしお忙しいようでしたら、私のことはお構いなく。」

 トレシュは悩むように杖をその場で、トントンと鳴らした。

「でも、君と約束していたし。」

「私はいつでも大丈夫ですから。」

 ただ暇すぎて退屈なだけだ。
 部屋中の空気を吸ってしまったのではないかと思うほど、この部屋に籠もっている。

 トン、トン、トン。3回鳴って、杖は止まった。
 そしてため息が1つ。

「仕方ない、か。」

 そう零して、トレシュは「ブランドン。」と、逞しい体つきの私兵の肩に手を置いた。

「シノアに付いて菜園へ行ってくれ。」

 ブランドンは間抜けに口を開けた。

「無礼な態度をとるなよ。護衛をしつつ、必要に応じて手伝うように。」



 そして今、彼は私の付き人となっているわけだ。
 私がトレシュの恋人役になってから、常に尖った視線を向けてくる男。嫌そうな顔を隠しもしない。

 規則正しく盛り上がった土の列の間で作業していた親子の母の方が、立ち上がって私に頭を下げた。すぐ横にいる12歳の少女も同じように真似をした。

 2人とは顔なじみだったが、トレシュが使用人に通達していたらしく、みんな私への振る舞い方がすっかり変わってしまった。

「シノア様、何か御用でしょうか?」

 母親が畑から出てきてかしこまる。
 敬語を使われることには、なかなか慣れない。

「美味しそうな野菜があったら収穫したいんだけど。」

「それではトマトなどいかがでしょうか?ちょうど赤く熟れていたので、お夕食に出して頂こうかと思っていました。」

「見てもいい?」

 私が畑に入ろうとすると、母親が困惑した表情を見せた。

「あの、よろしいのですか?」

 何がだろう。
 首を傾げると、後ろから鼻で笑った声が聞こえた。ブランドンだ。

「トレシュ様から頂いたお召し物をさっそく汚そうとするなんてな。理解できん。」

 イラッとした。

 今までは腹立たしいことがあっても、事を荒立てないようにと流してきたが、もう関係ない。体調が万全になれば、この場を去る身なのだ。

 ブランドン。この男は生まれながらに騎士階級の下級貴族。
 戦場で泥にまみれたことはあれど、自ら土いじりなどしたことがないだろう。

「では、代わりに卿が見に行ってくれますか?」

「なぜ俺が。」

「トレシュ様に言われてましたよね?“必要に応じて手伝うように”と。」

 ブランドンは苦い顔をして言葉を呑み込み、渋々母親に付いていって畑に足を踏み入れた。

 トレシュの金魚の糞め。彼の名を出せば応じると分かっていた。

 とはいえ、せっかく部屋を出てきたのに見てるだけではつまらない。
 結局私も畑に入り、子供のところへ行ってみた。

 子供も働いているかと思いきや、土の中に手を突っ込んで動かないでいる。
 隣にしゃがみ込み、じっと見つめる。

「何やってるの?」

「ひんやりして気持ち良いの。」

 屈託のない笑顔が孤児院の子供たちと重なり、私の頬も少し緩んだ。

 子供の真似をして土の中に両手を突っ込んでみる。
 たしかにひんやりとしていた。これを気持ち良いと感じるほど、一生懸命働いていたということなのだろう。

「野菜のお世話、頑張ってる?」

「うん!」

「偉いね。」

 そう言うと、子供は満面の笑顔を見せた。周りの野菜が一気に育つのではないかと思うほど、眩しかった。

 不意に、土の中で変な感触があった。手を動かしてはいないのに、指の辺りで何かが蠢いている。
 それを掴んで手を引き抜いた。にょろにょろと蠢く正体はミミズだった。

 はははと面白そうに笑う子供に、「しー。」と人差し指を立てる。
 ちらりと後方にいるブランドンに目を配り、こちらを見ていないことを確認した。

「きゃあ。」

 控えめに叫び、ミミズをブランドンに向かって投げた。

 声に振り向くブランドンと、宙でウネウネと身を捩らせるミミズ。
 ミミズは綺麗な弧をなぞるようにして、見事ブランドンの肩に着地した。

 子供は私の隣で笑い転げている。母親がおろおろと慌て、必死に子供を静かにさせようとしていた。

 ブランドンは冷静にミミズを手に取ると、それはそれは黒いオーラを纏って土の列を跨いで来た。
 そして、目の前に投げたミミズを差し出された。

「どうやらミミズが苦手ではないようだが。」

「まぁ、そうですね。」

「なぜ俺に投げたのか訊いても?」

「すみません。驚いて。」

 しれっと答えると、瞬時にブランドンの目が吊り上った。

「嘘を吐け!」

「嘘じゃありません。」

「わざとやっただろう!」

「まさか。」

 まったく、驚きもしないとは面白くない。

「それより大丈夫ですか?」

「なにがだ!」

「護衛が苛めているように見えますよ。私を。トレシュ様のお耳に入ったら大変。」

 怒りのボルテージが上がって行くのがよく分かる。
 なぜこんなに分かりやすい男が、川のせせらぎのように穏やかなトレシュの側近なのか。

「貴様も覚悟しておけよ。貴様のその悪どさを知れば、トレシュ様も一瞬で目が覚めるだろう。」

 ミミズくらいで大袈裟な。

「私と卿と、どちらの話を聞いてくださいますかね?」

 トレシュの判定は平等であろうが、今までの扱いから察するに、ブランドンと対峙をすれば、私を庇ってくれるだろうという自信があった。

 ブランドンは「ふんっ!」と子供のように鼻を鳴らし、野菜の収穫に戻った。
 終始不機嫌ではあったが、しっかり母親の言うことを聞いて収穫していたので、私は満足して夕食のサラダに期待を寄せた。
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