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愉快痛快な一夜が明けた。こんなに清々しい気分はいつぶりだろうか。
死には至らなかったものの、手に持っていたグラスを落とし、苦しそうに倒れゆく夫の姿を思い出すたび、恋が実ったような高揚感を覚える。恋などしたことはないけれど。
とにかく今ならなんでもできそう。
そう思って気を引き締めたが、朝食には、夜更かしをしてまだ寝ているであろうセオとヒューゴはおろか、エイヴリルも現れなかった。
メイドによると、「部屋で頂くわ。」と言うのでその通りにしたらしい。
気が抜けた。
とはいえ昨晩の御礼は言うべきだろう。ランチには誘うべきだ。
その旨を執事長に伝えると、心配性な彼は不安げに眉を潜めた。
「要注意人物ですよ。わざわざ面倒事を買って出るような御方でもないのに、使用人は皆、不信に思っております。」
それはわたくしも考えたことだった。
侯爵位を逃したエイヴリルはかねてよりエドウィンに恨みを抱いていた。毒を盛る動機はあるにはある。
しかし腑に落ちないのは、セオが元気でいること。
仮にエドウィンが死んでも跡を継ぐのは息子のセオだ。侯爵位が欲しいのならばセオの命も狙わなければ意味が無い。
だからこそセオがエイヴリルの息子のヒューゴと仲良くなった時とても警戒したけれど、2人が仲良くしているところを見ると、わたくしにもヒューゴは素直な良い子に思えた。
もちろん完全に信用したわけではないけれど。
「監視は怠らないようにしてちょうだい。」
怨恨だけでバカなことをするとは思えなかったが、一応そう指示をした。
こんなに気分の良い日には、鼻歌でも歌いながら刺繍でもしていたいところだが、面倒な事が多々ある。
まず、昨日のパーティーのゲストたちに謝罪文を送らなければならないし、エイヴリルとヒューゴが邸内にいる為、エドウィンを心配するふりをしなくてはならない。
憎たらしい夫だが、わたくしは完璧な侯爵夫人。外面はおしどり夫婦で通っているのだ。
力の入る眉間をほぐし、彼の寝室へと入った。
当然だが看病をしていたのは夫派の使用人たちだった。執事が2人とメイドが3人。
「ご苦労様。一晩中夫を看ていてくれていたの?」
わたくしが問うと皆頭を下げ、代表のように1人の執事が口を開いた。
「交替で番をしておりましたので、お気遣いなく。」
「そう、ありがとう。今からはわたくしたちで看るから、あなたたちは下がってちょうだい。」
いくら敵対派閥とはいえ、主従関係は変わらない。夫派の使用人たちは怪訝そうに目を見合わせたが、すごすごと下がって行った。
毒を飲んだのに軽症だなんて、頭に来る男。
これまでに何度か毒を盛ったことが、使用人の迅速で的確な対応に繋がってしまうとは皮肉なものだ。
ベッドの脇まで行き、エドウィンの顔を覗く。
高熱が続いているようで、汗をかき、苦しそうに息が声になって漏れている。
その表情を見て一番に思うことは、ざまあみなさい、だった。
ずっと恨んでいた。わたくしを蔑にしたことを。
突然決められた婚姻だったが、わたくしはそれなりに良妻でいるつもりだった。そんな思いを打ち砕いた彼には愛情の欠片も残っていない。
私とエドウィンの婚姻は20年前、私が16歳、エドウィンが18歳の時に結ばれた。
先代侯爵が亡くなり、早くに家督を継ぐこととなったエドウィンの当主としての立場を確立する為に、母同士が同じ派閥で、年の近い私が先代の夫人に結婚相手として選ばれたのだ。
社交界デビューも果たしていなかったが、元より好いた異性もおらず、望んだ婚姻ができるとも思っていなかった為、そんな状況を自然に受け入れた。
翌年には跡継ぎになる男児、セオドアを産んだことで、お義母様はますます喜び、エドウィンの当主の座もより盤石となった。
わたくしはこの家で立派に務めを果たしていると、そう自負していた。
しかし、ある日6歳のセオと手を繋いでエドウィンの書斎を訪ねようと部屋の前まで行くと、耳を疑うような会話が聞こえてきた。
「旦那様、奥様の生誕パーティー用にあつらえた御礼服が届きました。」
「全く面倒だな。」
声から察するに、エドウィンと執事長の会話だろう。
思いもよらない乱暴な言葉に、ドクンと心臓が震えた。
「わざわざそんなパーティーなどやらなくてもいいだろうに。」
「旦那様、皆様行われることですよ。先々年亡くなられた大奥様も、開いていたではありませんか。」
「もう亡くなったのだから、競うように開かなくてもいいだろう。」
競っていらっしゃるわけでは…、と執事長の声は小さくなり、その後エドウィンのわざとらしい大きなため息が聞こえた。
「パーティーのたびに、あの氷のような目をした女と仲の良いふりをする俺の身にもなってみろ。」
「氷などと…。奥様は懐深く、慎ましやかなお方でございます。」
「ふん、お前はすっかりあの女の虜というわけか。慎ましやかと言うのなら、部屋に引っ込んで静かにしていればいいんだ。跡を継ぐ息子もいるし、既に無用の存在なのだから。」
爪が食い込むほど固く拳を握り、怒りでわなわなと震えた。
母上、と心配そうに見上げてくるセオの、エドウィン譲りの黒髪を撫でると、にこりと笑顔を作ることはできた。
「セオ、お父様に御挨拶に伺うのは止めにしましょうか。」
夫婦としての愛情が無いにせよ、感謝こそされど、ぞんざいに扱われる覚えはない。
嫌悪、憤怒、屈辱、悲愴、どんな言葉でも言い表すことのできないこの濁りに濁った感情を消化するのは容易ではなかった。
光も届かない海の底のような目をした薄情な夫など、こちらから願い下げ。
そこで、ある案が思い浮かんだ。まるで天啓が降りてきたように、荒んだ心に光が差した。
そうだ、殺そう。
早く死んでもらって、未成年であるセオドアの当主代理という形でウェップ家を我が物にしてしまおう。
それでこそ嫁いだ甲斐があるというものだ。
結局暗殺は上手くいかないまま13年もの月日が流れ、セオが成人して当主代理としての道は断たれたが、もはやそれは重要ではなかった。
立派に成長した愛らしいセオと、2人で暮らして行けたらそれだけで幸せだ。
その為にも早くエドウィンに毒を盛った犯人と、その目的を突き止めなければ。
もし邪魔な存在なのであれば早々に排除する必要があるし、もしわたくしにとっても利があるのならば、このまま共謀してしまえばいいだけなのだから。
死には至らなかったものの、手に持っていたグラスを落とし、苦しそうに倒れゆく夫の姿を思い出すたび、恋が実ったような高揚感を覚える。恋などしたことはないけれど。
とにかく今ならなんでもできそう。
そう思って気を引き締めたが、朝食には、夜更かしをしてまだ寝ているであろうセオとヒューゴはおろか、エイヴリルも現れなかった。
メイドによると、「部屋で頂くわ。」と言うのでその通りにしたらしい。
気が抜けた。
とはいえ昨晩の御礼は言うべきだろう。ランチには誘うべきだ。
その旨を執事長に伝えると、心配性な彼は不安げに眉を潜めた。
「要注意人物ですよ。わざわざ面倒事を買って出るような御方でもないのに、使用人は皆、不信に思っております。」
それはわたくしも考えたことだった。
侯爵位を逃したエイヴリルはかねてよりエドウィンに恨みを抱いていた。毒を盛る動機はあるにはある。
しかし腑に落ちないのは、セオが元気でいること。
仮にエドウィンが死んでも跡を継ぐのは息子のセオだ。侯爵位が欲しいのならばセオの命も狙わなければ意味が無い。
だからこそセオがエイヴリルの息子のヒューゴと仲良くなった時とても警戒したけれど、2人が仲良くしているところを見ると、わたくしにもヒューゴは素直な良い子に思えた。
もちろん完全に信用したわけではないけれど。
「監視は怠らないようにしてちょうだい。」
怨恨だけでバカなことをするとは思えなかったが、一応そう指示をした。
こんなに気分の良い日には、鼻歌でも歌いながら刺繍でもしていたいところだが、面倒な事が多々ある。
まず、昨日のパーティーのゲストたちに謝罪文を送らなければならないし、エイヴリルとヒューゴが邸内にいる為、エドウィンを心配するふりをしなくてはならない。
憎たらしい夫だが、わたくしは完璧な侯爵夫人。外面はおしどり夫婦で通っているのだ。
力の入る眉間をほぐし、彼の寝室へと入った。
当然だが看病をしていたのは夫派の使用人たちだった。執事が2人とメイドが3人。
「ご苦労様。一晩中夫を看ていてくれていたの?」
わたくしが問うと皆頭を下げ、代表のように1人の執事が口を開いた。
「交替で番をしておりましたので、お気遣いなく。」
「そう、ありがとう。今からはわたくしたちで看るから、あなたたちは下がってちょうだい。」
いくら敵対派閥とはいえ、主従関係は変わらない。夫派の使用人たちは怪訝そうに目を見合わせたが、すごすごと下がって行った。
毒を飲んだのに軽症だなんて、頭に来る男。
これまでに何度か毒を盛ったことが、使用人の迅速で的確な対応に繋がってしまうとは皮肉なものだ。
ベッドの脇まで行き、エドウィンの顔を覗く。
高熱が続いているようで、汗をかき、苦しそうに息が声になって漏れている。
その表情を見て一番に思うことは、ざまあみなさい、だった。
ずっと恨んでいた。わたくしを蔑にしたことを。
突然決められた婚姻だったが、わたくしはそれなりに良妻でいるつもりだった。そんな思いを打ち砕いた彼には愛情の欠片も残っていない。
私とエドウィンの婚姻は20年前、私が16歳、エドウィンが18歳の時に結ばれた。
先代侯爵が亡くなり、早くに家督を継ぐこととなったエドウィンの当主としての立場を確立する為に、母同士が同じ派閥で、年の近い私が先代の夫人に結婚相手として選ばれたのだ。
社交界デビューも果たしていなかったが、元より好いた異性もおらず、望んだ婚姻ができるとも思っていなかった為、そんな状況を自然に受け入れた。
翌年には跡継ぎになる男児、セオドアを産んだことで、お義母様はますます喜び、エドウィンの当主の座もより盤石となった。
わたくしはこの家で立派に務めを果たしていると、そう自負していた。
しかし、ある日6歳のセオと手を繋いでエドウィンの書斎を訪ねようと部屋の前まで行くと、耳を疑うような会話が聞こえてきた。
「旦那様、奥様の生誕パーティー用にあつらえた御礼服が届きました。」
「全く面倒だな。」
声から察するに、エドウィンと執事長の会話だろう。
思いもよらない乱暴な言葉に、ドクンと心臓が震えた。
「わざわざそんなパーティーなどやらなくてもいいだろうに。」
「旦那様、皆様行われることですよ。先々年亡くなられた大奥様も、開いていたではありませんか。」
「もう亡くなったのだから、競うように開かなくてもいいだろう。」
競っていらっしゃるわけでは…、と執事長の声は小さくなり、その後エドウィンのわざとらしい大きなため息が聞こえた。
「パーティーのたびに、あの氷のような目をした女と仲の良いふりをする俺の身にもなってみろ。」
「氷などと…。奥様は懐深く、慎ましやかなお方でございます。」
「ふん、お前はすっかりあの女の虜というわけか。慎ましやかと言うのなら、部屋に引っ込んで静かにしていればいいんだ。跡を継ぐ息子もいるし、既に無用の存在なのだから。」
爪が食い込むほど固く拳を握り、怒りでわなわなと震えた。
母上、と心配そうに見上げてくるセオの、エドウィン譲りの黒髪を撫でると、にこりと笑顔を作ることはできた。
「セオ、お父様に御挨拶に伺うのは止めにしましょうか。」
夫婦としての愛情が無いにせよ、感謝こそされど、ぞんざいに扱われる覚えはない。
嫌悪、憤怒、屈辱、悲愴、どんな言葉でも言い表すことのできないこの濁りに濁った感情を消化するのは容易ではなかった。
光も届かない海の底のような目をした薄情な夫など、こちらから願い下げ。
そこで、ある案が思い浮かんだ。まるで天啓が降りてきたように、荒んだ心に光が差した。
そうだ、殺そう。
早く死んでもらって、未成年であるセオドアの当主代理という形でウェップ家を我が物にしてしまおう。
それでこそ嫁いだ甲斐があるというものだ。
結局暗殺は上手くいかないまま13年もの月日が流れ、セオが成人して当主代理としての道は断たれたが、もはやそれは重要ではなかった。
立派に成長した愛らしいセオと、2人で暮らして行けたらそれだけで幸せだ。
その為にも早くエドウィンに毒を盛った犯人と、その目的を突き止めなければ。
もし邪魔な存在なのであれば早々に排除する必要があるし、もしわたくしにとっても利があるのならば、このまま共謀してしまえばいいだけなのだから。
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