人の身にして精霊王

山外大河

文字の大きさ
上 下
198 / 431
六章 君ガ為のカタストロフィ

ex 暗闇の中で b

しおりを挟む
 前兆なんてものは何もなかった。
 直前に流れていたのはただのどこにでもある様な幸せな時間だ。
 最初に見たホラー映画は強がって平気な顔をしてみせたけれど実は、思わず隣りのエイジに飛びつきそうになる位に怖くて、次に見たコメディ映画は酷く無茶苦茶な内容なのに心から笑わせてくれて。
 隣りに座る大切な人と一緒に怖がり一緒に強がり一緒に笑った。
 そんなありふれた幸せな時間だけがその空間に流れていた筈だった。
 だけどそんな物を打ち破るように崩壊が始まった。
 一か月近い前兆の末に、ついに決壊したのだ。
 今回襲った頭痛は今までの比では無い程に強く激しい。
 いつもならどれだけ痛くても、エイジの前でなら少し痛い位という様な演技をできていた筈だ。隠す事位は出来たはずだ。
 だけど今回は違う。そんな事は出来ない。
 立っている事すらままならず、気休めを言えたのも最初だけ。途中からエイジに言葉を返す事すら困難になってしまった。
 できる事といえばただ割れるような激痛から身を守るように頭を抱えるだけ。
 だがそんな痛みが唐突に消えてなくなった。
 今までの様に痛みが引いてくれた訳では無い。
 まるで海の底にでも沈んだ様に、意識そのものが薄れそれに伴い頭痛も消えた。今までとはまるで違う感覚。

(……)

 微かに残った意識の中で、果たして今自分がどういう状態に陥っているのかなどの事は一切分からなかった。ぼんやりと視界に映る光景が一体どういう物なのかを脳が理解しきれない。
 自分がやっている事が具体的にどういう事なのかという事も理解できない程に、思考回路が弱っている。
 だけどそれでも目の前でエイジが苦しんでいるのはなんとなく分かった。
 それが何によるものなのかはまるで分からないが……それでもそれはなんとかしなければならないと思った。
 エイジが苦しんでいるなら、助けてあげたいと、弱り切った思考回路でもそういう答えを導き出した。
 だけどそんな意思で体の自由が戻るわけでは無い。じわじわと意識が覚醒し始めたのはただただ偶然のタイミングだったのではないかと思う。
 少しづつ意識が戻ってきて初めに感じたのは重量感だった。それは自分が目の前の物を両手で持ち上げているからだという事は少しづつ回復してくる脳が理解していた。
 だがまだそれがどういう事を意味するのかという事までは頭が回らない。自分が何をどうやって持ち上げているかは分かっても、それがつまりはどういう事なのかという事にまで意識が回らない。
 だけどそれも徐々に理解しはじめ、エイジの言葉でそれが脳が覚醒しはじめる。

「エ……ル……ッ」

 そうして苦悶の声を上げるエイジはエルの手首を握っていた。
 まるで自分からエルの手を引く離そうとするように。
 自らの首を絞めて持ち上げるエルのその手から脱する為に。

「……ぁ、え? ……あぁ?」

 ようやく状況を理解して慌ててエイジの首を絞め上げていた両手を離し、数歩後ずさって尻餅を付く。

「え……いや、あ、私、一体何を……」

 そんな言葉を口にしなくても本当は分かっている。
 今自分はこの両手でエイジの首を絞めていた。
 エイジの首を絞めて殺そうとしていたのだ。

「あああああああああああッ!?」

 思わずそんな声が出て、全身から血の気が引いた。
 首を握り絞める感覚が消えない。今まさにエイジを殺そうとした感覚がその手にこべりついている。
 そして目の前ではエイジが床に膝を付けながら激しく咳き込んでいた。
 窒息寸前まで首を絞められた結果だ。体が酸素を求めて過呼吸に陥っている。

「エイジさ……」

 そんなエイジに手を伸ばそうとした。
 目の前で酷く苦しんでいるエイジを見た事による自然の動き。
 その自然な動作でエルは手を伸ばした。
 今の今までエイジの首を絞めていたその手をだ。

「……ッ」

 それに気が付いて思わず手を引いた。
 怖かった。
 だって自分は無意識の内に大切な人を殺めようとしていたのだ。
 伸ばしたこの手で。まさに彼を殺そうとしていたその手で自分が一体何をするのか分からなかった。
 ……今度こそ本当にエイジを殺してしまうんじゃないかと怖くなった。
 そう考えたらもう訳が分からなくなってしまった。
 自分が怖くて仕方がなかった。
 震えが止まらない。手の感覚が消えない。きっと今まで感じてきた恐怖の中で最も強いのが今の自分に対する物だった。
 エイジを殺す自分に対する物だった。
 混乱。錯乱。
 とにかくとにかく、訳が分からなくなって。まるでエイジから遠ざかる為の様に部屋を出て家を飛び出した。
 豪雨と落雷が蠢く池袋の街に、そうして一人の精霊が逃げだした。
 当てもなく、何もなく。
 きっと深い暗闇の底へと落ちながら。
 その中で光に向って必死に手を伸ばしながら。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

我が家に子犬がやって来た!

もも野はち助(旧ハチ助)
ファンタジー
【あらすじ】ラテール伯爵家の令嬢フィリアナは、仕事で帰宅できない父の状況に不満を抱きながら、自身の6歳の誕生日を迎えていた。すると、遅くに帰宅した父が白黒でフワフワな毛をした足の太い子犬を連れ帰る。子犬の飼い主はある高貴な人物らしいが、訳あってラテール家で面倒を見る事になったそうだ。その子犬を自身の誕生日プレゼントだと勘違いしたフィリアナは、兄ロアルドと取り合いながら、可愛がり始める。子犬はすでに名前が決まっており『アルス』といった。 アルスは当初かなり周囲の人間を警戒していたのだが、フィリアナとロアルドが甲斐甲斐しく世話をする事で、すぐに二人と打ち解ける。 だがそんな子犬のアルスには、ある重大な秘密があって……。 この話は、子犬と戯れながら巻き込まれ成長をしていく兄妹の物語。 ※全102話で完結済。 ★『小説家になろう』でも読めます★

ここは貴方の国ではありませんよ

水姫
ファンタジー
傲慢な王子は自分の置かれている状況も理解出来ませんでした。 厄介ごとが多いですね。 裏を司る一族は見極めてから調整に働くようです。…まぁ、手遅れでしたけど。 ※過去に投稿したモノを手直し後再度投稿しています。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます

七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。 「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」 そう言われて、ミュゼは城を追い出された。 しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。 そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……

ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活

天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――

クラス転移で無能判定されて追放されたけど、努力してSSランクのチートスキルに進化しました~【生命付与】スキルで異世界を自由に楽しみます~

いちまる
ファンタジー
ある日、クラスごと異世界に召喚されてしまった少年、天羽イオリ。 他のクラスメートが強力なスキルを発現させてゆく中、イオリだけが最低ランクのEランクスキル【生命付与】の持ち主だと鑑定される。 「無能は不要だ」と判断した他の生徒や、召喚した張本人である神官によって、イオリは追放され、川に突き落とされた。 しかしそこで、川底に沈んでいた謎の男の力でスキルを強化するチャンスを得た――。 1千年の努力とともに、イオリのスキルはSSランクへと進化! 自分を拾ってくれた田舎町のアイテムショップで、チートスキルをフル稼働! 「転移者が世界を良くする?」 「知らねえよ、俺は異世界を自由気ままに楽しむんだ!」 追放された少年の第2の人生が、始まる――! ※本作品は他サイト様でも掲載中です。

婚約破棄された私と、仲の良い友人達のお茶会

もふっとしたクリームパン
ファンタジー
国名や主人公たちの名前も決まってないふわっとした世界観です。書きたいとこだけ書きました。一応、ざまぁものですが、厳しいざまぁではないです。誰も不幸にはなりませんのであしからず。本編は女主人公視点です。*前編+中編+後編の三話と、メモ書き+おまけ、で完結。*カクヨム様にも投稿してます。

八百長試合を引き受けていたが、もう必要ないと言われたので圧勝させてもらいます

海夏世もみじ
ファンタジー
 月一に開催されるリーヴェ王国最強決定大会。そこに毎回登場するアッシュという少年は、金をもらう代わりに対戦相手にわざと負けるという、いわゆる「八百長試合」をしていた。  だが次の大会が目前となったある日、もうお前は必要ないと言われてしまう。八百長が必要ないなら本気を出してもいい。  彼は手加減をやめ、“本当の力”を解放する。

処理中です...